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暗闇の中で

 乃愛は、相変わらず眠り続けていた。ほとんど微動だにしない様子が気になり、何度か美月は顔をのぞきに行ったが疲れているのかあまり眠れていないのか穏やかな寝息を立てて眠っている。


 美月は、乃愛の体にタオルケットを掛けるとスマホをチェックした。時刻は19時。家の外は夕陽がとっくに落ちて夜に囲まれていることだろう。


(変わったことは特にない。たぶん。私には今のところ)


 リビングの灯りはもちろんのこと、キッチンも廊下も階段も全ての灯りをつけっぱなしにした家の中をぐるりと見回した。いつも通りの自宅、いつも通りの部屋だ。


 美月はそのままキッチンへ向かうと、シンクの中に入れたままの弁当箱を洗い、食事の準備を始めた。


(先輩の件もまだ連絡が来ていないから、見つかっていないんだろうか。さすがに昨日の夜からこの時間まで行方がわからないということは、何かがあったと思うしかない。……兄さんも、本当に連絡来ないし)


 もしかして──包丁を動かす手が止まった。一つの嫌な可能性が頭に浮かび、美月はミニカウンターテーブルの上に置き、レシピを開いていたスマホを取るとSNSを確認する。


(兄さんのアカウントは……あった)


 猫のイラストが書かれたアカウントを開く。アカウント名は全てアルファベットでYuzuruだ。指で画面をなぞっていくが、最新の投稿は3日前の誕生日に投稿したものだった。美月が手作りしたチョコレートケーキの写真と〈今日、18歳の誕生日を迎えました〉とだけの簡素な一文が載っている。それ以前の投稿も何気ない日常のことを投稿しているだけだった。


 まだ作り途中だったレシピのアプリを開きカウンターテーブルに戻すと、料理を続ける。


 兄が誰かと付き合っているとか、好きな人がいるとか、そういう噂話を聞いたことはなかった。直接聞くことはもちろんない。でも、同じ高校に通っていれば嫌でも耳に入ってくるものだと思うが、そういう気配も全くなかった。


(それに兄さんも、たぶん私と同じ)


 この家に育ったのだから誰かを好きになる気持ちなんてわからない。


 スマホの着信音が鳴った。美月のではなくソファから聞こえてきた。びっくりしたように乃愛は起き上がると、ミニテーブルに置いてあったスマホを手に取った。


「先輩だ! みーちゃん、先輩から電話がかかってきた!」


 嬉しそうに笑顔をこぼすと寝起きで乱れたままの髪の毛を直しながら電話に出る。


「先輩! ……はい、うん……」


 乃愛の会話を聞いていて、美月は胸を撫で下ろした。電話先の相手は、本当に東條先輩のようだ。


「えっ? 今からですか……わかりました大丈夫です。すぐに向かいます」


 電話を切ると乃愛は立ち上がり、鼻歌をうたいながら廊下に向かうドアを開けた。


「ちょっと待って……乃愛、どこに行くの?」


「先輩のとこ。近くのコンビニに来てるみたいだから、ちょっと行ってくるね」


 乃愛が廊下へと出て、後ろ手に扉を閉められたため、慌てて美月はその後を追った。


「待って! 乃愛!」


「どうしたの? みーちゃん、ちょっと行ってくるだけだよ」


「どうしたのって……」


 何か様子が変だった。もうすでに靴を履こうとしているが、電話を切ってからずっと乃愛の顔は美月の方を向かない。


「それに! 暗闇が怖いんじゃなかったの!? 外はもう真っ暗だよ!」


 外灯の明かりはもちろんあるだろう。他の住宅の窓からも光が漏れているに違いない。


(でも、さっきまであんなに怖がっていたのに!)


「大丈夫。先輩がいるから怖くないよ」


「乃愛っ! ま──」


 目の前で玄関の扉が閉ざされる。急いで靴を履こうとした美月の耳にスマホの通知音が届いた。


 美月はリビングに走って戻りカウンターテーブルから、スマホを引ったくるようにして取ると画面を開いた。届いたメッセージを見て黒く大きな瞳が丸くなる。


〈美月、白無垢の女が

 助けて〉


 勢いよく家を飛び出すと、必死に後を追いかける。自分の友人と兄に同じことが起こっているのはもはや気のせいや偶然では片付けられなかった。


 非現実的なことだが「白無垢の恋唄」は現実に効力を及ぼし、「白無垢の女」は現実に存在する。何らかの方法で人を襲う化物として。


(もし、加護先輩や森久保先輩と同じように白無垢の女のせいで行方不明になっているなら)


「乃愛の身が危ない。それに兄さんも」


 兄の身も心配だった。旧家に帰ったはずの兄には母親がついているはずだった。それに、旧家には祖父も祖母もいる。


 美月の脳裏に優しそうに微笑む2人の顔が思い浮かんだ。兄が何かに巻き込まれているとしたら、他の家族も同様に巻き込まれているのだろうか。


(わからないけど、とにかく。今は乃愛だ!)


 前を向いて顔を上げる。乃愛が外へ出ていって一分も経たないうちに後を追いかけたつもりだったが、暗闇の中にはもう乃愛の背中も見えなかった。


 美月は名前を呼ぼうと、口を大きく開けた。何度も何度も叫ぶように乃愛の名前を呼ぶが、返事が返ってくることはなかった。


(乃愛は近くのコンビニに行くって言ってた……走れば5分くらいのところだけど)


 胸騒ぎがしていた。本当に東條先輩はコンビニで待っているのか。そもそも、電話を掛けてきたのは本当に東條先輩だったのか。乃愛の身に異変が起こったということは、先輩にも同じ異変が起こっていてもおかしくない。それなのに、夜中に乃愛をわざわざ外に呼び出すだろうか。


(電話が掛かってきてすぐ乃愛の様子はおかしくなった)


 異様に暗闇を怖がっていたのに。何かの気配を気にしていたのに。


(もし、白無垢の女が暗闇でしか動けないなら乃愛を誘き寄せるために電話した……?)


 美月は自嘲気味に笑った。どこかで自分がそんなこと起こるわけがないと思っている。やっぱり、偶然か気のせいだと感じている。乃愛の異変も、兄のメッセージも、先輩の失踪も、白無垢の女も、白無垢の恋唄も、SNSも、全部が全部嘘で自分を騙すためのドッキリなのかもしれないと訴えている。


(じゃあ、この胸騒ぎはなんなの? 耳鳴りは? 頭痛は? 動機は? 震えは?)


 体と心がバラバラに動いているのを実感して、美月は立ち止まると一度目を閉じた。


 耳を両手で塞ぐと何度か深呼吸をして息を整える。左手に弓を携え、右手で矢を引く。イメージだ。毎日のように何度もこなしてきた弓の動作は、頭の中で思い描いても鮮明だった。射る瞬間は平静でなければならない。どんなに周りが煩くとも、心が動揺していようとも、その瞬間だけは心は無に、空っぽになる。


 弓を放つ音とともに目を開く。力強い瞳は真っ直ぐに夜を見据え、また捉えていた。


 暗闇の中を美月は、一直線に走り出した。


(きっと真実だ。あまりの異様さに、馬鹿馬鹿しさに心が否定しても、身体の反応は揺るがない。だからこれがきっと真実だ)


 美月の目に暗闇にぽっかり浮かぶようにコンビニの灯りが見えてきた。


「乃愛!」


 腹の底から声を響かせ友の名を呼んだ。共鳴するように耳奥へ甲高い叫び声のような耳鳴りが響いた。血が足りず、立ち眩みが起きたときのように頭全体を痛みが走り体が傾きそうになる。倒れた体を手が支え、歯を食いしばって無理矢理立とうとする。


 おかしさは感じていた。たとえ短い距離だとしても、普通、あれだけ血相を変えて誰かの名前を連呼していれば誰かが声を掛けてくるものだ。声を掛けるのは躊躇われたとしても、少しばかりは気に掛けるもの。夜とは言ってもまだ深夜と呼べる時間帯でもない。それなのに、美月が通った道のどこにも人はおらず、車ですら通っていなかった。


 胸騒ぎの正体に気づいたとき、美月は暗がりの中に乃愛の姿を見つけた。コンビニの奥、眩しいばかりの光に決して照らされることのない真黒の空間にその女はひっそりと佇んでいた。

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