母
鈍い音がした。二俣の指と腰の動きがピタリと止まり、そして体が離れていった。贅肉のついた重い体が床に倒れ、激突する音が響き渡る。
(乃愛? 違う、誰……?)
誰かが助けてくれたのは、すぐにわかったものの誰かはわからない。恐る恐る振り返ると、予想もしていなかった人物がバールのようなものを片手に立っていた。
美月をしっかりと見据えた瞳は輝いており、口元には気づくか気づかないかくらいの微笑が作られていた。
「母、さん?」
古塚しのぶ──美月の母親だった。母は微かに頷くと、倒れている二俣の足を持って暗闇の奥まで引きずっていく。
「待って! 母さん何してるの? 今までどこにいて!? なんで、なんで──こんなことになってるの!?」
これまでの思いを全てぶち撒けるような美月の訴えに母の足が止まった。ゆっくりと振り返る。暗くて表情は読めないが、美月には確かに母の顔が笑顔になっていると感じられた。
「……今までもこれからも、ごめんね、美月……そしてありがとう」
それだけだった。たった一言、消え入りそうな声でそれだけを言うと、それきり美月の母は暗闇のなかへ消えていった。
「母さん、待っ──」
伸ばした手を慌てて引っ込める。追いかけて行くことはもちろんできただろう。でも、美月はそれを選択せずに母親に背を向けると階段を登っていく。走る美月の脳裏にはこれまでの思い出がまるで走馬灯のように駆け巡っていった。
外へ出る。永遠に続くかと思われた夜の闇は薄らぎ白み始めていた。
ボッと地下室から炎が上がる。美月は一瞥しただけでその場を去ると、階段のところで倒れたままの乃愛の所へと急いだ。
「乃愛!」
反応がない。首元から肩にかけてざっくりと傷口が開いていて、飛び散る血が茶色がかった髪の毛と顔にまでべっとりとついていた。まさかと思い首筋の脈を確認するが、しっかりと動いていた。口の前で手を当てるも弱々しい息が吐かれる。
美月はスマホを取り出すとすぐさま電話をかけた。消防と救急、そして警察を。
「乃愛、待ってね。待ってて。絶対に大丈夫だから」
傷口を手のひらで強く押さえながら乃愛の体を抱き締める。
顔を上げれば、赤い焔が夜空を溶かしていくように空気に乗って空高く燃え上がる。眩しい太陽が上り、空が明るくなるまで美月は身じろぎもせずに炎を見ていた。




