【32】歴史の話
「でも、異端審問で吊るし上げられてしまうということはそういうことよ。それだけ、ただでは済まされないということ」
異端審問所とは、「異端」の疑義をかけられた側が一方的に糾弾されるような性質を帯びた宗教機関のことだ。
その機関から仕掛けられたからには、とことんかの会派の主張と正当性を潰しておかなければ、逆にベルタがのほうが潰される。
今回のことは、そういう局面だった。
「彼らは私のことを、隠れ異教徒の子孫だと言った。もし、彼らが言いがかりで負の歴史を繰り返そうということならば、その芽をここで陛下が強く叩いておこうと考えるのも無理からぬことよ」
中央の人々が異端審問という言葉に過剰に反応するのも、彼らがその言葉を使って過去にペトラ人に何をしてきたか、その歴史をまだ忘れていないからだ。
異端審問所という機関の全盛期は、今からおよそ百数十年前にも遡る。
国土回復運動の機運に沸いた熱心な宗教者たちは、異教徒の弾圧と、このアウスタリア国土の思想的統一という理想に邁進した。
正統信仰に反する教えの糾弾――あくまでも、異端に染まった魂の救済という名目で、多くのペトラ人が殺された。
「……いつの時代の話だ?」
レアンドロがそう呆れた顔をするのも無理はない。南部にとってそれは、ひどく時代遅れな響きだった。
「かの機関は今も現役だもの」
南部ペトラ人は、歴史に残る大虐殺を受けて南部以南に引っ込み、泥沼の内戦の末、南部地域の政治的な空白を勝ち取った。
そして、征服軍の弾圧に屈せず立ち向かった先祖たちの記憶を「歴史」としてとっくの昔に過去のものとした。
しかし、中央にはそれがない。
「百数十年前の当時に比べれば、だいぶ勢いは下火になったようだけど。異端審問の理念を残して、だいたいはまあ――狂信的な一部の新興宗教とか、寒村なんかから発する宗教的な一揆を取り締まる警備機関として利用していた」
正統信仰の守護という大義名分はそれだけ便利なものだ。機関が暴走さえしなければ、という話だが。
「狂信的、な。どちらが『狂信』だか」
レアンドロはうんざりしたように言いながら、鼻で笑った。
「……だがまあ、なるほどな。理不尽な蹂躙。忘れ去りたい過去。そういう自分たちが作り出した亡霊が、今になってやっとのことで王家に入れたペトラ人の妃に取りつこうとしたものだから、連中は焦り出したってわけか」
思うに今回の長官ジャマスの行為は、そうした記憶の掘り返しという意味でも最悪の禁じ手だった。
南部ペトラ人や、南部で以前信仰されていた異教に『異端』の罪をけしかけることを、融和の流れが支配的な今の王宮が看過するはずもない。
「しかも私を叩けば、同時にルイの正統性も叩いておけるから」
ベルタはわざと軽くため息をついて、切り替えるように、緩く室内に視線を落とした。
部屋の中には、ルイと数日間過ごした生活感があちこちに転がっている。
「――ルイの継承権の正統性は、今後いくらでも補填していかなければならないのに。こんなところで躓いてる場合じゃないのよ」
次期国王が、大陸社会の文化圏の中で異端視される可能性など、欠片も残しておいてはならない。
だから南部を異端だという主張に則って起こされた国内的な反乱は、首謀者を最悪の造反者であると見なして処断しておく必要がある。
それこそもう二度とこんなことが起きないように。
ハロルドは今回のことで、異端審問所を実質的には閉鎖に追い込むところまで持っていくかもしれない。
「ベルタ。おまえはルイを、王にしたいのか?」
レアンドロのその問いは、素朴な分だけベルタに即答を許さなかった。
しかも彼は純粋に疑問だという顔をしていた。
「なあ。別に、今からでも遅くはないだろ。仮にも王妃が王宮内で危険な目に遭うような、異端呼ばわりされる程度で立場すら危うくなるような馬鹿げた場所に、無理にしがみついて生きる必要もない」
馬鹿馬鹿しくなったというように、彼はそう毒づいた。
「財務庁も散々だぞ。今回のことで、昔異端審問官だった経歴もあるオヴァンドは失脚。なんだかんだオヴァンドがいなければ、あの機関は回りはしないし。みんなで南部に帰るなら、今がその時なんじゃないか?」
けれど彼がもし本気で言っているのなら、それはとんだ読み違いというものだ。
遅い。
レアンドロが言っていることは、現実的に行動に移すのなら既に、あまりにも時機を逸している。
だが、それと同時にわかっている。彼は別にそういう現実的な言い訳を聞きたいわけでもないのだろう。レアンドロはただベルタの真意を問うている。
彼はベルタから、帰りたいという情けない自白を引き出したいのだろうか。それとも、せめて頑固に意地を張ってみせろと言うのだろうか。
「私は帰らないわ。何があっても」
しかし――どうしてこう、誰も彼もがベルタの積極的な意思を問おうとするのだろう。
良いじゃないか、少しくらいは言い訳をさせてくれたって。仕方がないからここにいる、そうやって、たまには他責的なふりに逃げたって。
「ねえ、私がいつから王妃になったと思う? カシャから出て来た時? 先の正妃が失脚した時? ルイが生まれた時?」
ついつい苦笑が漏れるのは、そうやって時には都合が良い、流されているだけという振る舞いを、誰もベルタに許しはしないからだ。
「――そんなに、あの男のことが大切か?」
「ええ」
いつからか、言っておいてベルタにもわからない。
ただ気がついたら。それだけだ。
「そんなに王妃の座にしがみつきたいか?」
「そうね。……私はどうしようもなく強欲なの」
だからベルタは、全てのことを自覚してここにいる。
もう決めたのだ。
「王妃として歴史に名を残してみたくなったわ」
彼の妃として。あの孤独な王さまを一人にしないために。
それから、南だ北だといちいちうるさいこの国の馬鹿げた伝統に、一石を投じ続けるために。
もう、器ではない、荷が重いなどとは言っていられない。ベルタ以外が誰もやらないというのだから、ベルタがやるしかないではないか。
彼女の不遜な回答は、少なくともレアンドロを満足させたらしかった。
「……それならそれで、南部の立場から王妃さまに言わせてもらうがな」
「?」
急に実務的な方向に切り替わった話の内容は、ベルタにとって予想外なものだった。
「今回のことで、南部も黙っちゃいないぞ。親父からの返書はまだ届いてないが、間違いなく激怒の上、王妃を南部に帰らせろくらいの抗議は返ってくる」
「は??」
けろりとした顔で何を言うのか。
「当たり前だろ。うちから出した王妃が無礼な扱いを受けたし、あまつさえ直接に危険にまで晒されたんだ。カシャとしても他の太守たちへの体面もある。黙ってちゃ示しがつかないからな」
「は? ちょっと、やめてよ。わかるでしょ? 今どう考えてもこっち側はそれどころじゃないでしょ」
「はあ? 王家の事情なんざ知るか。本来ならおまえが怒って南部に抗議させるところまでやるべきだろうが」
彼がきっちり職分を守った働きをする人間であることが、この時ばかりは多少恨めしい。
「――ともかく、少なくとも陛下からカシャへの正式な謝罪が出てくるあたりまでは、こっちとしても引き下がれないからな。先に言っておくだけありがたく思えよ」
確かに、後々カシャと意思疎通がろくに取れないような状況で、父の落としどころを読めずに対応に苦慮していたかもしれないことを思えば、まさにこのような時のためにレアンドロを呼び出したのには違いない。
……違いないが、自分で自分の首を絞めた感は否めない。
「……お気遣い痛み入るわ」
頼もしい弟に、ベルタは苦し紛れの笑顔を返した。