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異変

 ──手を伸ばす。視線の先では母親と兄が手をつないでいて、自分もそこへ加わりたかった。駆けて、走って。どんなに近づこうとしても永遠に届かないそんな気がした。


 諦めてうなだれて、地べたに座り込んで横になって。大声で泣く。


 慌てて駆けてきた兄は心配そうに手を伸ばしてくれたが、その手をつかむ前に母親がまた兄の手をつないだ。


 顔を上げれば母親はどこか何か遠くを見ていた。視線は自分をすり抜けて、ありもしない何かを見ている。


 伸ばした手に気がつくことなく、母親は兄を連れて先を行く。もう片方の手はすすを被ったような真っ黒な手が引っ張っていた。手だけではない気がつけばいつの間にか無数の黒い手が母親の身体を取り囲んでいた。


 全身が震える。口が大きく開く、息を吸い、口から──。





 幼い悲鳴が遠くに聞こえた気がして、美月は目を開いた。


(……夢……?)


 スマホのアラームが鳴っていた。少しでも目覚めを良くしようと思って選んだ小鳥の囀りだ。慣れた手付きでアラームを止めると、まだ眠い目を擦った。


 指に何かが付着した。


(涙……?)


 泣いていたことに気がつくと同時に半分まだ夢の中にいた頭がゆっくりと動き始める。


 美月の兄、弓弦ゆずるは何日か前から母親と一緒に田舎へと帰っていた。理由はわからない。美月の母親は気まぐれで、突然思い立っては有無を言わさず兄と二人でどこかへ行くことが多かった。今回は兄が18歳の誕生日を迎えたその日に、急に田舎に帰ると言い出して身支度を始め、本当に次の日の早朝にはいなくなっていた。


 美月は何度か寝返りを打つと、ベッドに潜り込んだままスマホをいじり始めた。寝ている間の通知を確認したあとメッセージアプリを開くと、笑顔の兄のアイコンをタップした。


(まだ返事は来てない。私が送ったのが3日前だから、兄さんが田舎に帰ったのも3日前か)


 額に伸ばした腕を当てる。目を瞑って夢の内容を思い出そうとするも、かすみのようにほとんど思い出せなかった。


 母親から連絡がないのはいつものことだが、兄から3日も連絡がないのはおそらく初めてのことだった。


(それに、昨日乃愛に見せられた……なんだっけ? ……「白無垢の恋唄」……あれのせいだ)


 よくないもの、と直感的に感じてしまったからか妙に頭に引っかかり、昨夜寝る直前もそのことを考えてしまった。乃愛には見せなかったが、暗がりに白い光が一瞬映った動画もなぜか何度も思い出してしまう。


 だいたい短歌が物悲しい。というよりもどこか詠み手の執念を感じる──と美月は思う。


(確か……永久に先君をば待たん暗闇に花の塵ゆく定めとしても)


 そのまま読み取るのであれば、「どんな暗闇にいても永遠にあなたを待つ」、そんな感じの意味になる。誰かを永遠に待つなんて、それを詠んだ人の心中を想像すると。


(ゾッとする。……でも、誰かを本当に好きになるということはそういうことなのかな? そもそも短歌だし)


 短歌の後半の花と重ね合わせてなんとなく綺麗に見える。白無垢も和式の花嫁衣装のことだろうし、少なくとも、乃愛はきっと話し半分くらいは効力を信じていて、SNSのなかでは多くの人が投稿していた。きっと、そういうものなんだろう。


 そう結論づけたところで、美月はスマホの画面を閉じると声を出しながら一度大きく伸びをすると、ベッドから起き上がった。


 長袖の白シャツにボーダー柄の長めのパンツというシンプルなルームウェアを着たまま歯磨きを済ませると、美月は綺麗に整えたキッチンの前に立った。


 フライパンに米油を垂らし、火を点ける。十分に温まる間に冷蔵庫からウインナーを取り出すと、包丁で綺麗に切れ目を入れていわゆるタコさんウインナーを作った。


 タコさんウインナーは兄、弓弦の子どものときからの好物だ。もう高校3年生にもなると言うのに、食事にウインナーを出すときはこのウインナーを所望し、前に忙しくて時間がないときにただ表面に斜めに切り目を入れただけのウインナーを出せば、「タコの奴じゃねえーのかよ」などと文句を言ってきた。


 美月は、「どこのモラハラ夫だよ」と返したが、内心自分とは違い母親に甘やかされて育っているから仕方がない部分もあるかと不思議と納得している自分もいた。


 フライパンにウインナーを投入する。続いて、空いたスペースに卵を2つ割り入れて目玉焼きをつくる。炒めている間に、玉子焼き専用の四角いミニフライパンを出して同じように火を点けると、そこに入れるべき卵液を混ぜ始めた。


(しょうがない。兄さんは昔からそうだし、お母さんも昔からそうだ)


 兄とは対照的に美月は自分でも自覚するほど実に厳しく育てられた。物心ついたときにはすでに自分で身の回りのことは済ませていた記憶がある。小学生に上がる頃には、踏み台を使って料理をしていたし、中学生になるともう家事は全て美月の仕事だった。


 美月は長らくそれが当たり前だと思っていたのだが、乃愛と話をしたり、クラスメートの会話に耳を傾けていると、どうも他の家では母親か父親か、どちらにせよ親が家事をすることが当たり前らしい、ということがわかった。


 玉子焼きは兄がしょっぱいのが好みだった。甘いのが好きな美月は以前は2回玉子焼きを作っていたのだが、面倒くさくなって今は兄に合わせて卵液に醤油を一回ししている。適度に混ぜ終わったところで、火力を調整したフライパンに入れる。


 形の整った玉子焼きを作るには、時間との勝負の側面もある。これも、両面焼きが好みだという兄に合わせて目玉焼きをひっくり返すとフライパンに蓋をして火を止めた。その間に玉子焼きはちょうどいいくらいに固まり、菜箸で玉子をくるくると回していく。


 完成した玉子焼きはまな板に移し、熱を冷ます。次に美月は冷蔵庫を開けて、冷凍のコーンとほうれん草を取り出すと、別のフライパンをコンロの上に乗せて適当に入れて火を点ける。


 一度手を洗うと、包丁を手に熱々の玉子焼きを切っていった。


(一度だけ、お母さんに聞いたっけ……。遠回しに「乃愛のお母さんの料理は美味しいんだって」とか、そういう言い方だった気がする)


 そのときの母の表情を思い出すと、美月は今でも背筋が寒くなる思いがする。眉を吊り上げ、満面の笑みを浮かべていた。でも、目は全く色がなく、怒りなのか哀しみなのか、それとも嬉しいのか、よくわからない表情だった。


 母は表情を変えただけで何も言わず、リビングから自室へと戻っていった。そして、それきり美月は母に疑問を呈するでもなく、反抗するでもなく、弓を射る動作と同じように何も考えずに日々家事を繰り返している。


 コーンの弾けた音で我に返ると、美月はようやく気づいた。朝食と昼のお弁当、2人分(・・・)を作ってしまっていたということを。


(……そうだった。兄さんいないんだった。しかも、お弁当もいらない)


 ふっと微笑みを浮かべると、美月はお昼用を弁当箱に詰めると、兄の分と合わせて冷蔵庫にしまい、残りのタコさんウインナーと両面焼きした目玉焼きをテーブルに置いて、茶碗に盛ったご飯と一緒に朝食を食べ始めた。


「いただきます」



 街中に咲き誇る桜の木を眺めながら美月が弓道場へ着くと、部員が中央で集まり何かを話していた。それも男子と女子両方の部員だ。


(……緊急ミーティング?)


 制服のスカートのポケットに入れたスマホを見るも、部からの連絡は入っていなかった。弓道着姿の部員は誰もおらず、みんな制服でいることから今しがた何かが起こったのか、と美月も急いで中央の輪に入った。


 すぐに気がついたのは、みんなこれまで見たことがないような深刻な面持ちをしていることだった。大会の前や段級審査のときももちろん不安や緊張でピリッと張り詰めた真剣な雰囲気になることもあるが、ここまで悲壮感が漂うような空気になったことはない。


 話をしているのは副部長と男子弓道部の部長と二俣だった。周りの部員がざわざわと話している中、二俣の焦った声に耳を傾ける。


「──つまり、加護さんと森久保さんの2人と連絡が取れないということでいいのかな?」


(加護? 加護先輩のこと? じゃあ、もう1人は森久保……先輩?)


 美月は月に一度の合同練習の記憶を思い返していた。森久保がわざわざ自分の横に立ち、弓の持ち方や動作を教えてくれた姿が目に浮かぶ。別け隔てなくよく目を掛けてくれる先輩だと、美月は思っていた。


 黒髪ベリーショートの副部長は強くうなずくと身振り手振りでさらに詳しい状況を説明する。


「そうです! 今日、ここへ来たら彩乃と仲良くしている2年生2人から、昨日の夜から連絡がつかないって言われて、私も連絡してみたんですが全然つかまらなくて」


 2年生の2人とは、昨日更衣室で加護先輩と話していた2人だろうと、美月は30人ほどの部員から2人の姿を探した。


(いた。でも、顔色がおかしいような……)


 ポニーテールで髪の毛をまとめた1人は困ったような顔をして、訴える副部長の顔を見つめていた。しかし、なぜか下を向いているもう1人は長い前髪で表情は読み取れないものの蒼白い顔をしていた。


 何か知ってる──そう考えたときに外野から声がして思考が途切れてしまった。


「おっ! 美月ちゃん来たじゃん!」「何? 弓道部、練習やらないの!? 俺ら美月ちゃんの練習見にきたんだけど!」


(あいつら、こんなときまで!!)


 さすがに許せないと文句の一つでも言ってやろうと近づこうとしたそのとき、二俣の口からこれまで聞いたことのない怒声が飛んだ。


「いい加減にしろ! お前ら、もう出てけ!! 二度と来るな!!!」


 弓道場の空気が震えた気がした。誰も声を発することができずに急に静まり返る。


 場の空気を察したのか、それとも弓道場にいる全員の視線が向けられているのが居心地悪くなったのかはわからないが、美月目当てで集まった男子生徒たちは一言、二言何か喚き散らしながらすぐにその場からいなくなった。


「せ、先生……」


 丸刈りの男子弓道部の部長が、普段怒ることのない、怒ったとしても恐怖を感じることのなかった二俣に、恐る恐るといった様子で声をかける。


 二俣は眼鏡を上げると、いつもの柔和な笑顔を見せて軽く手を振った。


「ごめん、ごめん。さすがに耐え切れなくて。古塚さんも悪かったね」


「あっ、いえ……」


 あまりの衝撃に他の部員と同じように面食らった美月の口からはあまり言葉が出なかった。


「そうだ。古塚さんも何か知ってることがあったら教えてほしい。森久保さんと──」


「加護先輩と連絡が取れないんですよね?」


 美月は、瞬きを一つする。二俣の急な大声には驚いたし、昨日、先輩に言われたことが頭を掠めたが、今はそれどころではない。


「私は何も知らないですけど、2人の親御さんには連絡が取れたんですか?」


 二俣はまた眼鏡を上げた。


「ああ、そうだった。まず2人の親に確認してみる。たまたま2人とも休みってこともあるからな。悪いが、ちょっと今日は練習を休みにしよう。男子と女子の部長と副部長、それから加護に連絡したという2人以外は、みんな解散だ」


 二俣がゆさゆさとお腹を揺らしながら、急いで弓道場を出て行ったあと、一人、また一人と鞄を片手に帰っていく。


 美月はタイミングを見計らって、昨日加護と一緒にいた2人の先輩に話しかけた。


「あの、すみません」


 2人は何も言わず、怪訝そうな顔で首を傾げた。


(こういうときは単刀直入に聞いた方がいい。……どうせ、嫌われているんだから)


「先輩、何か隠していませんか?」


 視線を向けたのは、二俣が怒る前にずっと俯いていた髪色が少し茶色く毛先にウェーブをかけた先輩の方だった。


「な、何? 急に」


 少し後ずさったのを美月は見逃さず、さらに言葉を畳み掛ける。


「加護先輩のことです。私、先輩には嫌われていたかもしれないですけど、それとこれとは別です。何か知ってるなら、話した方がいいと思います」


 何も答えは返ってこなかった。その代わりに美月はもう一人のポニーテールの先輩から胸を強く押された。


「何? 変なこと言ってんのよ! あんたが、あんたが何かしたんじゃないの!?」


 美月は、きっと相手を睨みつけた。


「私は何もしてないし、何も知りません。……でも、勘違いだったらすみません。……失礼します」


 いつものように頭を下げると、美月はまだ残っているみんなの好奇の視線のなか足早に弓道場を出ていった。





 家のドアを乱暴に閉めると、制服のままに2階の自室へと上がりベッドにダイブした。無地の白い枕を両手でつかむと、抱き締めて二度、三度と寝返りを打つ。


 どうしてあんなことを言ってしまったのか、美月にもわからなかった。いつものとおり無関心でいればよかった。何を言われても気にせず、涼しい顔で生活を送ってきたのだ。正義ずらして事実をただし、真実を明らかにするようなことをする必要はなかった。


(だいたい私は本当に何も知らないんだから知らない顔して真っ直ぐ帰ればよかったんだ)


 今になって不安が襲ってくる。あのときは先輩が何かを隠していると思ったのだが家に帰り冷静に考えると、そうじゃない可能性がいくつも思いつく。先輩はただ、いなくなったことが怖くなってショックを受けていただけなのかもしれない。そうだとすると。


(──また、部での印象が悪くなっちゃうな)


 美月は枕を胸の上で抱いたまま、天井を見上げた。真っ白な天井には長年住んでいた証のようにところどころ染みが目立っていた。


 ぼうっと、染みの数を数えていると突然今朝方の夢を思い出す。母親の手を黒い手がつかみ、続いて1つ2つと全身を覆うように黒い手が増えていく。まるで母親をどこかへ連れて行こうとするかのように。


 体がゾワッと震えて、背中に冷たいものが走る。目を閉じると夢は霧散するように消えた。


 思えば、無関心なのは母親に対しても同じだった。


 美月は、父親の存在を知らない。遡れる記憶の最初から、家には兄と母親と自分しかおらず、生まれたときには父親がいたのか、兄が生まれたときにはどうだったのか、離婚なのか死別なのか、そもそも籍を入れたのか入れていないのか、何も知らなかった。


 母親に聞こうと思ったこともない。というよりも何かを尋ねていい雰囲気は皆無だった。料理の話もそうだったが、そもそも母親と他愛もない何かを話す、という行為が自分には許されていない、認められていないことをなんとなく感じ取っていたからだった。


 美月には母親と久しく会話した記憶はない。3人で食卓を囲むこともほとんどない。あるとすれば兄の誕生日くらいで、それも黙って美月が用意した誕生日らしいピザや手巻き寿司、フライドチキンなどのご飯とホールケーキとを食べるだけで、仮に口を開いたとしてもこの間みたいな突拍子もないことを言い出すか、兄の話ばかりだった。普段は兄と2人だけの食卓なので、母がいるとわかれば逆に緊張してしまうほどだった。まだ、誰か全く知らない人と食事をする方が気が楽かもしれない。


 兄は母と普通に話ができるようで、美月の用件は全て兄を通じて母親に伝え、母親の方も美月への用件は兄を通じて伝えてきた。何か部活をするように勧めたのも兄、というよりは母親からの要請だったのかもしれない。兄の思いだけで、そこまでしつこく部活に入ることを勧めるとは、考えにくいからだ。


 いろんな考えが頭の中を巡る。やっぱり少し疲れたのかもしれない、と美月は思い、また寝返りを打つ。


 初めは兄への当てつけで兄の弓弦という名前から弓道部へ入っただけだったのに、今は悩みの種になっている。


(お母さんは何を考えてるんだろう。そして、私に何を求めてるんだろう)


 たまにリビングで見かけてもどこか「遠い目」をしている母親の視界には、自分が入る資格はないのかもしれない、とすら思うときがあった。


 母親の目には兄しか映っていないのだろうか。私は、兄を支えるための道具でしかないのだろうか。


 そんなことを思いながら美月は、いつの間にか意識を暗闇に預けて、束の間の眠りについていた。 

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― 新着の感想 ―
[一言] まだ始まったばかりですが、呪いのおぞましさや執念じみたもの、主人公三月の家族関係、乃愛との関係がジリジリと迫ってくるようでとてもおもしろいです。 ゆっくりペースですが、また読みにきます。
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