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白い女

 弓道部の部活が終わり、いつものように加護かご彩乃あやのは仲のいい部員と他愛もない話をしたあと、ファストフードのお店を出た。


「お疲れ様でした彩先輩!」


「お疲れ様〜」


 1年後輩の2年生二人と手を振って別れると、加護は頬を緩めながらそわそわと早足で歩き出す。


 時間としては午後5時過ぎ。日はもう傾いてきており、辺りは真っ赤な夕暮れに染まっていた。


 後輩たちからだいぶ離れたところで後ろを振り返ると、加護は近くにあった自販機の横に立ち止まり、制服のスカートからスマホを取り出した。


 透明感、ガラス感があるオフホワイトのスマホの画面を開き、メッセージアプリを開く。トップに表示されているもり久保くぼ悠人ゆうとの名前を見るだけで、加護は鼓動が早くなっているのを感じていた。


(……本当に、連絡が来るなんて思わなかった……)


 森久保悠人は、加護と同じ3年生、そして同じクラスだった。森久保が覚えているかどうかはわからないが、加護と森久保は3年間同じクラスで一緒だった。


 柔らかな笑顔に端正な顔立ち、性格もよく優しい。それになにより、森久保は男子弓道部のエースだった。


 運動ができる男子高校生は、花形のバスケやサッカー、テニス、野球などを選ぶことが多く、弓道部を選ぶ人は少なかった。加護は中学から続けている流れで弓道部に入部したが、同じ弓道部に森久保が入ることを決めたときは同じクラスから入部者が出たことで素直に嬉しかった。


 森久保のフォームは初心者と思えないほど美しく、そして華があった。月に一度ある共同練習でも苦手な子や不得手な子にも丁寧に弓を教えていて、その姿勢と性格から同じ女子部員からも密かに人気があった。


 加護が自然と森久保の姿を目で追うようになるまでさほど時間はかからなかった。


 何度か告白されたという噂も聞いたことがある。けれど、森久保は誰とも付き合うことはしなかった。一人で優しく誰にでも平等──女子の人気は広がっていく。


 どうにかなりたいと思ったわけではない、ただその美しいフォームを遠くで眺めているだけで加護は満たされていた……はずだった。


 加護は袴姿の森久保のアイコンをタッチする。画面をスクロールさせて、少ないやり取りの一番上のメッセージを見た。もう何回、何十回と見たメッセージだ。


〈急に連絡してごめん、弓袋破けちゃって新しいの買おうと思ってるんだけど、加護ってどんなの使ってたっけ?〉


 本当に急だった。急、というよりも個別で連絡が来るのは初めてのことだった。クラスグループや部のグループではやり取りをしたことはあっても、個別ではまずありえないことだった。同じ弓道部ということ以外は、特別な接点がなかったからだ。


 それから何度かメッセージを往復し、あれよあれよという間に今日、一緒に買い物に行く約束を取り付けたのだった。


 加護は、今から向かうことをメッセージで送る。返信はすぐに来た。


〈先に行って待ってる。実は楽しみすぎて早く来ちゃったんだよね笑〉


 思わずにやけてしまう顔を隠すために、加護は左手で口を覆った。


(こんなっ! 本当に夢みたい!)


 お互い3年生になり、新1年生を迎えてしばらくの頃、森久保が女子弓道部の練習を見に来ることが多くなった。理由はすぐにわかった。


 あの子(・・・)、だ。無愛想でとっつきにくく誰と群れるわけでもなく常に一人でいる。古塚美月。


 確かに目を引く美人だ。スラッと背も高くスタイルもいい。アイドルやモデルと言われても納得してしまうほどの美貌を備えていた。そして、悔しいことに弓の腕前も相当なものだった。聞けば加護と同じ中学から弓をやっているにも関わらず、その実力の差はもう埋められないほどに開いていた。


 これまで平等に注がれていた森久保の視線は、古塚美月一人に注がれるようになった。共同練習のときは顕著で、森久保は古塚美月の指導ばかりをしようとする。


 古塚美月に群がる馬鹿な男どもとは違うが、加護にとっては同じことだった。


(なのにあの女は、気にも留めない。悠人に見つめられているのに、恥じらいも戸惑いも何もなく平然としている)


 ──あの女は、悠人から好かれることを当たり前だと思っているんだ。


 メッセージアプリを閉じると、次に加護はSNSを開いた。


 数日前に上げた自分の投稿を見る。


〈永久に先悠人(・・)をば待たん暗闇に花の塵ゆく定めとしても〉





 加護と森久保が駅を出たときには辺りはもう夜の闇に包まれていた。


 1羽のからすが耳障りな声で鳴き、翼を広げてどこかへと飛んでいく。急に目の前を飛び去った烏に加護は声を上げて驚きその場で転んでしまった。


「大丈夫!?」


「う……うん、大丈夫」


 差し出された手をつかむ。がっしりとした、しかし手のひらの温かい感触が伝わり急に恥ずかしくなった。


「あっ、ごめん……」


 相手も同じだったのか、森久保の声が上擦る。支えられながら立ち上がると、温かい感触が離れていく。


 メッセージを送ったあとにスポーツショップへと向かった二人は、目的の物を購入したあともすぐに解散せずにゲームセンターやカフェなどで共に同じ時間を過ごし、遅くなってしまったからと森久保が加護の家まで送り届ける途中だった。


 中心部から離れた駅では出口から出てくる利用者も少なく、人通りもまばらだった。二人は肩を並べて残り僅かな時間を惜しむようにゆっくりと歩いていく。


 暗がりを照らす古い街灯がジジジ、と音を立てている。


 静かだった。喧騒に包まれた街中も好きだったが、今は森久保の息遣いが聞こえてきそうなこの静けさが心地よかった。息遣いだけではない、この距離ではもしかしたら早鐘を打つ心臓の音も聞こえてしまいそうだった。


 加護は、思わず胸元を手で抑えた。


「……なんか、不思議だったんだよな」


 前を向く森久保の形の良い口が言葉を紡いだ。


「弓袋が破れてさ、どうしよーって思ったらなぜか彩乃のことが頭に浮かんでさ。同じ弓道部だけど、正直なところ、今までただのクラスメートだと思ってたからさ」


 ちらりとこちらに涼しげな目が向いた。森久保が微笑むだけで、体が硬直してしまいどうしたらいいのかわからなくなる。


(今まで? ──じゃあ、今は?)


 その先を期待してしまう。今日は本当に時間を忘れるくらい楽しかった。ショッピングもゲームセンターもカフェも、後輩や友達と何度だって行ったことがある。それなのにそのどれもが鮮やかなくらいに新鮮だった。


 森久保の目がまた前を向き、口が開く。その口が何を言うのか、加護はじっと見入ってしまっていた。


「彩乃のことが頭に浮かんだとき、なんていうか、こう、すぐに連絡したくなったんだ。そうしたら彩乃から一緒に買い物に行ってくれるってメッセージが送られてきてさ。……正直、嬉しかった」


 名前を呼ばれるときも、加護と呼ばれるのがノーマルだった。下の名前で呼ばれたのはついさっきだ。彩乃、彩乃、もっとそう呼んでほしいと願ってしまう。


 特別だった。何もかもが。森久保の口から出る言葉は全てが美しく聞こえた。ずっと眺めることしかできなかった美しいフォームの彼が、今は自分の横に、目の前にいる。手を伸ばせばすぐに届きそうな距離にいる。


「……彩乃」


 急に立ち止まった森久保の顔が正面を向いた。そして、加護が胸元に置いたままの手をもう一度つかんでくれる。


「急で驚くかもしれないけど、俺──」


 微かな街灯が彼の顔を照らす。ほのかに赤い頬はこの先の展開を暗示しているようで、加護の鼓動をさらに乱れさせた。


 躊躇いがちに一度閉ざされた唇が、柔らかそうな唇が開いた。


 突然街灯が消えて、辺りは静寂という名の闇に覆われた。


「あっ、あれ?」


 二人して真っ暗闇の空を見上げる。


「電気が消えたのか? こんなときに」


 老朽化した電灯が消えた。それはよくあることかもしれない。


「……ゆ、悠人。ち、違う」


「違う? ……えっ、なんで?」


 森久保はキョロキョロと周囲を見回す。老朽化した電灯が消えるのはありえる話だが、全ての(・・・)電灯が同時に消えるのはありえない。


 加護はつかまれたままの森久保の手を握った。


「なに? どういうこと? 一体何が起こって──」


 どこかから足音がした。真暗闇の中に密やかに。ただしはっきりと。普通の足音ではない、と加護は震える耳の奥で感じ取っていた。擦れるような音、地面を擦るような足音が次第次第に近づいてくるような気がする。


 震えていた。確かに加護の体は震えていた。


 ──ただの足音だ。いくら人気が少ないと言っても全く人が通らないような獣道でもない。普通の公道。駅から住宅街へと繋がるどこの街にもあるような何の変哲もない一本道。


 そう意識が働くものの、体は真逆に震えている。初めて弓を射ったときの感覚に似ている気がした。頭では順序通りやればいいとわかっているのに、体が指先がどうしようもなく震えてしまう。


 その根源は、恐怖だ。


「に、逃げろ! 彩乃!」


 森久保の声が弾けた。腕が思い切り引っ張られる。前を向く前に視界の隅に捉えたのは、白い、白い何かだった。


 二人は懸命に走る。後ろを振り向くこともせず、立ち止まることもなくひたすらにがむしゃらに足を動かしていた。


(おかしい)


 暗闇はどこまでも続いている気がした。森久保の肩口から見える先も街灯のあかりはついていない。ここまで真っ暗だとしたら、停電でも起こったと考える方が自然だ、と加護は頭を巡らせた。


 だが、それを口に出すことははばかれた。わかっている。ただの偶然だ。急に暗闇になったことも、からすが羽ばたいたことも、不気味な足音も、白い光も全部が偶然か見間違い。その可能性の方が大きい。というよりも、きっとそれが真実のはずだ。


 なのに、そうじゃないと体が否定する。森久保の手から離されないようにと全速力で走っているにも関わらず、全く熱くはならず鳥肌が立つほど凍える体が、現実に基づいた事実と真実を否定する。否定というよりも、それはもはや拒絶だった。


 初めて見る必死の形相で走る森久保の息が荒くなっている。加護自身はとっくに息が切れていた。暗闇がこのまま続くのならば、いつまで走らなければいけないのか。家に逃げ込めば終わるのか、あるいは朝日が上るまで走り続けなければいけないのか。どちらにしても体力が持つはずがないことは明らかだった。


 かと言って後ろを振り向くわけにはいかなかった。振り向いた瞬間、闇に呑み込まれてしまう気がした。白い光の何かが後ろにいるのではと。


(白い光?)


 酸素が足りず朦朧とする意識の中で視界の隅で捉えた白い光を思い出す。


(あれは、本当に光だったの?)


 白い光に見えた。しっかりと確認する前に森久保に手を引っ張られて逃げ出したから判別できなかったが。


(もしかしたらあれは──)


「あっ!?」


 足がもつれて転んでしまう。


「彩乃! だい──」


 振り向いた森久保は途中で言葉を失い、手を差し伸べようとしたそのままの姿勢で立ち止まってしまった。


 振り向いてしまった。そう思いつつ、加護は上体を起こして森久保の方へ顔を上げる。


 白い光が森久保の体を薙ぎ倒していった。光などではない、それは全身を白で纏った人だ。


「何するっ! おい! やめ、やめっ! ヴぁ゙」


 何かの音がする。噛み付くような音、食い破るような音、そして滴る水のような音。


 加護は目を離せなかった。吸い込まれるように瞬き一つできず、目の前の光景を見つめ続けていた。目を逸らすことなどできなかった。


 森久保の首から真っ赤な血が吹き出している。白を纏った人のようなものが顔を激しく左右に振りながら今さっきまで一緒だった、手をつなぎ逃げていた、手をつかんで名を呼んでくれた、真っ直ぐにキレイな瞳で見つめてくれた森久保の体をなぶるように噛み切っていた。


「ヴぁ゙ァァ……ウグァぁあ……え゙ェ゙え゙ゔぁがっ」


 皮膚が食い破られる。森久保は大きく息を吐き出すとそれきり抵抗をやめた。足と手は動かされるたびに噛まれるたびに痙攣のようにビクビクと動くが、白く濁った瞳の上にまぶたが降りることは二度となかった。


「あ……あ……」


 それは首筋に噛み付き、肩を、腕を、手を食べ物を食すようにぺちゃぺちゃと音を立てて噛んでいる。次には、胸、腹、脚、最後に顔の皮膚を剥がして骨に皮が張り付いてるような手で瞳をくり抜くと、満足したのかすっと立ち上がった。


 それはくるりと振り返った。地面に髪の先がつくほどの長い髪の毛の女だった。ジリジリと進む足音。女は草履を履いていた。赤い、血のように赤い草履だった。


 髪の毛の奥から常闇のような二つの瞳が覗く。やっとのことで上げた悲鳴は、闇に呑み込まれて消えていった。

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