祠からの黒い靄
身体を揺すって乃愛を起こす。寝ぼけまなこで目を擦りながら上体を起こした乃愛は、数秒経って自分が置かれている状況に気がついたのか妙な声を上げて立ち上がると車の天井に頭をぶつけた。
いつもなら呆れて笑うようなところだが、今はそんな感情も沸き上がってこなかった。
「乃愛、行くよ」
「うん……」
頭を撫でる乃愛の手を取ると美月は砂利の上に降りた。見上げれば階段を登った先に焼け落ちた旧家の残骸が夜の闇に聳え立っていた。
(昨日来たときには、静かな集落だと思ったけど……)
昼と夜とでは雰囲気はガラッと変わる。二俣から渡された懐中電灯で辺りを照らすが、誰もいない家々には当然光は灯っておらずまるで集落全体から人が消えたような不気味さを醸し出していた。
元々は当然人は住んでいたはずだ。村を維持するためにあの人を攫い、呪いが顕現したあともあちこちから子どもたちを攫ってきた。それなのにもうここには誰一人住んでいない。古塚家が、ただ僅かに残った私たちだけが呪いの恐怖に怯えて生きてきた。罪が暴かれるのを恐れて生きてきた。
その意味では呪いは見事に成就したと言える。血は途絶え、そして家ももう途絶えようとしている。長い歴史の中を呪いは巡り巡って、その目的を果たすところまで来た。
(でもまだ、あの人はいる。呪いは残っている)
血塗られた暗闇の呪いを解き、安らかで穏やかな祝福の光で祠を満たさなければならない。
美月は、白無垢と紋付袴の二つの人形を胸に抱くと、一歩前へ足を踏み出した。
待ち構えていたように、途端に手に持っていたライトが消える。真暗闇の中に美月は置かれた。
「みーちゃん……」
真後ろから乃愛の震えた声が聞こえる。二俣の声は聞こえなかったが、緊張が高まるのは感じていた。
ポタッ、ポタッ、ポタッ──と滴る音がした。後ろを振り返っても乃愛と二俣の姿以外誰の姿も見えない。前方へ顔を戻してもただ全てを覆い尽くさんとする暗闇があるばかりだった。
それでも音は続く。続くだけならばまだいいが、じわじわと水溜まりが地面を浸食していくように音は確実に近付いてきていた。
「何? この音……」
乃愛は明らかに怯えていた。今ここで疑問に応える余裕はなかった。改めて体中が冷たくなっていくのを感じる。突然頭の中で鳴り出した耳鳴りも次第に強く大きくなっていき、倒れそうになるほど頭が痛い。
人形を片手で抱きかかえると、空いた手で頭を押さえる。あまりの痛さに苦痛の声が漏れる。頭がくらくらと揺れ、目が霞んできた。
「みーちゃん!」
「うっ……」
乃愛の高い声が鈍い痛みとして頭に響く。二俣も心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫」──そう告げようとしたときに視界の端で霞む目が遠くの方で真っ白な光を捉えた。
それは、最初小さな光だった。例の血が滴る音がじわじわとしかし確実に近くなっていくと同様に、光もまた姿を大きくしていった。
遠く祠から腕が見えている。今にも砕けそうな、あるいはやはり枯木のように折れてしまいそうな異様に細い腕だ。
「白無垢の、女……」
その名を口ずさむだけで頭が割れそうになるほど痛む。目眩が起きて倒れそうになった体を乃愛と二俣が支えてくれた。意識が遠のきそうになりながらも、人形だけは手放さなかった。
乃愛が真横から必死に何かを話し掛けている。きっと、名前を呼んでいるのだろうとは思ったが声は美月の耳に聞こえていなかった。今、聞こえているのは血が滴る音とそれから──断続的に聞こえる地面が揺れるような低い呻き声。
白無垢の女が這い出てくる。腕、頭、胴体、足と風に揺られながらぎこちなく。一緒に祠から出現した黒い靄のようなものが気になったが、なんとか目を開いて凝視すれば女の足元を大量の蟲達が囲んでいることがわかった。ゾワッと背筋が冷たくなる。蟲の群れが黒い靄のように見えたのだ。
まだ、これから階段を登っていかないといけないというのにもはや息が荒い。心臓は時折痛むほどに跳ね回っており、唇が固く冷たくなっていくのがわかる。
「みーちゃん!」
耳元で叫ばれた乃愛の声にハッと意識を戻すと、腐臭のような臭いが鼻の周りを漂う。すぐ横に白無垢の女が移動していた。
野太い叫び声が聞こえた。先生のものだろう。二俣は距離を取ると、付くはずのない懐中電灯を女の方に向けて無意味にカチカチとスイッチを入れようとしていた。
白無垢の女は、まるで獲物を見定めるように大量の蟲の中に埋もれた双眸で二俣と美月、そして乃愛の顔を順繰りに眺めた。
「行こうっ、みーちゃん!」
乃愛が腕を引っ張り美月を先導していく。その後ろから慌てて二俣がついてきて、三人は階段を登り始めた。
美月は後ろを振り返る。白無垢の女は長い黒髪を風に靡かせながら、逃げようとする三人の姿を見つめたまま佇んでいるように見えた。
突然、全ての動きが遅くなった気がした。二俣は死にものぐるいで階段を登り、乃愛の大声がぐわんぐわんと鼓膜を揺さぶる。
(──なんで……どうして、襲わないんだろう……)
今までなら容赦なく襲っていたはずだ。でも、さっきもそうだった。廃寺で襲われたときにも目の前にいたのに急に動きが止まった。
(──もしかすると、感じているのかもしれない。気づいているのかもしれない。想い人の人形があることを──)
そう思いながら美月が前を向いた瞬間。階段の上から音もなく白無垢が飛び掛かってきた。




