裏切り
美月はしばらく茫然と立ち尽くしていた。閑寂とした暗闇の中、風の音と足音だけが上の方から聞こえてくる。
ずっと握り締めていた手のひらを開くと、顔の前で何度か指を動かした。
(……私の体だ)
五本の指は欠けることなくしっかりと付いたままなのに痺れる感覚が残っている。指先で文字を書いた感触も、人形を抱き締めた感触も残っている。
だからか、目尻から涙が出てくるのを止めることができなかった。長い年月を経てようやく、呪いは解かれ祝福が訪れたのだ。
美月は涙を拭いて人形を牢の奥に並べて置くと、乃愛のところへ戻るために格子を開けて外へ向かった。歩く度に噛まれた首が痛むが、血はほとんど出ていない。
バタバタと走る足音が止まり、階段を降りてくる。
「古塚さんっ!」
美月の姿を見て二俣が声を張り上げた。急いで走り寄ると、首の傷に目を向け大きな手で美月の首を覆う。
(……え)
「応急処置をしないと! 今、圧迫してますから!」
いきなり首を触られたことにびっくりしたが、美月は言われるがままに大人しくしていた。それより気になるのは、乃愛の容態だ。
「先生、乃愛は?」
「如月さんは無事です! 車の中で言ったでしょう。古塚さんはもっと自分を大事にした方がいいって。今は自分の傷の心配をしなさい」
「無事……?」
無事なわけがない。白無垢の女に襲われて動けなくなるほどだった。すぐに治療できない今の状態で、無事なはずがない。
胸騒ぎがした。乃愛のこともそうだが、何かがおかしい。不意に二俣と視線が合うと、微笑んだその瞳の奥に何か得体の知れない感情が隠れているような気がした。
美月は咄嗟に二俣の手を離した。
「古塚さん、止血をしないとっ!」
「いえ、大丈夫です。それより乃愛のところに行かないと……」
二俣の視線から逃れるように俯き加減ですれ違った。
左腕が強い力で掴まれる。
「──逃げるなよ」
「ちょっ……何を、先生っ!」
驚いて振り向けば、また瞳がぶつかる。今度は笑っていなかった。二俣の視線が舐めるように美月の体をなぞる。全身が総毛立つ。
自分に向けられた二俣の視線の意図を美月はもう知っていたからだ。
美月は二俣の手から逃れようとした。しかし、ギリギリと腕を捻られ苦悶の声が出る。
「もう、逃げる必要はないよね、美月」
「やめてください!」
一度は消えたはずの白無垢の女の感覚が蘇った。欲情を隠そうともしない吐息が、この先の展開を想像させて美月は叫んでいた。
(なんで、なんでこんなこと──)
「そんなに怖がる必要はない。やっと二人きりになったんだ。もう、気持ちを隠す必要はないんだよ」
二俣の手が美月の腰に触れた。美月は声を上げて体を捻り逃れたが、すぐに両腕を掴まれて壁に顔を押し付けられる。
「やめてっ! 先生──なんでっ!」
「──なんで? 白無垢の恋唄だよ。名前を書けば誰でも結ばれるんだよね」
愕然とする。二俣の手がまた弄るように腰を撫でた。虫唾が走るような怖気に美月は唇を噛んだ。
「この呪いを知ったとき。絶対に、馬鹿な男子生徒が君の名前を書くと思った。だから、半信半疑で僕が先に書いたんだ。びっくりしたよ。そしたら、すぐに君から連絡が来るんだから。まさか呪いもついてくるとは思わなかったから、そこは予想外だったけどね。まあ、でも障害を乗り越えて二人は結ばれる──そういう運命だったのかもしれない」
二俣は下卑た笑い声を上げた。指先がTシャツの下に侵入してきて、美月は大声を上げながら抵抗した。
思えばトンネルで白無垢の女に襲われたときからおかしかった。恋唄を詠んだ者とその想い人だけが襲われるはずなのに、最初に襲われたのは自分と二俣だった。乃愛は一人で車の中にいたのに。
(最初からそういう目的だったの? 励ましの言葉も全部が全部、このために?)
「もっと早く結ばれるはずだったのにね。でも、仕方ない。君はずっと如月さんと一緒だったから。なんでか知らないけど、一人になっちゃダメとか余計なことを……でも、ほらもう君と僕の二人しかいない。もう演技する必要はないんだよ、美月」
名前を呼ばれただけで汚された気持ちになる。体全体が拒否しているのにも関わらず、二俣は妄執していた。白無垢の恋唄の力で二人が結ばれていると。白無垢の力は作動しない。もう、白無垢の女はいなくなったのだから。
「さあ、美月」
二俣の腰が美月の臀部へと当たる。背中に腕が回り、逃れられないように上体が押しつけられる。耳元に臭い息が当たった。
「もう、我慢できないよ……ずっと我慢してたからね」
腰が激しく動いた。左耳の形に沿うようにねっとりとした唇が寄せられ、舌が耳の奥まで捩じ込まれる。蟲が中に入ってくるような気持ち悪さが襲い、美月は喚声を上げた。
「うるさい!」
引きちぎられるほどの力で髪の毛が引っ張られ、シャツの下に腕が回る。乱暴に弄る手が胸の方へ上がっていき、下着の紐を掴んだ。
美月はこれまで生きてきた中で出したこともないような張り裂けんばかりの声を上げた。
「やめてぇ!! やめて! やめてぇぇえええええええええええええ!!!!」




