暗闇を舐める炎
急な叫び声に二俣も動揺したのか車体が大きく揺れて急ブレーキがかけられる。投げ出されそうになる体をシートベルトがきつく締め付けてきた。
「うっ……っつ! どうしたの!? 乃愛っ!」
後ろを振り返る。乃愛は低いうめき声を上げながら髪を掻きむしっていた。何度も美月が名前を呼ぶが、まるで聞こえていないのか荒い息を吐きながら同じ行為を続けていた。
「如月さん! 落ち着いて!」
二俣はハンドルを操作し、車をゆっくりと端へ寄せようとする。美月はスマホのライトをつけると乃愛の体に光を当てた。
血が垂れている。思い切り爪を立てているのか、指の爪先が頭皮に食い込み破れた皮膚から血が流れてきていた。それでも乃愛は掻きむしるのをやめずに自分自身を傷つけようとしている。
美月はシートベルトを外すと、座席を倒し後へと移動した。乃愛の両腕を押さえて無理矢理止めようとする。
「やめて! 離して!! 先輩が……先輩が!!」
腕を振り回した衝撃で美月の体が押し倒された。乃愛のものとは思えない力に驚きながらも、美月はもう一度乃愛を止めようと手を伸ばした。
パリン、と何かが割れる音とともに光が消えた。美月のスマホのライトだけではない。車のライトも消えている。
「なんだ? 急にライトが──」
「きゃああああああっっ!!!!」
乃愛が叫び声を上げた。何度も何度も頭を振り乱しながら爪を立てて頬を掻きむしった。飛び散る鮮血が美月の顔にかかる。
「乃愛! 乃愛っ!」
「来るっ! やめてっ! やめてぇぇえええ!!」
美月は子どものように喚く乃愛の体を抱き締めて必死に抑えつけると、名前を呼び続けた。全身の震えが止まらない。自分か乃愛かどちらが震えているのかわからなくなるほど。
「おかしい……どうして!?」
運転席ではこれまで落ち着いていた二俣が焦ったような声を出していた。
「先生! どうしたんですか!?」
「エンジンもかからない! ライトもつかないし、いったい何がどうなって──」
トンネルの奥から突然聞こえたその音は、混乱している車内の音を全て掻き消すような音だった。実際には流れる空気の音と同じように小さな音だったが、闇の底から聞こえてくるような音のあまりの異様さに3人の声は呑み込まれてしまった。
オォ゙……オゥ゙ェェ……オォヴ……
空気を震わせた音は、鳴き声に似ていた。人ではなく動物の鳴き声。ただし今まで聞いたことのないような地底から響き渡るような声だった。
抑えつけていた力がなくなる。不気味なほど突然に乃愛の動きが止まった。美月は声を掛けたかったが音を出すことすら躊躇われた。獣のような声がトンネルの奥から少しずつ少しずつ近付いてくる。
シートベルトを外す音が聞こえた。見えはしなかったが、二俣が外したのだろう。その二俣は焦ったように物音を立てながら美月の座っていた助手席に移動した。
カチッ、カチッ、カチッと何かの音がする。それが車の助手席に備え付けられた懐中電灯をつけようと試みる音だと美月が気が付いたのはもう少し後だった。
窓にゆらゆらと揺れる光が映った。人工的な眩い光とは違う。赤々としていて揺れ動く光がトンネルに影を作った。
影は次第に大きくなり、形を成していく。声が近付く度に影も大きくなり、だんだんとその形が見えてくる。
生き物の形だった。美月がすぐに疑ったのは白無垢の化け物だったが、それよりも背は低くなぜかはわからないが身体の周りに何かを纏い、それが風に吹かれたように揺れていた。何よりも腰まで伸びたあの長い髪の毛が窓から見えるシルエットにはない。
(誰? ……というよりも何?)
動かない乃愛を助手席に寝かせると、美月は窓に顔を当てて外を見た。赤い光の正体はすぐにわかった。
燃えているのだ。最初は目を疑ったが、明らかに何かが燃えていた。光と思っていたものは炎の塊で闇を嘗めるように赤く行進していた。
問題は、何が燃えているのか、だ。
暗闇の中をよく目を凝らして見る。揺らめく炎の灯りが左右に動きながらこちらへと進んでくる。
狐、狸、犬──いろんな動物が頭に浮かんでは選択肢から外れていった。近付くに連れシルエットが大きくなるにつれて体格の小さな動物ではないことがはっきりしてくる。
「……先生、あれって……」
二俣からの返事はなかった。二俣もまた運転席に戻り、窓から炎を眺めている。少しずれた眼鏡に炎の色が鮮やかに映っている。
(何……? 猫でもないし、大き過ぎる……もしかして、熊、とか?)
おぼつかない足取りではあるものの、歩いている二つの足が見えたことから四足の獣ではないと判断した。ならば二足で歩くこともでき、体格も大きい熊かと判断したが。
はあっ、と息を呑み込む音が聞こえた。美月はその正体に気付いた途端、声を漏らすまいと無意識に自分の口を手で押さえた。
「こ、古塚さん……まさかと思うけど、その、あれって……」
同時に気が付いたのか二俣が震える声で美月に確認を求めた。美月は何も言えず口を塞いだまま首を横に振る。
信じたくはなかった。いや、信じられなかった。




