火達磨
それは、人間だった。火達磨になっているが二本の足で歩く人間だった。獣のように聞こえた声は、その人間から発せられていた。鳴き声でも唸り声でもなく、身が灼かれる苦痛から逃れようとする呻き声だった。
ドアが開けられ二俣が車から降りる。美月も我に返ると助手席のドアから飛び降りて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
救援に急ぐ二俣の声がトンネル内に反響した。美月は掛ける言葉が見つからず、ただ二俣の背中についていく。
「大丈夫ですか! 大丈夫──ウッ……」
二俣は唐突に立ち止まると、その場でうずくまり右手で鼻を押さえた。
「先生!?」
突然のことに美月は驚き声を震わせたが、すぐに煙とともに人肉が焼け焦げた臭いが鼻を覆い二俣の行動が理解できた。美月は込み上げてきたものを無理矢理喉の奥に戻すために、目を瞑り前屈みになって立っていることしかできなかったが。
──つき──み、つ──み、つ、き──
名前を呼ばれた気がして美月は苦い液体を噛み下すと、目を開けた。助けを乞うように差し伸べられた手は細く、一見して歳を経た人の物であることがよくわかった。手から顔ヘと順々に視線を上げていくと、瞳を見たときに美月の体は硬直した。
見覚えのある顔だった。ふと、浮かんだのは一度だけ訪れた旧家での記憶だ。
兄と祖父が屋敷からどこかへ出掛けていくところだった。美月は木々や花々の匂いのする縁側に座り、不満そうに足をバタバタと動かしていた。母は側にはおらず、母の代わりのように後ろへ立っていた祖母が穏やかな猫の鳴き声に似た優しい声でなだめた。美月が振り向いたその顔は、母では一度も見たことがないような慈愛に満ちた笑顔だった。
(おばあちゃん……?)
その顔が目の前で今、燃えていた。皮膚は炭のように真っ黒で目だけがギョロッと美月の方を見ている。
「──み──つ、き──」
もう一度名前を呼ぶと、黒焦げた体は膝から崩れ落ちた。燃えるもの全てを焼き尽くしたのか、炎の勢いは急に弱まりトンネルに流れる風の前に消えていきそうだった。
美月の横で二俣が呻き声を上げながら立ち上がると、スマホを取り出し何かの操作をしている。話の内容から救急車を呼ぼうとしているらしいことがなんとかわかった。
美月は焼け落ちた木のようにあっさりと地へと倒れた体をただただ眺めていた。全身が黒く染まり、息をしているのか命があるのかすらもうわからない。
トンネルの奥から寂し気な風の音が聞こえて目を見開いたままの美月の髪の毛をさらっていく。救急車を呼んだところで助かる命ではないことは明白だった。
大きく息を吐く音がして、ガッと美月の足を黒焦げの手が掴んだ。
「ヒッ!」
思わず声が出てしまい後ずさりしてしまう。むくりと起き上がった顔から美月の行為を咎めるように瞳が光る。美月はその瞳から目が離せなかった。
口の形とは思えない空洞から息が漏れる。足が痛いぐらい締め付けられた。訴えかける瞳に何かを伝えようとしていることに気がつき、美月は腰を屈めて吐き気を我慢して耳を口元へと近付けた。何とも言えない臭いが開けた口から漂ってくる。生暖かさが、まだ生きていることを教えてくれた。
「──し……」
大声で喋り続けている二俣の声に掻き消されてよく聞こえない。美月は目を瞑るとさらに口の近くへと耳を押し付ける。か細い息が耳の中に入ってきて背中に悪寒が走った。
「──し……な──」
(全然聞こえない! 何、何を伝えたいの!?)
苦しそうな息遣いだけが聞こえてきた。合間にかろうじて言葉と認識できるような声が紡がれるが、意味を成す単語として聞こえない。美月は必死に頭の中を巡らせた。少しでも引っ掛かる言葉がないか考える。
(し……な……? ……わかんない、わかんないよ! おばあちゃん!)
祖母なのかどうなのか、本当のところは確証がない。それでも耳を傾けたのは、最期の言葉を聞き取ろうとしているのは、その先にある恐ろしい予感があったからなのかもしれない。
急に体が起き上がり、ぐいっとシャツが掴まれる。美月の瞳の中に映る白濁した瞳が目を剥いた。
「白無垢の女ぁああああ!!!!」
叫び声が暗闇の中を木霊する。最期の力を振り絞った声だったのか、目の色はなくなり手の力は抜けて、抜け殻となった体は硬いコンクリートの地面の上へと叩き付けられる。
感傷に浸る間も、最期の言葉の意味を考える間もなく、強い風が押し寄せ美月の前髪を浮かび上がらせた。
(……来る……!)
「ダメだ……やっぱり電源がつかない! いったいどうして!?」
まだ事態に気づかずにスマホと格闘している二俣の腕を叩くと、美月は車へ向かって走り始めた。
「なっ! 古塚さん、急にどうしたのっ!?」
「今の叫び声聞こえてなかったんですか!? 来ます!」
「来るって何が!」
「……白無垢の女ですよっ!」
鬼気迫る美月の声色に二俣も状況を飲み込めたのか、スマホを仕舞い込んだ。後ろを振り返ろうと体の向きを変えたとき、その足が不自然に止まった。
「先生──」
美月は後ろを振り返ってしまった。トンネルの先に何がいるのかをわかっていたはずなのに。
突風が長い黒髪を揺らす。暗いトンネルの中で髪の色がわかったのは、それが着ている服が黒に染まることのない眩いばかりの純白だったからだ。




