身代わりの子
好きな男のこどもではなかった。
生みたくて生むわけではなかった。
生む気はなかったのだ。
だが、好きな男が「生んでほしい」と言った。「ぼくと君との子として育てよう」と。
それもいいな、と思った。
好きな男との家族ごっこはさぞ幸せだろう。愛に満ちて、昭和から平成にかけての核家族化の始まった、いつかの日本のホームドラマのような。お父さんにお母さんに息子と娘。
この男となら、夢に見たこともなかった、この身に起こるとも思わなかったような、そんな家庭を築くのもいいと思ったのだ。
腹の子は、男の子ではなかったのだが。
恋人とは別れ、腹に子だけが残った。
逃げたのだ。家族という泥沼が、おぞましく醜悪なものであることを思い出し、好きな男のとなりにあることより、一人であることを選んだ。
だがすでに遅く、中絶は不可能になっていた。
生まれてくるときから、この子は厭らしい子だった。
逆子ではなかったけれど、体が大きすぎる子だった。
青白い顔でほとんど室内に籠りきり、吹けば飛ぶような薄っぺらい体の、日本人の中でも特に小柄だった元恋人。その元恋人とは違い、息子は日本人ではない、体の大きな男の遺伝子を継いでいるせいだろう。
生むまでに、あまりの時間と苦痛とを要して、腹が立った。
なぜこのような苦痛を許容しなければいけないのか。
さっさと腹から出ていって欲しかった。それが無理なら、生まれてこなくてよいと思った。
やっと生まれたと思ったら、出血があまりに多く、助産師が慌ててドクターを呼んだ。ドクターの到着前に気を失った。
目を覚ませば、腹から赤子を捻り出したのと同じ部屋にまだいた。
こちらの様子に気がついた助産師だか看護師だかが、赤子を抱き上げて、チューブのない腕の方に赤子を置こうとした。
真っ赤でクシャクシャな猿みたいな赤子を可愛いとは思えなかったが、「可愛いです」と言っておいた。
初乳を与えろと、まだ張ってもいない乳房を含ませるよう言われることにウンザリした。
赤子のミルクくさい匂いが疎ましい。この匂いがいいのだ、という知人の言葉を思い出す。どこがいいのかわからない。
「生んだら可愛いから」
そんな言葉を信じていたわけではない。
母性愛など自分自身に期待してはいなかった。そんなものはきっとないとわかっていた。
わかっていたはずだったが、やはりどこかで期待していたのだろう。
生物の本能として、あるはずだろうと。
股から捻り出した我が血を引く子へと、何かしら特別な感情と執着を持つ可能性を。
入院中は、母子別室の産科でよかったと心から思った。
息子は育った。
とにかく死なせなければよい。
生まれてしまえば、育児放棄だのなんだのと、こちらが殺人犯になってしまうのだ。
いくども腹に還れと願った。そして腹の中で殺してやる、と。
だがしかし息子は育った。
「ママ! ママ! 見て! こっち見て!」
何もないのに、呼び止められる。
見て、と示されたところには、特に代わり映えのないいつもの息子の顔。息子がただテレビを見ているだけだ。
大人しくしていなさい、と延々と流れるアンパンマン。ただそれだけ。
「アンパンマンがね! おかおをね、あげたの! バイキンマンをね、やっつけたの!」
アンパンマンにそれ以外のストーリーなどないだろう。何も特筆することはない。だがちらりと目をやって「そうだね」と言えば、息子はこちらに駆け寄り、小さな手で腹回りにまとわりつく。
「ママ! ママだいすき!」
保育園で覚えてくるのだろうか。息子は最近、理解のできない言葉ばかり口にする。
ぐるりと回された小さな手と腕と、細い体。
息子の渾身の力はとても弱かったが、それでもぎゅうとしがみついて離れない程度の力は既にあった。そういえば生まれたばかりの赤子の頃でさえ、指を握らせてみれば、なかなか振りほどけなかったような気もする。
どうせ振り払おうとしても、ほどけないのならば、腕を回してやることにした。こちらが力をこめれば折れそうなほど細い体は温かかった。
「ママ! ママ……っ!」
腹のあたりに押しつけられた、息子の鼻水と涙とよだれでデロデロになった服はそのまま洗濯機に放り投げ、縋りつく息子を引き剥がして、ともに風呂に入った。
その晩は丸まった息子の背中とお尻に両腕を回し、ぐっと引き寄せて眠った。
摺り寄せた頬はやわらかく、すべすべとしていたが、強く押しつけるとヨダレがべたりとついた。やわらかな寝息がすうすうと首にあたり、持って帰ってきた仕事に手をつけずに寝てしまった。
「『ママのお仕事』はこれだからね」
不甲斐なく情けなくなったが、不思議と息子への憎悪は沸かなかった。
スーパーへ買い物へ出かける際は、息子をショッピングカートに座らせていた。キャラクターのカートではなくとも、大人しく座っている子だった。ショッピングカートの適用年齢を過ぎた今は、カートの傍を離れずについてくるようにさせていた。それも大人しく従う子だった。
だが最近、息子は「抱っこ! 抱っこしてよぉおおっ!」とせがむ。
体重が12kgの息子。
抱っこをしながら片手でカートを押すのは大変だ。だから歩くよう促すのだが、息子は大泣きしてしまう。しまいにはその場で足をだんだんと踏み鳴らし、地団駄が始まる。
これまでは聞き分けの良かった子がなぜ。
しかたなく抱き上げ、よろめきながらカートを押す。すんすんと鼻を鳴らし、目元をぐにぐにと手でこすっている。
手がしびれてくると、しだいに息子の重みで下へ下へとさがっていく。だが降ろされまいと息子は首にかじりつき、「いやぁ! いやぁ!」とぐずる。
品物を手に取るときには、息子に降りてもらう。それは息子も素直に聞き入れた。
「ママ。今日はママのからあげが食べたい」
「からあげ?」
「うん。コリコリのからあげが好きなの」
そういって息子が示したのは鶏軟骨だった。
以前、酒のつまみに揚げたもの。どうせかたくて食べられまい。そう思いつつ、息子が欲しがるままに皿に分けたもの。
「ふつうのからあげは?」
「どっちも食べたい。あのね、ママのからあげが好きなの」
息子がよく食べていたのは、からあげの他、なんだったろうか。
ポテトサラダに春雨サラダは、よく食べるような気がする。じゃがいもときゅうり、ハムとキクラゲ、人参と春雨をかごに入れた。
「ママ、おともだちがね、たかしをたたいたの。たたいたらダメなんだよね」
「ママ、ぎゅーしよ。ぎゅー」
「ママ、いっしょにあそぼ?」
「ママ、えほん読んで」
「ママ、プラレールで線路つくって」
「ママ、おともだちがトミカもってたの。たかしはパトカーがほしい!」
「ママ、おなかすいた」
「ママ、ちゅー」
「ママ、おはな、チーンして」
「ママ、おともだちからおかしもらった。たかしもあげるの。はい、ママ」
「ママ、うんち出た。オシリふいて」
「ママ、いたい。ころんだ。血がでた」
「ママ、ねむい。ぎゅーして。ちゅーして」
「ママ、お仕事がんばってえらいね。おつかれさま」
ママ、ママ、ママ、ママ。
息子が毎日何かを訴える。保育園へ迎えに行き、ご飯を食べさせ、お風呂に入れ、布団の中で抱き寄せる。
息子の目は青い。息子の髪は亜麻色。
成長とともに、目は茶色く、髪も黒くなるだろう。
だがそれでも、この男とならばと思った元恋人とは少しも似ていない。面影の一つもない息子。それなのに抱き寄せれば温かく、こちらを必死に求めてくる。
目を合わせれば、きらきらとした目を瞬き、まん丸くさせ、大きな口をあけて笑う。ほほえみ返してやれば、鼻の頭にしわを寄せて、ケタケタと笑い続ける。小さな手で顔をこすったり、こちらに手を伸ばし。
クレヨンと画用紙を持って、こちらの膝の上にのりあげお絵描きを始める。描き終えれば「ママとたかしだよ!」と自慢げに胸をはり、鼻息を荒くする。
ああそうか。
この子がやけに可愛く思えてきたのは、息子を元恋人に見立てていたのか、と気が付く。
他人の温もりに飢えていたのだ。
そうか。それならば得心がいく。
子どもに愛情を感じるはずがないのに、我がことながら気味が悪かったのだ。
「ぼくと君との子として育てよう」
あの男はそう言ったのだ。だからこの子は、あの男の代わりなのだ。
はぐれないよう、道路に飛び出していかないよう手を握る。柔らかく温かい、小さな手。
ギュッと力をこめれば、こちらを見上げて、にへりと笑う。何度かギュッギュッとやれば、その度に声を上げ、いつしかまた「抱っこ! 抱っこ!」と手を伸ばす。
ふっくらとした頬を擦り寄せ、口の端のヨダレがなすりつけられ、伸びていく。
小さな後頭部に手を這わせると、首元ですんすんふんふんと息を吸い、吐く、身代わりの息子。
いずれこの子の自我が明確になれば、母親らしい正当な愛情を注がず、幼くか弱い、無垢な存在から、温もりと魂とを搾取し続ける、この醜悪な存在を嫌悪し、そして復讐することだろう。
ひたすらに愛を求め、それが無条件に与えられるはずの、その当然の権利を有しながらも、無惨に踏み躙られる息子。
生まれながらにその誕生を祝福されず、母親から存在を疎まれ、生まなければよかったと憎悪に満ちた呪詛を浴び続けた息子。
ようやく母親の腕の中に包まれたかと思えば、血も繋がらず、見たこともない男の身代わりとなる息子。
哀れなものだ。
朝晩はかじかむほどではないが、すでに指の先が冷たい。ぐずる息子の布団をはぎ、胸元に抱き寄せると「ママ、つめたい」と目を閉じたまま眉間に皺を寄せて口のへの字に曲げる。
家を出れば、頬を刺すような冷たい風が息子の小さな鼻と柔らかな頬を赤く染めた。
鼻水の垂れた小鼻をつまむと、びゅっと鼻水が出た。ティッシュで拭い、冷たい頬を両手で包むと、元恋人とは違う色の目を細め、小さな白い歯を見せる。
金木犀の強く潔癖な匂いが、鼻水の垂れた鼻腔に届いた。