序章 地獄への道
1904年 旅順要塞前 日本軍塹壕
左手に持つ双眼鏡が恐怖のあまり震えている。そのグラスはすでに何万人もの血を吸ってきた敵要塞を映している。
ふと、兵士たちに目をやると兵士たちも恐怖で震える者、仲間を殺された恨みを晴らそうといきり立っている者と様々だが、ほとんど者が右手に着剣した状態のライフルを持ち、粛々と僕の突撃の命令を待っていた。そして天地を割るような音とともに後方の味方からの砲撃が始まり、僕は双眼鏡から手を離して左手で鯉口を切りながらゆっくりと軍刀を引き抜いた。遠い天に向けられた切先が敵を指した瞬間叫んだ。
「突撃!進め!」
突撃の号令をかけた瞬間兵士が一斉に塹壕から飛び出し、彼らは気合を入れるため、あるいは声を出すことで恐怖を打ち消すため叫びながら弾丸のシャワーを浴び要塞に向かって疾走してゆく。周りを見れば一人、また一人と体を撃ち抜かれ死んでゆき、そうでない場合は爆音とともにその体が砕け散りながら死んでいった。
子供の玩具のように腕のない兵士、足のない兵士たちは息を切らせながら砲火と照明弾によって光り輝く要塞にたどり着く。
この戦争が僕らに何をもたらすかなんて分かりきっていた。
兵士の一人が爆弾に火をつけ、壁に開いた機関銃用の穴から要塞内の機関銃室に向かって爆弾を投げ入れる。それは一瞬のうちに「ドンッ」と鈍い音を立てて爆発し、それ以降目の前にある機関銃が火を噴くことはなくなり、今までやかましく鳴り続けた機械音は戦場の音から消えた。
それは、死か、一生忘れることのできない戦争の傷跡を残すか、その二択であった。
一人が敵要塞に梯子をかけ駆けあがっていくとそれに続き十人の兵士も共に要塞になだれ込む。とある将校も軍刀を鞘に納め梯子を登る。
突撃の命令を出したその日、多くの人間が死んだ。
要塞の上に出ると彼よりも先に行っていた全員が静かに横になっている。
「おい!大丈夫か しっかりしろ!」
遠くで何かがはじけるような音がし、次の瞬間にはグラッと世界が歪み、僕の天地は逆転した。
気が付くと見知らぬ場所にいる。
そこは、今まで戦ってきた戦場というわけでなく、僕の故郷の風景というわけでもなさそうである。
目が覚めて四・五分はたっただろうかという時、遠くに小さな人影が見えた。その人影は、自分の知らない言葉で大きな声で必死に話している。ただ唯一分かったのはこの男の話しかけている者の対象は僕であるということだけだ。
興味本意でその男のところへ近づいていくと小さな馬車が一台、都市の大通りかというほど大きな
道の真ん中にぽつんと止められていた。
男は、こちらに近づいてきて身振り手振りで僕に何かを伝えようとしており、そしてこの男は、僕に対してこの馬車に乗るようにと誘導しているかのようである。
知らない場所で、見たことのない服装の人々、僕は引くに引けない状況にある。
「しょうがない。この男に賭けてみるか」
馬車に乗って三・四時間は経ったであろうか。森に入って最初はカラカラという穏やかな車輪の音であったが奥地に近づくほどガタガタという具合に大きな音に変わってきていた。
「こんなところに何があるんだ?」
ぼやきながら周りの景色を馬車についた直径十センチぐらいの小窓から覗き見ていると、とてつもなく大きな建物が馬車の目の前に姿を現した。
それは豪華絢爛で大理石で作られた柱に金の装飾が施されている。
僕がその建物に圧倒されているその間も馬車は未だ止まることはない。
次の瞬間、馬の足が止まり、馬車もそれに応じてゆっくりと停まった。後から気が付いたが、その時には車輪はガタガタという激しい音をたてなくなっていた。
そして、あの例の男が、馬車の外から僕に対して、やはり訳のわからない言葉で何かを伝えようとしている。
ここで馬車を降りろといったふうであった。
ゆっくりと静かに開けられた扉の外の世界には僕の知らない世界が広がっている。僕が青空のない不思議な空間に感心しているとすぐに馬車が動き出し、たちまち姿を消してしまった。
その時、知らない土地で、誰かと意思疎通できる言葉が使えるわけでもなく、たった一人になるという最悪の状況が完成してしまったのだ。
「なんだ?誘導されてるのか?」
明らかに異様な空気が漂うその建物に入る勇気が出ずにいたが、しかし、待てど暮らせど人が誰一人として通る気色がない。
「仕方がない。このまま待っていても時間の無駄だ。一か八か入ってみるか!」
と自分を励ましながら、今思うとあまりにも大きすぎる賭けに足を踏み入れるのであった。
「君は誰だ?」
僕は答えなかった。答えなかったというよりこの男の人間離れした体格に圧倒され答えることができなかったという方が正しいかもしれない。
その大男は続けて問う
「君はどこから来たのかな?」
次は、僕を怖がらせないように穏やかな口調で尋ねた。
「わかりません。ただし、言えることは大きな川の方から来ました。」
「川?それは三途の川かい?」
大男は本棚の方に体を向け何かの本を探しながら質問した。
「三途の川?」
僕は何か嫌な予感がした。
「ここには始めてきたの?」
「はい」
「だったら三途の川を渡ってきているんだよ」
やはりそうだったかという気持ちになった。
「君はもう死んだのだよ」
とその大男は、平然とした口調で言った。
「よし、じゃあ俺が聞いてきてあげよう。君が生前何をしてここまでやってきたのかを」
そういうと大男は紙で鳩を折り窓まで近づいてその紙の鳩に息を吹きかけた。男の息に煽られた鳩は男の手のひらから飛び出し本物の鳩となって羽ばたき窓から大空へ飛び立っていった。
この部屋にかけてある時計の秒針が一周もしないうちに鳩は一つの便せんを咥えて戻ってきた。
その便せんを開くなりその大男は問う。
「唐突だけどさ、君、人殺したことある?」
「おそらく」
そう言うのも、この部屋の片隅に置いてある大きな鏡に血にまみれた軍服姿で立っている自分が写っているからである。
「あ、それじゃ君、地獄いきだね。」
大男はふたたびその便せんを机に置いて本棚の探し物に戻った。
「地獄、ですか?」
「ああ、でもそんなに遠いところじゃない。」
「その地獄にはどのようにいけば?」
「いいや、君が動く必要はない。」
大男は笑いながら言った。
「なぜですか?」
「なぜなら、ここが地獄だからね。」
その大男は今まで本棚の方に向けていた体を若き青年に向け微笑みながら言った。
「ようこそ地獄へ」
投稿できていると思っていた内容を1年越しに見直したら投稿できていませんでした!
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