放たれた矢のように
乃愛の手が離れていく。美月はすぐに手を伸ばしたが、ふっくらとしたその指先がすり抜けていった。
ぐちゃり──と皮膚が食い破られる音がする。白無垢の女に飛びつかれた乃愛の体が階段を何段も転げ落ちていく。
白無垢の女が選んだのは乃愛だった。恋唄の呪いを実践したのだ。真っ先に狙われるのは当然だった。
組み付かれ、肩や腕が何度も噛み付かれていく。乃愛は悲鳴を上げた。苦痛にまみれ、助けを懇願する断末魔のような叫び声。
(ダメ──)
なんとか逃れようと顔を体をがむしゃらに動かすも、女を囲んでいた蟲が乃愛の全身を覆い尽くすように群がっていった。
(……ダメ)
全身が撓む。苦悶の声は暗闇のような蟲の蹂躙によって掻き消され、もがく身体は次第に勢いを失っていく。黒い塊から腕が上がった。助けを求めるように。助けを乞うように。
美月の中で襲われている乃愛の姿が過去に見た白無垢の女の姿と重なる。同様に体の自由を奪われ、蹂躙され、暴行され、凌辱される姿と。
過呼吸のように呼吸が乱れる。心音が耳の中でうるさく鳴った。
(ダメ……ダメ……ダメ!)
美月は奥歯を食いしばると、抱えていた人形を投げ捨てて階段を降りた。二俣も弾かれたように動き出す。
「乃愛!」
闇に吸い込まれていきそうになっていた乃愛の手を掴むと、美月は体を後ろへと傾けて乃愛の体を引き剥がそうとした。しかし、引っ張ろうにも白無垢の女が石のように乃愛の体の上に覆いかぶさりまるで動く気配もない。
乃愛の腕を蟲が伝い、美月の腕を上がってくる。複数の手に腕を弄られているような感覚に鳥肌が立つも、手のひらに力を込めて決して離そうとはしなかった。
二俣はなんとか懐中電灯の光を当てようとしているのか、何度も何度も先端を向けてはスイッチの入換を試している。
「先、生……」
そんなことをしても無駄だ。だが、その声は届かずに蠢く暗闇が腕から肩、そして顔を覆い尽くしていく。蟲が頬を這いずり回り、口や鼻、そして目の中に侵入しようとしてくる。力が、乃愛の手を掴んでいた力が抜けていく。
瞼が落ちていく、闇に呑み込まれていく。それはきっと永遠の闇の中。永久に抜け出すことの叶わない呪いの世界。
目が閉じる直前に見えたのは、二俣の懐中電灯が放物線を描きながら投げられたところだった。
乃愛の手が美月の手を握り返してきた。両手で力いっぱい引っ張り上げると、大量の虫の絨毯の中から乃愛の体を引き起こすことができた。蟲がボタボタと体中から離れていき、美月は新鮮な空気を大きく吸い込んだ。
「乃愛! 行こうっ!」
階段目掛けて乃愛の手を引っ張るもの、重石のように動かない。どう引っ張ろうにも乃愛は体を動かすことができないのか、全く進むことができなかった。
「古塚さん! 先に行ってください!」
二俣が乃愛を後ろから抱き留めた。美月は乃愛を見つめる。暗くて表情までは読み取れないが、首の辺りからかなり血が出ているのはよくわかった。
「そんな! でも──」
「早く祠に人形を! 呪いを終わらせてください!」
掴んだ手を離すことができなかった。乃愛の手は温かい。離してしまえばもう二度とこの温もりを感じることはできないのではないか。そんな予感が頭をよぎった。
もう二度と──乃愛の笑顔を見ることはできないかもしれない。
白無垢の女が再び動き出す。大量の蟲のざわめきが押し寄せてくる。
「行ってください! 今、呪いを止めないと誰も止めることができない! 早く!!」
二俣の言葉に押されて美月は、前を向くと乃愛から手を離した。
(ごめん──乃愛……ごめん……)
一度放り投げた人形を拾うと、美月は急いで祠へと向かった。
『いつも言ってるでしょ。みーちゃんはみーちゃんでいいけど、一人になろうとするのはダメだって。みーちゃん、一人になると何するかわからないんだから』
『そう。恋人を作っちゃおう作戦です!』
『これがね。お呪いなんだよ。お呪いの名前は、白無垢の恋唄』
走る美月の脳裏に乃愛の顔が浮かぶ。どれもこれも笑顔で、けれどどの瞬間も真剣そのものだった。──あのとき、あのときもっと真面目に話を聞いていれば、そもそも私が孤立なんてしていなければ乃愛は無事だったのかもしれない。乃愛は──。
「ダメだ!」
美月は、大きく首を振って浮かび上がる最悪な想定をかき消すと、矢を射る瞬間を想像した。
足を開き、弓を番える。呼吸を整えて弓を引き絞る。目指すは遠くに見える的のさらにその中央、中白。
狙いを定めると、大きく息を吸い、そして止める。矢が指から放たれるその一瞬だけは全ての音が消え去っていく。どんな戯言も雑音も、恐怖も怯えも憎悪ですら消え去っていく。
あるのはただ的のみ。放たれた矢は風を切り音すらも置き去りにして、ただただ飛んでいく。
美月の前に階段が見えた。地下へと続く焼け焦げた石段は頑丈だった。皮肉にも呪いを固く封じ込めるために造られた堅牢な造りゆえに、ほぼ全焼するほどの火炎の渦でも祠は守られていた。
足の痛みも躊躇わず美月は階段を駆け下りていく。最後の二、三段を飛び降りて上体を起こしたところで、はたとその足が止まった。
階段を降りきったところで白無垢の女が待ち構えていた。




