第一章 五項 光と闇のはざまで私は溺れる
亡者はロケットペンダントを眺めながら思い出していた。
ある暑い夏の日のことである。
長い間田舎道を歩いてきた私は一休みしようと日陰を探していた。すると、畑の垣根のそばに大きな木を見つけ、これはいい日陰になると思い足早に近づいて行った。
暫くその大きな日陰で休むことにして、ジャケットを脱いでトランクの上にかける。そよ風のそよぐ一面緑の世界に耳を澄ませてみると小鳥のさえずりや牛の鳴き声、遠くの方に人の声が聞こえる。私が脇道の日陰で涼んでいる間も人が通らないわけではなく、何分かおきに一人、また一人と通り過ぎてゆくのであるが、最近この街に越してきた私からすれば知らない人が通り過ぎていくというどうでもいいことのように思えた。
しかし、その人々の中に見覚えのある人影が現れる。
彼は私が新しく入った職場の方である。確か、彼の名をアレクセイといった。
「こんにちは。こんなところで何を?」
彼はにこやかに挨拶した後私に尋ねた。
「こんにちは。ただ日陰で涼んでいるだけです」
私は立っている彼に対し見上げるように言う。
「そうか。今日はとても暑いですね。ちょっとお邪魔してもいいかな?」
彼は中折れ帽子を取りながら言った。
「ええ、もちろんです」
私もそちらにどうぞと手で彼を案内しながら言った。
「どうも」
と言いながら彼もジャケットを脱いでベスト姿になる。
「今日はどちらに行かれましたか?」
彼は地面に手をつき、まるで後ろに背もたれがあるようにリラックスした体勢をとって尋ねる。
「はい。最近来たばかりなのでこの辺りのことを知ろうと街まで歩いてそこから帰る途中です」
「ああ、そうでしたか」
しばらくの静寂が流れた後、アレクセイは立ち上がる。
「私はこれから用事がありますので失礼します。また今度」
「また今度」
とボリスも手あげて答えた。
その後もボリスは遠くで畑を耕す農夫たちを眺めながら夏の風に吹かれるのであった。
「おはようございます」
ボリスは警備員の事務所に入るなり言った。
「おはよう」
と無気力な返事をする二人が中にいたが、ボリスは10分後に自分の仕事が来るため急いで更衣室に向かう。この銀行の警備員はどこも同じだと思うが、交代制で勤務している。そのため、一人2時間の警備が終わったら事務所に帰ってくるより前に次の者が交代で持ち場に着かなければならない。これは警備の穴ができないようにするためである。
だから実際はボリスの仕事は10分後から始まるのであるが、ボリスはこの職場で一番の新入りということもあり5分前には現場に向かわなければならなかった。
ボリスは制服に着替え更衣室を出る。三重に鍵のかけられた厳重に管理される警護用のライフルをガンロッカーから取り出し、そこからは早歩きで持ち場に向かう。警備員の更衣室は地下にあったから、まるで貴族お抱えの下僕のように地下の迷路を抜けて、長い階段を登っていかなければならなかった。
ようやく持ち場に着いたボリスはアレクセイに近づき小さな声で交代を告げる。
「交代の時間です」
「了解。あと頼むよ」
この前日陰で話した時のアレクセイとは違い、仕事ということもあって敬語は使わない。
仕事とプライベートを混同しない彼らしさがその一言にはあった。
ボリスが持ち場について10分は経ったろうか。持ち場にいるのは二階にいるボリス一人であるはずなのに、その場に静寂はない。一階の窓口で利用客に説明をする銀行員の声や客の呼び出しをする声などが忙しく飛び交っているからである。警備を続け、ボリスが一階に目を光らせている間も時間は刻刻と過ぎてゆく。溶けるように時間が過ぎ去ってとうとう交代の時間に近づいてきた。するとボリスの後ろから
「お疲れ様。交代の時間だよ」
とイリアが現れる。何事もなく終わるかに思えたその時だった。
いきなり拳銃らしき物をもって一人の男が銀行窓口に直進してきた。もう片方の手には黒い鞄が握られており、それを銀行窓口の職員に付きだし金を詰めろと言っているようである。
「まずい!」
イリアは階段を駆け下り、非常用の窓口カウンターのドアからロビーに出てライフルを構える。
「銃を置け!」
イリアは彼の性格からは想像もできないような激しい威嚇の声をあげた。さすがの強盗も不意に側面から現れたイリアの方に注意をひかれてしまい、受付職員から目を離してしまう。
その瞬間、窓口の職員たちは鉄で美しく飾られたシャッターを勢いよく締め、それによりロビーの客と職員とは分断された。ボリスはこの一部始終を目撃し急いで警報ボタンを押した。
銀行内にヂリヂリヂリとベルの音が鳴り響く。事務所にいたアレクセイもエフセイも非常事態に気づきライフルを担いで走って現場に急行した。
ボリスはどうしたらいいのかわからず二階で動けなくなってしまった。しかし、銃だけは構えないといけないと思い、銃口を強盗の方に向けまるで狙撃手のようにその照準を標的に定めた。
「さぁ、銃を置くんだ」
イリアは再びライフルの引き金に指をかけ銃口を強盗に向けた状態で言う。
しかし、強盗はイリアに対し拳銃を向けたまま状況は変わらない。イリアはこのままではだめだと思い、引き金から人差し指を離して銃口を強盗から外す。そして、ライフルをゆっくりと床に置き、両手を慎重に上げる。その一連の行動はまさに、一瞬でも手順を間違えれば強盗の周りにいる数人の客を巻き込んで爆発する爆弾を冷静でかつ迅速に処理をするようであった。
強盗は徐々にイリアを信用し、銃を下してゆく。最後まで下したと思った瞬間、ライフルを構えたアレクセイとエフセイがロビーの両サイドから現れた。
「嵌めたなクソ野郎が!」
と叫び、イリアの胸を撃った後、即座に自身の喉に銃口を当て、脳天を撃ち抜いて脳漿と血をまき散らしながらその場で絶命した。
「大丈夫かイリア!」
と声をかけアレクセイはイリアに駆け寄る。また、エフセイは死んだであろう強盗に対し、もしもの時のために最後のとどめを刺すべく強盗の体を蹴り飛ばし、仰向けにした状態で頭に向かって弾丸を撃ち込んだ。
幸いにもイリアは胸を撃ち抜かれたため、意識はあったが、アレクセイはイリアを抱えた瞬間に直感的に思った。イリアはもう長くない。
イリアは胸を打たれたせいで肺に穴が開き、そこに血が入り込んで溺れるような声をあげる。イリアは必死にアレクセイの胸ぐらをつかんで何かを伝えようとするが口をパクパクするのみで何を言っているのかわからなかった。
「とりあえず医者だ!エフセイ医者を呼んでくれ!」
アレクセイは大声で叫ぶ。アレクセイは今まで警備員をしてきたが、目の前で人が死に、苦しむ姿を見た経験がなく、一見、冷静に指示を出しているように見えても実際は涙目になって助けを求めていた。
ボリスは目の前で起きていたことに唖然としている。しかし、さっきと違って体が勝手に動き、気づいたころにはイリアのもとに駆け寄っていた。
彼は永遠と続く後悔の中にいた。それはほかの二人にも言えたことであるが、しかし、ボリスのライフルは、彼の銃口は確実に強盗を捉えていたのである。あそこで撃っておけばイリアは死ななかった。あそこで自分にトリガーを引く勇気さえあればイリアを守ることができた。という後悔と、もう怒っても彼は戻ってこないという悔しさの渦に飲み込まれるような気分である。
どうすればいいのか全く分からなかった。目の前に広がる凄惨な光景に他の客は悲鳴を上げて逃げていく。イリアと強盗犯から注がれる血の海はロビー全体を赤に染めた。
ようやくエフセイが医者を連れて戻ってきた。
「連れてきたぞ!」
エフセイは言った。
アレクセイは医者の指示通りにイリアを横する。
「こりゃだめだな」
医者は独り言のように言った。
「いや、さっきまで生きていたんだ。しっかり見くれ」
脈も図ることなくに言う医者に対し、アレクセイは言う。
「いいや、もう死んでおるよ。脈もない」
医者はイリアの手首の内側を親指で押さえながら言った。
「残念だが、儂は帰らせてもらうことにする」
医者はゆっくりと彼の救急箱持ち銀行をあとにした。
アレクセイは予想以上に冷静にものを考えられる自分に驚きながら、イリアと強盗の遺体を片付けるためにエフセイとボリスに担架を持ってくるように指示をした。
ちょうどエフセイとボリスが担架を持ってきたころ、事の次第を聞いた銀行の頭取が慌てたように入ってきた。
しかし、頭取はイリアや強盗の亡骸に目もくれることなく一目散に銀行職員のもとへ向かい尋ねる。
「おい、金はどのくらい盗られた」
「いえ、一切お金に関しては奪われていません。しかし………」
職員は慌てたように言ったがそれを遮るように
「よかった!」
と頭取は喜んでいる。しかし、周りの銀行員からは冷ややかな視線が向けられていた。
頭取はその朗報を聞き、一通り喜んだあと、イリアを含める警備員の方をギョロッと見て
「お前たちはいったい何をしていたんだ。しかもこんなに店をメチャクチャにしやがって。全員解雇してやる!」
あまりのいいようにアレクセイは「お言葉ですが」と言いかけたその瞬間、ボリスが口火を切った。
「アンタさっきからなんなんだよ。人が死んでるのに金の心配か?アンタが雇った従業員じゃないのか」
そういいながらボリスは頭取に近づく
「アンタがもし金勘定ばかりしたくてその立場にいるというのであれば勝手にすればいいさ。私はこの場をもって辞職させてもらう。私も従業員のことに気の配れないような上司のもとで働きたいとは全く思わんのでね」
「じゃあ、勝手にやめればいいじゃないかね。でも君たちにそれをする金があればの話だがね」
頭取はボリスを煽るつもりで言ったのだが結果的にそれが裏目に出た。
ボリスはさらに近づき頭取の胸ぐらをつかんで壁に押し付けるようにして、よく切れるナイフのような毒舌を吐く。
「それにしてもあなたは日ごろから銀行の床はよく磨けとおっしゃっているそうですね?いやぁ、よく磨かれている。まるであなたの禿げあがった頭のようだ。しかしながら、あなたにはそれ以外、これといった才能はないようですね。若いころに清掃員をしていたということもあってか綺麗好きなのかもしれませんけどあなたはそこにしか注目できないただの馬鹿ということです」
ここまででも、ちらほらと噴き出す人はいたのであるが、さらにボリスは声を大きくして言う。
「た・と・え、目の前にあるものはきれいにすることができたとしても、あなたは決して人の心をきれいにすることはできない。なぜならばここにいる全員が知るようにあなたにはお金に執着し人をも蔑ろにするきったな~い考え方がある。その磨き上げられた一見綺麗そうな頭を開いてみれば中にはドロドロとした汚い考えがある。同じようにこの銀行だって、確かに清掃は行き届いていて綺麗そうに見えるかもしれません。しかしながら、いざ蓋を開けてみれば杜撰な職場環境や労働環境といった汚い点がゴロゴロと出てくる。あなたの頭と同じですよ」
ボリスは皮肉たっぷりに言った。まだ、ボリスの猛攻は止まらない。
「頭といえば、もし組織や社会を良くしたいと思うのであればまずは頭を変えなければなりません。しかし、幸いなことにあなたにはだれが見てもわかる通り美しい頭を持っている。そこで、あなたに与えられた選択肢は二つです。もし、あなたが現状あるだれが見ても笑顔になってしまうような社内環境を変えるというのであれば私は全く文句がありません。しかしながら、そこにいる悲劇の主人公に対し敬意をもって、或いは哀悼の念示すことなく、さらにこの滑稽な職場環境と労働環境を改善しないというのであれば私は一切容赦しません。この会社においてストライキを起こし、あなたの地位を転覆せしめるでしょう」
ちらほらいたクスッと笑う声はボリスの猛攻が終わる頃には既に止んでいた。しかしながら、あまたいるオーディエンスの中から一人拍手をしたものがいた。少なからずこの銀行の労働環境に対して疑問を持つものはいたのである。賃上げを要求しても何時まで経っても上がらない給料。挙句の果てには家にまで仕事を持ち帰らなければならない者がいたほどである。その一人の拍手がボリスの人生を変えた。その一人の独奏であった拍手はやがては多くのものを巻き込んでオーケストラまでに発展する。その現状に一番驚いてるのはボリスなのであるが、その次に驚いているのはおとなしめの性格をしていることを知っている、アレクセイとエフセイであった。彼らは互いに驚いたように顔を見合わせる。
一方、頭取は顔を真っ赤にして走り去るようにして自身の銀行から出ていった。
その間も、賃上げや労働環境改善を求める老若男女の拍手は止まらない。
ボリスもまた、イリアの遺体を事務所へ運ぶためにアレクセイと一緒に逃げるようにしてロビーをあとにした。
あの地獄のようなイリア銃撃事件から早くも一年が経とうとしている。
あれ以来、二人からの信頼と銀行員たちからの私の信頼は良くなり、今では二人と仲良くやっている。
「ボリス!今日酒場に行くけどお前も来るか?」
エフセイはアレクセイと約束した飲みの約束の日が来るのをまだかまだかと心待ちにしていたのだが、ようやくその日になったので朝からウキウキしていた。
「ああ、行かせてもらうよ。エフセイ」
最初は緊張して二人に対してため口なんかで話すことができなかったが、イリアのあの一件以来、私はため口で二人に話しかけることを許された。(ここだけの話、私の方が恐らく彼らより年上なのである)
「おお!そうかそうか!」
そういいながらバシバシとエフセイはボリスの背中を叩きながら嬉しそうに言った。
酒場に着くとそれぞれカウンターに行って酒を注文する。そこで酒を受け取って各々のグループが場所取りしていた席に戻って酒を飲む。相変わらず、エフセイはビールをガブ飲みして、
「うんめぇ~~~~」
とため息交じりの感動を口にする。
アレクセイはビールであるが、エフセイと違って黒ビールをガブ飲みする。
「うま」
と一言。そもそも、一番感情豊かというか、情緒がおかしいと言うのが正しいのかはわからないが、エフセイはその口である。一方のアレクセイはそうではない。彼は何というか理性的でかつ穏やかな性格をしている。
「おい!ボリス何飲んでんだよ!」
もう酔ってるのかコイツはと思いながら、私は笑ながら答えた。
「ウォッカだ。お前たちはいつ見てもビールばかり飲んでいるが、ビールばかりでは太っていく一方だぞ」
「ず~る~い!俺も飲んじゃうもんね~ウォッカ」
そういうと一気にビールを飲みほしてドンと机にそのジョッキを置いた。
ボリスとアレクセイは、駄目だこりゃという様な感じで二人とも自身の目に手を覆いかぶせた。
「ウォッカ!ウォッカ!」
一人だけ異様なテンションな奴がいるが、二人はいつものことなので特段気にすることなく酒を楽しんだ。
「それにしてもボリスのおかげでみるみる社内の雰囲気良くなったよな」
エフセイはイリアの事件後のことを言っているのであろう。
「まぁ、ボリスを解雇した瞬間ストライキが起こるし、たとえ社内環境を改善しなくてもストライキが起こる。もうどちらにしろ積みの状態だったんだ」
アレクセイは冷静に分析しながら言った。
流石はクールな男、アレクセイだ。私の右にいる愛くるしい変な小動物みたいなやつとは訳が違う。
「それにしても、よくあの時あんなにすらすらと毒舌が吐けたな。正直驚いた」
アレクセイに続きエフセイもうなずく。
「いや~実は………」
「え⁈ボリスが役者だった⁈」
エフセイとアレクセイの二人は声を合わせて言う。
「お恥ずかしながら」
ボリスは頭をポリポリと掻きながら言った。
二人は想定もしていなかった展開に仰天した。
「あの長ったらしいセリフあったでしょ?あれ、私がやった役のセリフの一つなんだ。あれを劇団に入ってすぐに練習でやらされて、嫌ってほど暗唱して覚えたんだよね。だからその証拠の一つにあの頭取あんまりきれいな頭してないし」
確かに言われればその通りだと二人は思った。
「あんまり磨かれてなかったな」
エフセイは大きな声で言った。
そんな彼らの後ろをきれいな坊主頭が出口に向かって進んでいくのはまた別の話であるが、彼らはかけがえのない仲間とともに楽しい時間を過ごしたのは疑いようのない事実である。
三年後、社内祭にて
ボリスのあのストライキ勧告はこんなところにまで影響があった。この日は銀行創設30周年ということもあって、社内祭という形で大いに銀行内が賑やかになった日でもある。
もちろんその場にも彼ら三人の姿があった。
「ボリス!楽しんでるか!」
職員が笑い歌いそして飲む。そんないつもとは異なる銀行の顔を見せる社内祭で、その勢いに飲まれたエフセイはジョッキを片手にボリスに抱き付いた。
「まぁまぁだ」
と答えると酒に飲まれたエフセイは
「非常にけっこう!」
と陽気なテンションで彼の持つジョッキを上に突き上げる。
そのエフセイを見て、駄目だこりゃと言わんばかりに頭を抱えるアレクセイがエフセイの後ろにいた。
「ところでアレクセイは酒は飲まないのか?」
酔っぱらってニコニコになっているエフセイを横目にボリスは尋ねる。
「ああ、そろそろ子供が生まれるんだ。それまでは酒はやめるようにしている」
「なぜそれを早く言わない!」
ボリスと酔っぱらってふらふらになっているはずのエフセイがハモった。
「それで何か月なんだ」
とボリスは聞く。
アレクセイは手で9を作った。
「もうすぐ生まれるじゃないか」
とエフセイは言う。
ボリスはアレクセイに対し何か祝いの言葉を送らなければとの思いに駆られ、アレクセイの手を取り
「おめでとう」と言った。
エフセイは空かさず言う。
「それでは~アレクセイが父親になることを記念して!乾杯!」
「それはお前が飲みたいだけだろ」
とボリスは的確にツッコミを入れた。
「ボリスは?結婚しないのか?」
アレクセイは尋ねる。それもそのはずであった、実際、こんな感じのエフセイでも結婚しているのであるから心優しく、何事に対しても誠実なボリスが結婚できない理由はないと思っていたからである。
「いいや、今のところ予定はないな」
「なぜだ?」
アレクセイは即座に聞き返す。
「ここが私の家だ。だから私は結婚するつもりもない」
「もし、お前にその気があれば紹介してやったのにな」
ボリスは首を横に振った。
「いいや、結婚は私には必要ない。でもその代わりに、お前たちは私の家族だ。絶対に見捨てるなよ」
ボリスは笑ながら言ったにもかかわらず、アレクセイとエフセイは真剣な眼差しで言う。
「ああ、絶対に見捨てない」
おそらく彼らの脳裏に浮かんだのはイリアのあの大切な仲間を失った一件であった。
「さぁ、こんな堅苦しい話はここでおしまい!」
エフセイが切って出た。
「みんなに乾杯!」
「結局飲みたいだけじゃないか」
アレクセイは困ったように言った。
しかし、ボリスの反応は先程のものとは打って変わって意外なものであった。
「まぁ、いいじゃないか。今日くらい」
ボリスはささっと新しいウォッカと水をもってきて水をアレクセイに渡した。
そして、ボリスはグラスを掲げ笑顔で言う。
「みんなに乾杯!」
それに合わせてエフセイもアレクセイも言った。
「乾杯」
真面目で堅苦しいはずである銀行はいつの間にか、ボリスにとって彼の家族と過ごすあたたかな家となっていたのである。
社内祭より二年後 駐屯地内
「お前たちは本日付で帝国兵士の任を拝命する。これからは皇帝陛下に対し忠義を示したうえで心して任務にかかれ」
ボリスたちの目の前に現れた、いかにも鬼教官という感じの教官はボリスらが配属された小隊に向かって大声で言った。
幸いなことにボリス、アレクセイ、エフセイの三人は同じ時期に徴兵され、しかも同じ小隊に配属されていた。
しかし、酒好きのエフセイにとっては長く苦しい戦いを強いられることになるだろう。なぜならば、駐屯地の中では秩序と規則を守ることを徹底させるためにあらゆる娯楽が没収されていたからである。
訓練漬けの毎日が過ぎてゆく。しかし、兵役についてから半年もすると日本との情勢がより一層不安定になってきた。
「戦争は起こると思うか?」
訓練の休息中、地面に座り飯を食いながらエフセイはアレクセイに尋ねる。
「いいや、起こらんだろう。第一この国に喧嘩を売って勝てる国なんかほとんどいない。ましてや、極東の島国なんて」
アレクセイは早々に飯を食い終わっていたから、銀のロケットペンダントを開き、彼の娘の写真を見ながら言った。
ボリスはロケットペンダントを眺めるアレクセイに尋ねる。
「娘さんはいくつになった?」
「二歳だ」
もうそんなに経つかと思い、ボリスは驚いた。
「早いな」
帝国陸軍の徴兵の任は六年である。すでに半年が過ぎたといえどもまだ五年と半年が残っていた。
「俺が、家に帰る頃にはこの子は八歳だ。俺の顔を覚えているだろうか」
「あと五年と半年か、長いな。でもきっと覚えているさ」
ボリスはアレクセイがその不安を少しでも払拭できるように言った。さらに続けて言う。
「戦争がなければ五年後には家だ」
戦争の足音が近づいている。その戦争は極東の小さな島国との戦争らしい。
着々と軍備を増強する島国は、我が国とことを構える覚悟らしい。
事の発端は小さな半島のまたさらに小さな半島の領有権を巡った話らしいのであるが、遠く東の知りもしない半島のことなんかほとんどの兵士にとってどうでもよかった。
僕たちがその戦争の惨禍に身を置くまでは………