白無垢の恋唄
少し丸くなった氷をストローでくるくるとかき回し、美月はアイスコーヒーを啜った。春休みとはいえ、世間はただの平日。いつもなら制服姿で埋まっているカフェの店内も、今日は閑散としていた。
(……一人になると何するかわからないのは、乃愛の方だと思うんだけどなぁ)
美月が乃愛とどんな風に出会ったのかはもう記憶にはなかった。ただ、どういうきっかけでこうなったかは覚えている。それは、保育園での散歩中に急に乃愛がいなくなったことだった。
保育士が血相を変えて名前を呼びながら探し回っている間に、美月は乃愛がいそうなところを探し、そして何分もしないうちに見つけた。覚えたばかりであろう数の数え方を確かめるために、蟻の巣から出てきた蟻を数えていた。まだまともに数を数えられるわけでも、蟻も数えやすいように列になって直進してくれるわけでもない。乃愛は何度も何度も指折り数えては、途中からわからなくなり、また最初から数え直していた。
その後、保育士は乃愛のことを注意が必要な園児と見なしたのか、なぜか毎回の散歩で乃愛の隣に美月。さらに必ず手をつないで散歩をすることになった。
──今のように。
とととと、と足音が近寄ってくる。
「ごめん、ごめん。時間かかっちゃった!」
乃愛は席に着くと、ピンク色でキャラクターのイラストが描かれたスマホを机の上に置いて続きを話し始めた。
「それで、二俣先生は何とかしてくれそう?」
美月はストローから口を離すと、首を横に振った。
「あの先生、いい先生だけど、怖くないからね。一応、他の先生にも言ってみるとは言ってくれてたけど……」
「でもさぁ、ちょおっと対応が鈍ちゃんだよね~みーちゃんが入部したの5月くらいでしょ? 今、もう年をまたいで3月だよ? えっと、6、7……」
「10カ月くらいだ。もうすぐ11カ月ってとこ」
指折り数えて確かめようとする乃愛に微笑みながら、美月は言った。
「そうそう10カ月。みーちゃんの、まあ、ファン? の男子はさぁ、入部してすぐに増えていったわけじゃん。弓道部の練習は基本、平日は毎日あるわけで、その間ずっと弓道場の見学に来たり、それだけじゃなくて私たちのクラスにも押しかけてきたり、後をつけてきたり、盗撮──」
美月は人差し指を上げた。
「それはされてない。その前に、さすがに問題になってつきまとい行為はなくなったよ。その影響で、弓道場に来るのもしばらくはなかったんだけど」
「今年に入ってまた再開し始めたんだもんね。二俣っちがもっとしっかりしてくれたら。もしくは弓道部の部長とか」
(まぁた、変なあだ名つけたな)
乃愛は相手の許可なく急にあだ名で呼び始めるので有名だった。迷惑がっている少数派もいるが、たいていはそれで相手の懐に入っていつの間にか仲良くなってしまうということで、美月は一種の才能だと思っているのだが。
「部長は、腕前は確かだけど我関せずみたいな人だからね」
「じゃあ、副部長!」
「副部長は、部の空気が乱れないようにするのに精一杯なんだ」
「う~ん、じゃあ……」
腕を組んで目を瞑り考え込む乃愛に微笑みかけると、美月はコーヒーを一口飲む。
「誰にもどうもできないから、こうなってるんだよ。中学のときもそうだったように。……まあ、私が部を辞めるのが一番いいんだろうけど」
「よくないよ! よくない! みーちゃんの腕前だってさ、すごいんでしょ? えっと、何段だっけ?」
「二段」
「そう、二段。高校1年生で二段はすごいって聞いたよ? そんなに実力あるのにやめたらもったいないし、何より『みー兄』が止めると思うけど」
「うーん、そうかもね」
まるで自分のことのように怒る乃愛を見て、冷静になって考える。
(弓道を始めたのは、兄さんが中学に入ったら何か運動しろって言ってたから。しぶしぶ弓道部に入ったけど、入るまでは珍しく毎日「入れ、入れ」ってうるさかったからな。自分は何の部にも所属していないくせに)
乃愛は机の端に置いたスマホを手にすると、画面を開いた。
「ということで、作戦があります!」
「作戦?」
必要以上にキラキラしている瞳を見て、美月は嫌な予感しかしなかった。
「そう。恋人を作っちゃおう作戦です!」
自信満々に手を上げる乃愛に、ストローを指で触る美月。数秒、二人の間に沈黙が流れた。
「……いや、無理でしょ」
「無理じゃない! このお呪いならすぐにできる!」
「いや、そういうことじゃなくて――」
乃愛のスマホの画面が美月にも見える位置に置かれた。
「ほら、見てこれ。今、SNSで密かに広がっているんだけど」
「いや、だから、そういう問題じゃなくて――」
「実際に試した人がいるんだって。それでね、そのお呪いが」
美月は、額をおさえてため息を吐いた。何かに夢中になってしまうと誰の声も届かないことを美月は長い年月で身に染みるほど知っていた。
(こうなったら、とりあえず話が終わるまで聞くしかない)
机の上で頬杖をつくと、美月はとりあえずスマホの画面を見つめた。誰かのアイコンと文字の羅列が延々と続いている。ただ、乃愛のふっくらとした指先でスクロールされていく文章には、一つの共通点があった。
「永久に先君をば待たん暗闇に花の塵ゆく定めとしても」
「すごい! みーちゃん、よく読めるね」
「うん、まあ……なんとなくだけど、そんなに難しい言葉じゃないから」
それは、短歌だった。五・七・五・七・七の計三十一音で組み合わされる日本の伝統的な詩。その詩が、どの投稿者の文章にも綴られている。
「これがね。お呪いなんだよ。お呪いの名前は、『白無垢の恋唄』」
(白無垢の恋唄?)
美月は、もう一度詩を眺めた。何気ない言葉の羅列に過ぎないもののはずが、なぜか目が離せない自分がいた。
知らず知らずのうちに喉奥に溜まった唾を乃愛に気付かれないように飲み込む。
「それで、この詩をどうするの? ただSNSに上げればいいの?」
「違う、違うよ~みーちゃん!」
乃愛が映画俳優のように人差し指を左右に何度か振り、スマホの画面を指さした。ちょうど、詩の中の「君」の部分だ。
「『永久に先君をば待たん暗闇に花の塵ゆく定めとしても』の、この君のところを好きな人の名前に変えるんだって。そして、SNSに上げる。そうすると、書いた相手と結ばれるっていうお呪い」
「それだけ?」
「そう、それだけ……あーみーちゃん、その表情は疑っているね?」
(それは、まあ。疑わないわけにはいかないでしょ)
乃愛はスマホを手に取ると、何か操作をしてまた美月にも見えるように机の上に置いた。
「ほら、実際にやってる人の投稿見て。みんな、『好きな人から連絡きました!』とか『デートできた!』とか、中には『無事付き合えました』なんていう投稿も、たくさん載ってるんだから!」
乃愛の言う通り、画面をスクロールしていけば実際に、詩の「君」の部分をおそらくは意中の相手の名前に変えて投稿した文章や、その結果が載っている。
「だけど、こんなの全く悪戯ってこともあるんじゃないの?」
「もー、由緒正しきお呪いなの! スマホがない時代は神社の太い木とかにこの詩を書いた紙を括り付けてやってたりしてたらしいんだから!」
「由緒正しいお呪いは、神社の木からSNSに変えたらきっと効力がなくなっちゃうよ。……ん? これは……ちょっとスマホ貸してもらっていい?」
「うん! なになに? もしかしてみーちゃんの名前でも載ってた?」
「いや――」
美月は、スマホを手にすると顔に画面を近づけた。手の平に支えられた画面のなかでは、「白無垢の恋唄」の一文とその下に動画だけが投稿されていた。ユーザーのアイコンはなく、ユーザー名も数字とアルファベットを適当に並べただけのものだった。
動画が勝手に再生される。どこかわからない暗闇が映し出された。建物も人もおらず、街灯の明かりや星や月の明かりもない、ただ黒いペンで塗りつぶしたような映像だけが何秒か続いた。
(何の映像? 意味もないただの暗闇?)
白無垢の恋唄の詩と同じように妙に引き付けられている自分がいた。意味も分からないはずの暗闇の映像で、音もミュートになっているのになぜか息遣いのようなものが聞こえてくる気がする。生々しい何か、気配のようなものが。
瞬きをする。と、白い何かが映った気がした。暗闇の中に微かに一瞬。その何かを見たとき、モスキート音のような耳鳴りがした。しかし、それきりで動画は終わってしまった。耳鳴りもいつの間にか消えている。
「どうしたの、みーちゃん?」
「……ああ、いや、なんでもないよ。返すね」
わざと指をスクロールさせて違うユーザーの投稿に変えてから、乃愛にスマホを返した。
(よくわからないけど、今のはあんまりいい感じがしなかった)
「ふーん……」
乃愛は返されたスマホの画面をじっと見た後、また机の端に裏返しでスマホを置いた。
「まあ、いっか! どうみーちゃん、これならすぐに恋人できるでしょ!」
「乃愛。そもそも、私、好きな人いないから。無理やり恋人つくるのも嫌だし。そもそも、それじゃあ何の解決にもならないって!」
「うーん、そっかぁ。我ながらいい作戦だと思ったんだけどな~」
腕を組み、顎をさすりながら真剣な表情で唸る乃愛を見て、美月はあきれ返って吹き出してしまった。
「乃愛、とんでもない作戦だよそれ。笑わそうとしての冗談だったらそこそこ面白いけど」
「でも、真面目にさ、小学生のときからみーちゃんがいろんな男子からチヤホヤされてるのが嫌だなと思って、みんなみーちゃんに悪口言ったりしてたわけでしょ? たとえば、自分の好きな男子がみーちゃんばっかり見てたりするから。そして、なんとなく嫌な雰囲気があって、別にみーちゃんのこと気にしてない人もあんまり関わらなくなっちゃってって感じなんだからさ。特定の誰かとお付き合いすれば、いい加減落ち着くのかなぁって」
美月は目を瞑ってまだ残っているアイスコーヒーを飲み干した。
「そうは言っても、付き合うとか考えたことないし、男子に興味もないし。乃愛も知ってるでしょ」
「そうそう。結局みーちゃんの男子の基準がさ、みい兄なんだよ。一番近くにあれだけ完璧な異性がいたら、普通の男子じゃ目に入ってこないよね」
「む……。別に兄さんはそんなんじゃ……乃愛だって、あれでしょ? 誰か気になる人がいるからこの呪い知ったんじゃないの?」
「……ち、違うもん」
珍しく乃愛からの返事がワンテンポ遅かった。しかも、視線は落ち着かずに机の左端から右端までを行ったり来たりし、顔がわかりやすく赤い。
「東條先輩?」
「う……」
美月が意地悪く微笑むと、乃愛の顔はさらに真っ赤になった。
「なななんで! みーちゃんが先輩の名前知ってるの!?」
「それは、兄さんといつも一緒にいるから。そう言えば、最近兄さんと話すとき、乃愛がぎこちなくしてたなぁ、と思って。……好きなんだ?」
乃愛は小さい体をさらに縮こませて、小さくうなずいた。
「でもっ! 私はこの呪い使わないよっ! だって、なんかズルいもん」
言っていることはめちゃくちゃだと思ったが、美月も乃愛の気持ちはなんとなく理解できた。
(誰かを好きになったことなんてないけど、確かにズルいし、きっと呪いなんかで結ばれても嬉しくないよね。それに──)
「乃愛は、やらないと思ってるよ。それにこの呪い本当に効力があったとしても、やらない方がいい気がする」
「うん? なんで?」
「なんとなくだけど、嫌な感じがする。上手く説明できないけど、なんとなくね」
美月は、乃愛のスマホに視線を向けた。アイスコーヒーの氷が音を立てて割れた。