【29】王室礼拝堂で
その日も、普段のようにベルタは王室礼拝堂に足を踏み入れた。
けれど室内で彼女を待っていたのは、すっかり顔馴染みになったシスターの姿ではなかった。
「……今日はシスターは?」
代わりに立っていたのは、初老程度の容貌の、一人の男性僧侶だった。
厳格な清貧生活が彼らの外見をそうさせるのか、その初老の男は明らかにシスターよりも若いだろうに、その出で立ちから生気というものを感じさせない不気味さがあった。
「シスター・ステラは体調不良のため、本日は私が妃殿下へのご指導の代役を仰せつかりました」
「そう」
干乾びる直前のような体躯をお仕着せの修道服で覆い、棒切れのように細い存在感でありながら、眼光だけは爛々と輝いて異様に鋭い。
「代役は結構よ。今日は帰ります。シスターには、お大事にと伝えておいて」
この僧侶の説教を聞く気にはなれなくて、ベルタは即座にその場から踵を返そうとした。
しかし、その瞬間、鋭い叱責の声がベルタを制止した。
「――――お待ちなさい!!」
さすがに驚いて、反射的にぴたりと足を止めてしまった。
彼女が王妃として生活する中では、およそ聞くことのない怒鳴り声。
何?
「――妃殿下の三代前までのご先祖は、少なくとも隠れ異教徒であることに疑いはございません」
その初老の僧侶の声は、鋭くも淡々としたものだった。
仮にも王妃である女を、そうして叱責によって呼び止めた人間と同じものものとも思えない。
その異様な雰囲気に、ベルタは呆気に取られて立ちすくんだ。
(……なに?)
隠れ異教徒?
「隠れ異教徒とは……また、随分と古い言い回しを使うのね」
「古い? 異端を示す言葉に古いも新しいもございません。信心が廃れることなどあり得ぬこと」
努めて平常心を装いながら僧侶と問答を続けつつ、ベルタは少しずつ息が苦しくなっていくような緊迫感を覚える。
なぜなら相手が、なぜか身分の軛から解き放たれた物言いをしていることは明らかで、
その不遜さはいったい何を意味するのか。
「――妃殿下は私の質問に答えるまで、この礼拝堂から出ることはなりません」
「……あなたとこれ以上、話す気はないわ」
「聞こえませんでしたか? 神の御前にて、あなたに拒否権はありません」
後がない捨て身の者であるのなら、僧侶は言葉だけでなく行動でさえ、ベルタに危害を加えることを躊躇わないかもしれない。
「――妃殿下は、豚肉はお嫌いですか」
「豚肉?」
……明らかに話が通じなさそうだし、走って扉の外に出てしまおうか。少なくとも隣室には護衛と女官が待機しているだろう。
けれど、もし万が一この僧侶の一派の手が回っているとしたら。
礼拝堂の扉は今、外から閉められているかもしれない。
「――――蹄のない四つ足は禁忌として口になさいませんか、それとも別の理由で? いずれにせよ、信仰の是非を問う如何ともしがたい疑義となり得ます」
走って逃げようとして、もし失敗したら。
一対一の状況下でこの僧侶を刺激することは、得策ではないかもしれない。色々と考えて黙り込んだベルタを前に、男は俄然勢いづいた。
「日に何度も、あなたはどちらに跪き、祈りを捧げていらっしゃるか。あなたの神はいずこにおられるか。――答えられよ。さあ、御身の、秩序へ背いた信仰を」
男はふらふらとよろけるように、二、三歩ベルタに向かって距離を詰めた。
それと同じだけ後ずさって距離を測りながら、ベルタは意識を、背後の扉のほうに向ける。
(いや、さすがに開いているはず……)
この状況下で閉じ込められている場合、扉の外はどうなっている? 外にいるはずの護衛と女官、彼らは拘束されているか、あるいは――。
全ての危機感すら後追いで、ベルタは瞬時に、己が非現実な状況に追い落とされている状況に呑まれた。
「――答えられよ。己の罪を。異端の身が、厚顔にも王の妃を名乗る反逆を!」
扉まではあと十歩ほど。じりじりと後ずさりながら、ベルタはその僧侶の干乾びた顔から目が逸らせなくなっていた。心臓が痛いほど脈打つ。
僧侶の目は、ベルタを映しているようで映していなかった。
爛々と輝くその目。今にもベルタに届きそうに手が伸ばされる。
「さあ! ……女!」
――――その時。
礼拝堂の扉が、緊迫した状況とは裏腹に、ゆっくりと軋んだ音を立てて開かれた。
ひどく厳かに淡々と。




