旅
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舟を停めたのは浜辺。季節は巡り、恐ろしく冷える季節がやって来た。暖かい、暑い季節はもう去っていった。太陽は遠くまた低く、地上を照らす光輝は何とも淡い。空気は冷たい。途轍もなく冷たい。空気が孕む冷たさが、中々流れようとせず、重たげに滞留しているようだ。そして風が立つと、その冷たさはこぞって人間を襲い、凍えさせる。自然の猛威であり、毛皮を持たない人間にとっては大変な辛苦となる。
しかし、こんな時期に旅するというのは、愚かな、余りに愚かなことだ。厳しい季節には、おのれが気を休めることの出来るところにいてその厳しさを凌ぐのが賢明なことに違いない。暖房があって暖かい衣服があって、穏やかに眠ることが出来る。そうだ。そうするのが賢明なことだ。だがわたしは、愚かだった。そう、余りにも愚かだったのである。
頭がクラクラする感じを覚えて目の前の景色に目をやる。ちょうどいい木のうろがあって、わたしはその中で寝ていた。防寒性のある衣服をまとっていたが、熱を奪われた末枯れの木々が並ぶ地の上では、ほとんど意味を持たなかった。鼻水が止まらず、クラクラする頭は石ころを一杯に詰め込まれたかのような疼痛がする。目は血走って、唇は皮がめくれ上がり、あまつさえ、歯が寒さと苦痛のためにカチカチと鳴る。
このような痛々しい様の人間は、猛獣さえ気にかけようとしないようだった。魚の豊富そうな海の近くの木立にいて、熊でもいそうな気配がするが、全く身の危険を感じない。平和なのだろうか。あるいは、感覚さえ、この寒気のために衰えてしまっているのかも知れない。思うに、そうだろう。
さて、日が上がった。冬のよそよそしい太陽が凍て付いた空に浮かんでいる。彼方の浜辺の長い丘陵が、もやにかすんでいる。神秘的な風景だ。
水の音が聞こえる。木製の簡易の舟が白砂に上がっている。わたしを愚かな旅へとおびきよせるように、波が浜に打ち寄せ、そして引いていく。低い空を飛んでいく鳥の鳴き声は、わたしに早く旅路へと戻るようにせかしているようだ。
わたしはうろより這い出、明るみに大儀そうに立つ。足腰が老衰したように重く、かたく、そして痛い。あっという間に息切れがする。不思議と、涙がふっと頬を流れる。その涙は、この寒さにあってとても、とても温かかった。そしてその温かさは、新たな涙を誘い、わたしはボロボロと泣き出してしまった。子供のように。なすすべをなくして途方に暮れた子供のように。無力さが、幼稚さが、助けを求める叫びが、叫ばれた。
しかし虚しいことだった。涙に暮れてなどいられなかった。わたしは泣けるだけ泣いてしまうと、袖でさっと目元を拭い、舟を力一杯押して海へと出した。
◇
水辺の風はずいぶん冷たい。寒冷な方面より来る風が、海面を渡り、その過程で海面が冷え、そしてその冷えた海面の上を行くことで、ますます風は冷たさを増すのだろう。
帆の張った舟を、その風は進めていく。風が、向かう方へと。
愚かなことだ。
わたしは心中で自嘲して呟く。
本当に、愚かで、浅薄で、無謀で……
失われた歳月は、彼方にある。わたしが、風と共に進む方角とは反対の方角の、彼方に。そこには、わたしが生活し、喜怒哀楽を味わったその歳月と共に、あの暖かさがある。優しい太陽がある、愉快な友人がいる、愛すべき恋人がいる、守るべき家族がいる。
だが、ある日わたしはあるものに見舞われたのだった。それは、天啓だった。それまでの全てが古いものへと変わり、新しいものが求められるようになった。眠っていた宿命の、驚くべきであり、悲劇的でもある目覚めの時が来たのだった。温かな季節はその時すっかり終わってしまった。夜が長く、そして深いものへと変化した。わたしの近辺には悪いものがはびこるようになった。憂苦、悲嘆、災禍。わたしは最早じっとしていられなくなり、それ等すべての不幸を背負って、故郷を後にした。
――あの浜辺は今や、遠いものとなった。舟は風の煽りを受けてどんどん前に、いずこかに進んでいく。
そしてわたしは自然と、あの浜辺に、おのれの捨ててきた故郷を投影する。ほっとする灯影、安らぎの寝息、お腹が震えるほどの盛大な笑い声。安心と信頼。希望と充実。――あぁ、どうしようもなく懐かしく、愛おしい。
ビュウっと突風が走る。そしてわたしは否応なく、現実へと目を向けさせられる。彼方にあるのは故郷ではなく、ただの島影。一晩の宿とした不案内な無人島の、もやを被った幽霊めいた影。
風は帆をぱんと広げ、止むまで絶えず舟を進めていく。
わたしは、旅を続ける。また暖かい季節がやってくるまで、あるいは、わたしが暖かさのあるところへと至るまで。
再度、突風がそばを駆け抜ける。その風は、刃のように鋭く、ぱっと近くの海面に飛沫を立たせると、彼方へと隼のように素早く飛んでいった。そして彼方には、あの小さな太陽が、淡い光を放射して、微笑んでいるのだった。
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