突入
美月は立ち上がっていた。祖父の話の中から一つの可能性を見出して。
「おじいちゃん、今言ってたよね。地下にある祠もきっとダメだろうって」
鮮やかに記憶が蘇る。あの日、母に連れられてこの屋敷へ来たあの日。美月は兄とともに屋敷の中を探索していた。臆病だった美月は兄の背中で服を引っ張ったまま後ろについていくだけだったが、地下へ続く階段を見た記憶がある。
祖父がやってきてその先を行くのは止められたが、階段のその先は入ればきっと一歩先も見えないくらいに真っ暗だった。
「確かにそう言った。祠はもうダメだ」
「でも、見たわけじゃない。あれが祠だって知らなかったけど、階段ははるか下まで続いていた。もしかしたらまだ火が回っていないかもしれない」
「……この火で助かるわけがなかろう。それにもし生きているというのなら、なぜ家から出てこない」
(そんなのわからない。だけど、まだ絶対にそうだと言い切れるわけじゃない)
「私、行くよ。兄さんを助けに行く」
決意を固め、中へ入ろうとする美月の腕を二俣が止めた。
「ダメだ! 古塚さん! 今、消防は呼んだからここに来るまで中へ入っては──」
「先生。この呪いは大切な人を想う心から生まれた。先生にとって大切なものは何? 私にはわからない。私は今まで誰も好きになったことがないから」
美月は真っ直ぐに二俣の目を見つめた。腕を掴んでいた手が緩む。
「でも、私は今、兄さんを助けに行かないときっと後悔する。咎人とかどうとか頭が混乱してわからないけど、今は兄さんを助ける。それだけ」
手を振りほどくと祖父の横を通り美月は音を立てて燃え上がる家の中に入っていった。
「古塚さん!」
*
屋敷の中は至る所が炎で埋め尽くされていた。柱にも火が回り、居間にある机や流し、その他の家具にも火が燃え移っていた。障子は破れ、食器棚や襖も倒れている。だが、かろうじてまだ部屋を繋ぐ中廊下は無事で、廊下を通って屋敷の一番奥まで真っ直ぐ行けば地下へと続く階段があるはずだった。
時間がない。過去の記憶と照らし合わせながら美月は走った。
今なら、なぜあんなところに階段があったのかわかる。居間からできるだけ遠ざけておきたかったからだろう。祠が先なのか、家が先なのかはわからないけど、古塚家にとっては呪われた場所。埋めることもできず忘れることもできないが、できるなら日常から離れたところに置いておきたいと思うのは当然のことだった。
曲がり角の柱の火が大きく燃えて、割れた破片が美月の頬を突き刺す。唇を噛み、鋭い痛みに耐えながら先を急いだ。見上げればもう天井からもミシミシと音が鳴っていた。火の粉が弾けて顔や腕に小さな火傷を作っていく。
炎の勢いが加速度的にどんどん増していき、家が崩れ落ちていく。この家に特に思い入れはない。なにせ一度しか訪れたことがなかったからだ。それでも、ここは唯一と言っていいほど三人で出掛けた場所であった。忘れていた記憶が次々と思い出され、幼い自分には大切な思い出だったのかもしれない。
「あった!」
廊下を進んだ真っ直ぐ奥に階段があった。仕切られた壁や天井、部屋の周囲は激しく燃え上がっているが、下に続く階段の辺りは無事だった。美月は速度を落とすことなく階段まで辿り着くと、覚悟を決めて暗闇の中へ降りていった。足音が硬質に変わる。硬い石を歩いているような感触だった。
下まで一気に降りたところでスマホのライトで周りを照らす。
急に呼吸が苦しくなり、咳き込んでしまった。見えるのは煙ばかりだが、灯りが照らす先に人一人が移動できそうな細い通路があるのが見えた。
美月は腰を屈めてなるべく低い体勢でその先へと移動する。下の方にはまだ煙が溜まっていないのか呼吸が少しは楽になった。やがて突き当たりが見えてくると、ライトの光が右側にある木製の格子を露にした。
手で煙を払いながら格子の方へと進む。格子の入口となる戸はなぜか開いていた。煙の中で青白い光を照らし出すスマホを左右に翳せば、うつ伏せに倒れている人影が見えた。
「兄さん!」
人影へ近付き肩を揺すった。ライトで横顔を照らすと煤や汚れがべったりと顔についてはいるが間違いなく兄──弓弦の顔だった。
美月は口元に手を当てた。微かではあるもののまだ呼吸があった。
(まだ助かる! でも……)
ここまで来て自分の浅はかさを後悔していた。感情のままに飛び込んでいったが、一人では自分よりも大きい兄の体を運ぶことはできない。
美月は兄の側で座り込むと、何かないかとスマホのライトで祖父が祠と呼んだ格子の中を探った。床は石を並べた上に薄い木の板が敷かれているだけだった。天井も木の板がはめ込まれていて、石造の部屋の中にもう一つ木製の部屋が作られているような異様な造りをしていた。そして壁は──。
(えっ?)
煙ではっきりとは見えないものの、壁には一面びっしりと赤い文字が書かれている。目を凝らしてよく見ても、古い仮名遣いで読みづらいがそれはおそらくあの短歌だった。
「永久に先君をば待たん暗闇に花の塵ゆく定めとしても」
その文字が壁に余すことなくびっしりと記されている。
(赤い文字ということはもしかして──)
車の窓ガラスには赤い五本指の跡が残っていた。まさか、自分で自分の指を噛み切って。
「古塚さん!」
上から二俣の声がした。階段を慎重に歩いてくる音が聞こえ、やがて格子越しに光が差し込まれる。
暗闇の中から眼鏡をかけた二俣の顔が現れ、美月は胸を撫で下ろした。
「古塚さん、お兄さんは?」
「まだ息があります」
「よし、それじゃあ一緒に」
二人がかりで弓弦の体を持ち上げると、来た道を急いで戻っていく。火はいよいよ勢いを増して家中が軋んだような音を立てて今にも崩れ落ちてきそうだった。
肩に兄の息遣いを感じながらも美月は、夢だったらいいのにと考えていた。このまま全てが崩れて目を開ければベッドの上にいて、いつもと変わらない日常が始まる。
(だけどこれは現実。現実なんだ)
炎に囲まれて体中熱いはずなのに寒気がしていた。白無垢の腰まで長い黒髪の姿が頭の片隅にこびりついて離れなかった。




