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【27】シスター・ステラ



 宗教への無知は、王妃ベルタの最大の政治的欠点でもあった。


 しかし、それはあながち彼女の怠惰を示すものとも言い切れなかった。

 南部出身の彼女には、他の多くの南部の民たちと同じく、宗教に対する漠然とした忌避感があった。



 それは、南部という土地柄が抱えた歴史的な事情に端を発している。


 南部はもともと、数百年前に異教徒の侵攻に晒されて以来、長く異教徒の文化が流入した土地柄だった。


 つまり南部において支配的な宗教はもともと、大陸宗教であるプロスペロ教ではなく、砂漠の向こうから持ち込まれた異教であったのだ。


 ――しかし、今から百数十年以上も前に、国土回復運動に後押しされた大陸北方諸国の軍が押し寄せて異教を駆逐した。


 征服軍は異教徒をとことん迫害し、砂漠の民は再び南方の海の向こうに消えて、残されたのは異教の文化に長年支配されて染まっていたペトラ人のみだった。


 征服軍や、征服王朝である現王朝がプロスペロ教の名のもと、当時どんな風に南部の異教信仰を弾圧したかは想像に難くない。


 やがて、異教に染まっていたペトラ人たちの集団は大河以南へ逃げ、一致団結して南部弾圧の流れと戦うこととなるのだが――その当時の民族的な分断が、現在までの南部ペトラ人の源流となっている。


 征服軍はその一連の戦いの中でも、南部への略奪と粛清を続けるため、当国アウスタリアの領土である半島の「思想的統一」という宗教的な大義名分を利用した。



 この、宗教戦争の様相を呈してしまった泥沼の対立を躱すため、南部ペトラ人の先祖たちは色々と方便を用いた。


 彼らはまず、表向きは信仰を隠して、プロスペロ教の教義に臣従したふりをした。


 しかし、それでも次第に「隠れ異教徒」と揶揄されて弾圧を向けられるようになれば、結局はプロスペロ教徒のふりをし続けることも馬鹿馬鹿しくなって、南部はむしろ堂々と大陸社会の文脈から外れ、啓典の民あらざることを選んだ。


そうして、征服軍から宗教戦争の大義名分という勢いを削ぐことと引き換えに、あらゆる信仰を放棄した。


 もちろん、征服軍や当時からの現王朝が、その南部の方便に折れざるを得なかったのも、凄惨な弾圧の時代が続くことに飽いた両者が、どうにかこうにか落としどころを探ったという事情によるものであったことだろう。


 たぶん、南部の先祖たちは、最初は単に建前として不信心を演じていたのだと思う。

 しかし代を追うごとに、大河に守られた閉鎖的で豊かな土地柄を謳歌した南部の民は、次第に本当に信仰を忘れていった。


 信仰はいたずらな争いや迫害の種となり、それ自体が危険で忌避すべきものでしかなくなっていたからだ。


 砂漠の異教も北方からのプロスペロ教も、当該地域にもともと住まう民たちにとっては全て、よそから流入した後付けの文化に過ぎなかった。


 民族の命運を懸けてまで信仰を守り抜くほどの神への忠誠心は、南部ペトラ人にはなかった。


 そうやって信仰を捨て、南部の民は、商業文化の花開いた上り基調の百年の繁栄を過ごした。


 やがて南部には、信仰を忌避する民族的な記憶だけが残った。



 つまり、南部が宗教的な空白地帯だという事実自体が、宗教的なことに無知蒙昧な人々が集っているという話とは土台真逆の、陰惨な歴史を辿った民族の結末なのだ。



 しかし、いよいよベルタ自身、そうも言ってはいられなくなってきた。


 彼女は当代の王妃として、少なくとも当事者意識を醸成する必要があったからだ。

 信仰論争の怖さについても、それを利用する大陸諸国の思惑も。


 加えて、ルイの洗礼の儀を執り行うにあたっては、やはりその父母の信仰心が重要視されるという差し迫った事情もあった。


 ルイの洗礼を無事に成功させるためにも、ベルタ自身が付け焼き刃ではない実地の知識を入れ込んでおかなければならない。

 いざという場で機転が利かないのは致命的だ。


 そういうわけで、遷都の時期と前後して、ベルタは少しずつ宗教的な講義を受ける時間を日常に組み込んでいた。


 彼女の講師役は、ある一人の老修道女だった。


「シスター・ステラは素晴らしい宗教者であると同時に、長年に渡り、私の良き話し相手でもあるの」


「初めまして。王妃殿下」


 王太后が間を取り持ってくれて、ベルタはステラというその修道女と初対面の挨拶を交わした。


「妃殿下の講師役とは恐れ多うございますけれど、及ばずながら精一杯務めさせていただきます。どうぞよろしゅうに」


「よろしく頼むわ。シスター」


 見るからに敬虔な宗教者という風情のシスターの前でなんだが、思いきり世俗の事情を踏まえるとすれば、シスター・ステラは男性のアウスタリア司教とも並ぶ当代の宗教的な権威者であろうと察せられた。


 もともと、聖職者となってしまえば生まれの門地は関わりがなくなるという建前があるとはいえ、王宮で幅を利かせている聖職者の多くは貴族の子弟――次男や三男以降という者たちが多い。


 それを踏まえればシスター・ステラも、この国ないしは王太后の母国の貴族と繋がりがあるのかもしれない。


 ベルタはもともと、文字の読み書きができる聖職者は概ね貴族の子女であるという認識をしていたし、それはあながち的を外した理解でもなかった。


 そういうわけで、王太后の話し相手であり、おそらく友人でもあるシスターに対し、ベルタは当初は結構身構えていたところがあった。


 彼女を紹介してくれた王太后の顔を立てる必要もあった。

 思えば、取り繕おうともしていた。


 ベルタは、己の不信心が敬虔な者たちに眉を潜められるものであると自覚していたし、もういいかげん、アウスタリア司教やシスター・ステラのような、人の好い宗教者たちを落胆させるのも悪いなと思っていた。


 しかし、シスターはそういうベルタの内心すらわかっているというように、常に優しく穏やかな接し方をした。


「妃殿下はご政務に、ルイ王子のお世話に、日々お忙しゅうございましょう。こちらにいらっしゃる時間はあまり肩肘張らず、どうぞ気楽になさってくださいな」


 彼女との講義は、エリウエラル宮の奥まった場所にある、王家のための静かな礼拝堂で行われた。


 シスターは、ルイに接する神父よりもなんなら優しいくらいの態度でベルタに接し、王室礼拝堂の講義室で顔を合わせると、いつもお菓子をくれた。


「この歳になってお勉強のごほうびをもらうなんて思わなかったわ」


 ベルタは菓子を受け取って苦笑しつつも、なんだかシスターの穏やかな表情を見ていると、悪い気はしなかった。


「ふふ。いくつになっても頑張った時にはほめて差し上げなければ。時には自分で自分をほめることも大切ですよ」


 いっそ堂々とした子供扱いが心地良いのも、彼女はきっと誰に対してもそう等しく、自らの子のように接するのだろうと思えるからだ。


 いや。自らの子、ではないのか。

 人はみな等しく神の子であるという、彼らの教義。


「そうね。ほめられると嬉しいものね」


 とはいえベルタは王妃として、外で出されたものを口にすることは差し控えるべき立場にあった。

 ましてやシスターとの講義は、いつもベルタと彼女の二人きりの問答だった。


 もしベルタのそばにいつも通り侍女たちが控えていれば、さりげなく毒味を願い出てもくれただろうが、この場に限っては彼女たちもいない。


 仕方なく、ベルタはシスターの菓子をありがたく受け取りつつも、手を付けずに過ごしていたのだが、何度目かの講義の時にシスターもそのことに気がついたらしい。


 シスターは自ら毒味の役を買って出るように、ベルタに供した菓子の一つに、そっと控えめに手を伸ばした。

 ベルタは驚いたが、そうやって気遣われてしまえば特に断る理由もなくなった。


 初めて食べる見慣れない北部の菓子は、なぜか懐かしい味がした。


 シスターがいつも用意してくれる菓子は、女子修道院で伝統的に作られているものらしい。


 ふわふわの綿菓子のようなものやパンのようなもの。

 それは甘味というよりは、もっと素朴な味わいのようだった。


 その日以来、すっかりベルタにとってもシスターがくれる菓子が宗教講義の楽しみになった。




 けれどそのうち、ベルタのほうも気がついた。

 毎回ベルタに付き合って、毒味として少しずつでも菓子を口にすることは、シスターの負担になってはいないだろうか。


 シスターは少なくとも王太后よりも年嵩のようだったし、清貧を是とする教義の中で生活する彼女たちは、ただでさえ食が細いだろう。


 そういうことに思い至ってようやく、ベルタはその次の講義の時に、シスターが毒味をしなくて良いように、彼女が出してくれた菓子に、彼女よりも先に手を伸ばした。


 それは王妃としてはやや失格の対応ではあったものの、ベルタは彼女を信頼していたし、彼女にも気遣いを返したいと思った。


 今度は、シスターが少し驚いた顔をしてベルタを見た。


 彼女は目を丸くした後に、しわがれた目尻の皺を更に深くして、ベルタにそっと笑みかけた。










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