浪人の時の書きかけ ブ
「おーい、聞いてるのか、出元!」
「先生には聞いているように見えるんですか。」
「…そうか、ちょっと出ろ」
ため息を吐いて、持っていたチョークと教材を教壇に置きながら、荒牧が顎で教室の外を示した。
「——はい。」
教室を二人で出ると、葉の枯れた木々が、廊下の窓の向こうに見えた。曇り空のせいか、寒さに耐え忍んでいる様を連想させた。
感傷的な気分に浸っていると、後ろから荒牧も続いて教室から出てきたのに気づいて、僕は驚いた。
…以前までなら、一人廊下に放り出されるだけだった。流石に教師と一対一で相対するのには、顔が強張るのを感じた。どういった風の吹き回しなのだろうか。ついに、僕を更生させられる説教でも思いついたのだろうか。
いずれにせよ、いい予感はしなかった。
「…他の先生方にも話を聞いたが、そちらの方でも最近その調子みたいだな?」
「……」
「誰か一人の教師に反抗的であったり、そこまでいかなくても、元から誠実さに欠けた態度を取る生徒ならチラホラと見かける。だが、お前はそういうわけでもないし、その上ここ最近、二、三週間の話だ。」
「…そうですね。」
「何か、弁明は?」
「……特に、ありません。すいませんでした。」
荒牧が二度目のため息を吐いた。
呆れているのなら、さっさと教壇に戻れば良いのだ。
先生には僕の気持ちなんてわかりませんよと、ありふれた言葉が思い浮かんだ。
「……放課後、時間はあるか?」
少し間を置いて、荒牧が含みを持たせて言った。
「反省文ですか?」
「今回は免除だ。今日は俺に、少し付き合え。帰宅部だろ?」
「…帰宅したら、ダメなんですか?」
「ダメじゃないが、ダメだ。」
荒牧がにやりと笑った。
「……分かりました。」
「とりあえず、この時間は廊下に出てろ。風邪は引くなよ。」
「教室も廊下も大して変わりませんよ。」
「そうか。まあ、頑張れよ。」
ひらひらと手を振りながら、荒牧が教室へ戻って行った。
冬の始まりのひやりとするような寒さが肌を撫でた。…やっぱり、少し寒いかもしれない。衣替えの時期は終えていたので冬服ではあるのだが、無性に肌寒いような、そんな気がした。
荒牧が指摘したように、僕が授業にいまいち気が向かないのはここ最近の話だ。原因は分かっている。
理科の授業。生物の仕組みと、物質の仕組み。
それが、頭を離れてくれない。
人は、何かを食べて、消化して、それを血肉に変えて生きている。体を動かすための燃料もそこから得る。そして、脳がその燃料を使って電気信号を体に送り、僕たちは動いている。僕たちの意識だって、頭の中のその信号が作り出しているらしい。生物の先生が言っていた。
僕たちの体は、物質で出来ている。細かく見れば、それは原子というらしい。よく分からないが、原子核と呼ばれるものの周りをグルグルと電子というものが回っていて、それが物質を形作っているらしい。
…つまり、僕たちはそんなよく分からないものから出来ていて、あまつさえただの電気が僕らの自意識なのだと知った時に、僕はどうしようもなく不安になった。
『先生、何であなたはそんな重大な事を、普段と何も変わらない顔で教えられるんですか。』
『先生、あなたは、本当は僕たちが何“もの”なのか、知っているからですか?』
無性にそんな事を問い質したくなったのだが、そんな得体の知れない人物にその発言の本意を尋ねることは憚られた。それに、彼はその答えを知らないだろうし、事の重大さに気づいてさえいないだろう。
きっと、ただ単純に“大きくなった人”が、まるで人生の何たるかを悟ったような顔で闊歩しているのが、この世界の真実なのだ。
彼らの肉の鎧を剥けば、そこには筋繊維に縛られた血濡れの子供がいるのだ。決して”大人”なんて成熟した立派なものがそこにあるのではない。
もしそうでないのならば、自身のような”子供”が考えることなど”大人”には全部お見通しで、すぐに先回りした答えを与えてくれるはずなのだ。くれる、はずなのだ。
そう思わないと、やっていられなかった。
でなければ、僕はこの先、こんなにもわけのわからない世界で、何を足場に生きていけば良いのか、分からないからだ。
何も分からぬまま、あの大人達のように僕も筋繊維と血管をぐちゃぐちゃに己に癒着させ、元の自分がどんな形をしていたかさえ、いずれ分からなくなるのだ。
そうなるのは、ごめんだった。
しかし、どうすればその答えを知っている大人に出会えるのか。
いや、大人だとかそんな手段や周りの事は究極的にはどうだって良いのだ。
ただ、答えが知りたかった。
お前はこの世界のこういう存在で、こうやって生きていくんだよと。
この世界はこういう仕組みで回っているんだよ、運命とはこういうものなんだよと。
そう懇切丁寧に教えてもらえたならば、僕は泣いて喜ぶだろう。
こう思うと、僕が望んでいるのは神様なのだろうか。うちは無宗教だから、これを機にどこかに入信するべきか。
…結局の所そういった行き場のないSOSシグナルが、こんな幼稚で、稚拙な形で漏れ出てしまっていた。
今改めて考えてみると、ただそれだけの話だったのだと思う。
「どうしよっかな。」
手持ち無沙汰になって、廊下を階段に向かって歩き始めると、階の端にある自分の教室から、五つほど授業の最中の教室を横切る。三つめあたりでちらとドアの格子窓からその中を見ると、他の生徒達の背が見えた。
自分たちがそこで座っている事に、何の疑問も持っていないように見えた。
——なぜ、僕は教室にいないんだろうか。
僕は、何をやっているんだろうか。
…教室に、僕は戻れるのだろうか——
何となく早足になって階段まで辿り着くと、そのまま一階まで降りた。
一度、校舎の外でも散歩しよう。
時間が経てば、気持ちも落ち着くだろう。
何も考えず、周囲に溶け込んで、こんな目立つような真似はやめるのだ。
どうせ、僕たちの社会と違って、不変の真理とは、憎らしいほど不変であり続けるのだから。
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「失礼します。」
結局昼休みにご飯を食べに戻るまで、僕は教室に戻らなかった。そこからは普通に授業を受けたが。
周囲からもボイコットに対するからかいや心配の声はあったが、有耶無耶に答えればすぐに収まった。
気になる事と言えば、友人の一人が、少しこちらの様子を伺っていたのだが、とうとう最後まで何かを聞いてくる事は無かった事か。
あとで聞くと、彼が僕のボイコットを体調不良扱いとして他の先生に言ってくれたらしい。彼は特別僕のことを気にしていたということだったのだろうか。
一応、礼を言おうと思ったが、最後のショートホームルームが終わってすぐに彼は足早に教室を去ってしまった。
お礼は、明日すればいいか。
大方そんな感じで、さしたる障害もなくクラスに帰還する事が出来た僕は、荒牧の言う通りにちゃんと職員室にやって来たのだった。
「おう、じゃあ荷物まとめろ。」
何故か荒牧は既に鞄を手に持って、帰宅するような出で立ちだった。
「え、先生、一体どこに?」
「しっ、話は後でする。終わったら、そのまま家まで送ってやるからついてこい。」
「えっと、鞄はまだ教室にあります。」
「それじゃさっさと取りに戻って校門にいろ、すぐに行く。」
「あ、はい、わかりました。」
荒牧はこちらの了承を聞くや否や、階下へ向かっていった。おそらく、職員達も利用している駐車場へ向かったのだろう。
「(少し、急がないといけないな)」
校門までは少し距離がある。今鞄を取りに戻って行くならば、下手をすれば車の荒牧の方が早く着いているかもしれない。
荒牧は、何をそんなに急いでいるのだろうか。十中八九、僕をどこかへ連れて行くつもりなのだろう。
——なら、世界の最果てでも見せてくれるつもりだろうか。
出来もしない事を出来る、と見栄を張るなんて、
まさに”大人”のしそうな事だと思った。
——少しゆっくり行って、待たせてやろうかな。
子供じみたささやかな反抗心を自覚しつつも、僕は校門へ急いだ。
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