旧家
「考えるのはやめよう」
こんがらがった思考を止めたのは、二俣の落ち着いた声だった。美月は俯いていた顔を上げると乱れた髪の毛を直し鼻を啜った。泣いているのかと思ったが、涙は一滴も流れていなかった。
「考えてもわからないことだらけだ。それに古塚さんのご実家に行けば何かわかるはず。そうだろう?」
まるで弓道場にいるときのようだった。弓を射るのにはどうしても緊張が付き纏う。初心者のうちは特にそうだ。二俣は叱咤激励で部員を動かすようなタイプではない。後ろで見守り、優しい声掛けで緊張を解して全力を出せるよう応援するようなタイプだった。
美月は、何度か息を吸うと部活のときのように快活に返事をした。乃愛の体の震えも止まり、美月は抱えていた腕を離した。
長い暗闇が続いたトンネルを抜ける。眩しい光で視界がいっぱいになり、美月は手を翳した。数秒経って光に慣れてきた目に飛び込んできたのは、燃え盛る炎の姿だった。
車の振動に合わせるように、一旦落ち着いたはずの鼓動がまた大きく動く。炎は巨大な生き物のように辺り一面に広がり、かつて見た故郷の景色を朱色の絵の具で塗り潰していた。
「そんな……いったい何があったんだ」
二俣の疑問に応える声はなかった。乃愛は起き上がり窓から外の様子を眺め、美月は助手席に置かれたままのスマホに手を伸ばした。
トンネルを抜けた砂利道の真ん中で車が止まる。その先、階段が連なる急な坂を登ったところにぽつんと離れて建てられた屋敷に火の手が上がっていた。古塚家が300年営んできたという旧家だ。白壁に瓦屋根、太い木製の柱──時代に取り残されたようなその木造の建物が次々に炎に呑まれていく。家々を囲むように茂っていた木々にも火は燃え移り、痩せた木が耐え切れずに葉を枝を落としていった。
美月は車から飛び降りた。スマホの電源がつく。耳に押し付けたスマホがコール音を鳴らし続けるが、繋がることなく音が止まった。
(……どうして出ないの)
「古塚さん! あの家がっ!」
「そうです! 目的の家です!」
私の家や実家、と言えないのは自分の家という自覚がないからだけではない。今まさに燃えている屋敷が兄や母のいる家だと思いたくなかったからだった。
それに屋敷はともかく、坂の下にぽつぽつある家々からは誰も出てくる気配がなかった。頭上で火事が起きているのに誰もいないとするなら、いつからかわからないがもう誰もこの地に住んではいないのかもしれない。
(だったら行くしかない)
祖母がなぜ火達磨になってしまったのか、美月はようやく理解した。そして、祖母一人だけが逃げてきたということは、屋敷にいたはずの他の家族の身も危ないということ。
「先生は消防と救急を呼んでください!」
「えっ? あ、ちょっ、古塚さん!」
心配する二俣の声は美月にはもう届いていなかった。
石段を走って登り始める。兄に手を引かれて登る幼い頃の記憶がまざまざと蘇ってきた。兄は面倒くさがりながらもしっかりと離れないように手を繋いでくれていた。あのときも母は兄の前にいて、美月のことを決して振り返ろうとはしなかった。
(母さんは何もしてくれなかった。だけど、ここは、ここだけはたった一度だけでも家族三人で来た場所。白無垢の女とか化け物とか、恋唄とか呪いとか。なんで家が燃えていて、兄さんとは連絡が取れないし、母さんからも連絡ないし。何がなんだか全然わからないけど)
二人を失うのだけは絶対に嫌だ。
呼吸が荒くなり、動きが遅くなる。体が休憩を求めてくる。それでも美月は歯を食いしばって足を前へ前へと進めた。
自分一人しかいない広い家。いや、自分一人だけが取り残された広い家だ。美月の頭の中で嫌な想像が広がっていく。
(私だけ何も知らない。私だけ何も知らされていなかった。兄さんはきっと知ったんだ。古塚家の何かを、母さんのあの遠い目の秘密を。また、私だけ取り残される。何も知らないまま、私だけ──)
折り紙のように様々な感情が思い出が景色が重なり合い、悲鳴を上げる美月の足を動かしていた。
焦げた臭い、黒煙の色が濃く近くなっていく。石段を登り切った先では、今にも燃え落ちそうな屋根の下に一人の男が立っていた。
どこか遠くを見るように赤色に染まった屋根を眺めていた男がゆっくりと振り返る。刈り上げた白髪に皺の刻まれた顔。記憶の中の悪戯そうな笑顔とは違うが、美月の祖父がそこには立っていた。
「……まさかァ……美月……かあ?」
「そうだよ! おじいちゃん! 何してるの? 兄さんは? 母さんは?」
事の大きさがわかっていないようなのんびりとした祖父の口調に、美月は声を張り上げた。それなのに祖父は首を横に振っただけで美月に背を向け、また燃え続けている家を見つめる。
「おじいちゃん!!」
美月は祖父の腕を引っ張り無理矢理体を向かせようとした。祖父の顔がくるりと振り返り、どこか遠くを見るような瞳で美月を見た。
咄嗟に美月は腕を離していた。
(同じだ。母さんと同じ、あの遠い目──)
「しのぶ──いや、お前の母ちゃんと同じ目をしていたかい? そう、これは咎人の目だ」
(とがびと? いったい何を言って──)
「古塚さん!」
二俣が息を切らしながらも石段を登ってきた。後ろにはどこか不安定な足取りでもちゃんと乃愛もついてきている。
「おじいちゃん、それより! 兄さんはどこ? 母さんも! まだ家の中にいるなら助けないと!」
祖父は美月の後ろの二人を一瞥すると、軽くため息を吐いてまた首を横に振る。いつの間にか瞳は普通に戻っていた。
「二人とももうとっくに焼け死んどるに決まっとる。ばあさんもダメだったろ?」




