【31】頼まれた
――あの日、ベルタに相対したあの初老の僧侶。
彼はプロスペロ教団の中でも、より原理主義・禁欲主義的な、「シエナ修道会」という会派の修道士だった。
シエナ修道会と聞けば、さすがにベルタも思い当たるものがあった。
「ああ、……あの。異端審問の」
かの修道会は、この国の歴史に深い影を落とした、悪名高い「異端審問」を積極採用した会派として知られていた。
確かにあの男は、ベルタのことを隠れ異教徒の子孫と呼んだ。
かつて、大河以南に逃げ込む以前、ベルタたちの先祖である南部の民は「異教」を信仰しているとして糾弾され、異端視されていた時期がある。
そうした原理的な会派が、今この時にベルタに接触してきた意味。
あの礼拝堂での具体的な衝突を見ていない者たちですら、何が起きたのかは容易に想像がついたことだろうと思う。
彼らは当代の王妃を、異端審問にかけようと目論んだ。
目論んだ、というか。
(どちらかと言えば、「異端審問にかけられた」が正解だと思うけど……)
あの僧侶はあの日、明らかにベルタを弾劾する風情だったことを思い出す。
とはいえ、この件についてベルタにできることは何もなかった。
このエリウエラル宮が「荒れた」らしい数日の間、彼女は一歩も部屋から出ずに粛々と過ごした。
おびただしい数の護衛に守られて、彼女のもとにはあまり雑音も届かなかった。
ハロルドは結局、よほど忙しいのか、……それとも会いづらいのか知らないが、結局ベルタたちを自室に滞在させている間は、一度も戻ってくることはなかった。
数日後、ベルタの元に訪れたのは予想外の人物だった。
「れあんろど!」
「――王子。いい子にしてましたか?」
久しぶりの客人に、遊んでほしそうに寄っていくルイには悪いが、ベルタは早々にルイを別室に連れて行くよう女官たちに目配せをした。
レアンドロの訪問の要件が何かは知らないが、それはルイに聞かせるような話ではないことだけは明らかだった。
「へえ。意外と趣味がいい部屋だな。初めて中まで入ったけど」
室内にごく限られた使用人しかいなくなったのを確認し、レアンドロは変わり身早く、即座に悪い方向に態度を改めた。
「陛下の部屋よ」
「あっちの成金王族よりかは良い趣味してる」
レアンドロがそう言うのは、彼がカシャを勘当されている間に滞在していた海外の小国群のことだろうか。
「あなたは外朝を普通に出歩けているの?」
「特に指示は出てないし、身の危険も感じてはいない」
レアンドロは、この状況下の王宮でも、まるでいつも通りに振る舞っているように見えた。
「まあ、外朝には南部の人間も、別に俺たちだけってわけでもないしな。そもそも今回のことで信心を問われて槍玉に挙げられていたのは、王妃ただ一人だ」
「そう。良かった」
そして、彼の伝言は意外なものだった。
「ああ。でも、おまえももう自分の部屋に戻っても良いってさ」
なぜレアンドロがそれを?
「……それは、陛下から?」
「陛下も側近連中もまだ忙しいんだろうし、シュルデ子爵じゃ用が足りないからな。……後々どこからでも耳に入るだろうが、外の情報は早めに伝わったほうが良いだろうって頼まれたんだ」
主語がないが、誰がそれを彼に頼んだのかは明白だった。そうやってベルタの周囲の人々を使えるのはハロルドくらいだ。
彼らも別に、そう気安いほどの距離感でもないだろうに。
「陛下は今何をしているの?」
ベルタはため息を隠さなかった。
レアンドロはそんな姉に対し、肩を竦めて苦笑してみせた。
「まあ、待て。順を追って話す」
それからのレアンドロの説明は、ベルタにとってはまあ、想像の範囲内の出来事ではあった。
「あの日、礼拝堂でおまえと接触した僧侶――異端審問所の長官ジャマスは、反逆罪で即日処刑された」
そういう事態を予想できていたから、この話運びが決して茶化した流れにならないことを察して、ベルタは憂鬱な気持ちになった。
「……あの場で?」
「いや。一応、罪人として弾劾の手続きを踏んだ上ではあった。だがまあ、シエナ修道会にも、それに賛同的な諸会派にも余計な口出しをさせる暇は与えず、というところだ」
「まあ、そうね。あの僧侶……ジャマスに余計な証言をされたくはなかったでしょうし」
合理的にそう承服できる部分と、そうして政治的な立ち回りを演じる上で、「必要な犠牲」の数を数えることに対する忌避感の、両方を見つめている。
「王妃相手に異端審問を持ち出そうとしたシエナ修道会を、陛下は王家への反逆罪とみなして厳しく処断した。長官ジャマス以下、当日に王宮内にいたシエナ会士の大半は処刑。他にも関与があると判断された僧侶たちは投獄や国外追放……なんらかの処罰が下っている」
シエナ会士はあの日、礼拝堂内でベルタがジャマスと対峙している時に、やはり礼拝堂を外から包囲しようとしていたようだ。
彼らは、礼拝堂の隣室に控えていた王妃の護衛を一人、騙し討ちの形で殺害している。
――胸を一突き。それに驚いた女官のほうは、当人にとっては運が良かったことに、声も挙げずにその場で卒倒したらしかった。
おかげで女官、パオラのほうは、命は助かった。
「陛下は今、国内にあるシエナ修道会の全ての修道院領に攻め込む許可状を教皇庁に申請しているが、まあそれ自体事後報告みたいなもんなんだろ。領土没収の上、ほぼ会派ごと壊滅させるつもりで動いているのは間違いがない」
つまり今はもう、この王宮内での直接的な粛正は済んだ段階ということだった。
会派同士の衝突などの危機が過ぎ、国家の大意は明確に「反逆者」が誰であるのかを定めた。
異端視の槍玉に挙げられた王妃か、それとも王妃を処断しようとした会派か。
これまで大陸諸国との摩擦を避けるため、宗教論争に関してはかなり穏当な政策を打ち出してきたハロルドですら、一転、国内の一会派丸ごとを壊滅に追い込む決意をせざるを得なかった、ということだろう。
「……わかっていそうなものなのに。異端審問なんて。それを言ってしまったら、お互いにもう後がないって」
粛清の動きはもう止まりようがない。
シエナ修道会士がベルタを攻撃するために使った「異端審問」という言葉は、あまりにも強すぎた。
「そんなに驚かないんだな」
レアンドロはあくまで表面上淡々としていたが、それでも彼は今回の粛正にはそれなりの衝撃を覚えているようだった。
彼は、夏前に初めて王宮に来た頃に比べれば、すっかり地に足をつけて暮らしている。
国王への初対面の謁見に臨んだ際には、まるで周囲を威嚇するかのように鮮やかな南部の衣装を身にまとっていたが、少しずつ王都に馴染んできたのか、それとも単に寒さには敵わなかったのか、最近は中央の貴族たちとそう変わらない服装をしている。
「あなたの目から見て、私を異端弾圧から守ろうとする王家の動きは、そこまで過剰に見えている?」
「過剰だろ。陛下が私情でここまでしてるだけなら、まあ、まだわからなくもないが。周りも誰も陛下を諫めない。……むしろ粛正を妥当だと思っている廷臣が大半だ」
とはいえ彼よりはベルタのほうが、数年分は長く中央の人々や文化と接してきた。
彼らの歴史への認識も、宗教世界での理論的な決着点が、時には世俗すらを巻き込む厄介な性質も、多少は知った。
彼らが今回のシエナ会派との一件に関し、ここまで苛烈な反応を示したのにはわけがある。