【26】信心の在り処
廊下の先、レアンドロが一つの扉を開いてシュルデ子爵を案内すると、室内に一歩足を踏み入れた子爵はたちまち目を丸くした。
「すいません、ちょっと散らかっていますが」
顧問院はこれまで常設の機関ではなかったせいもあり、財務長官の居室の手前の控室までも、すっかり古い帳簿が広がって官吏たちがひしめき合っている。
レアンドロは室内にいた部下に、視線と身振りだけで長官室に用があることを伝えた。
自分たちに構わず作業を続けて良い旨を伝え、ずかずかと長官室の扉の前まで進んだ。
「――卿。卿、ご在室ですか。妃殿下の遣いでシュルデ子爵がいらっしゃいました」
一応声をかけると、室内からはすぐに返答があった。
この部屋の主、財務長官オヴァンドは、長官室の年季の入った机の前で律義に立ち上がっていた。
彼はシュルデ子爵よりは当然職階が上だが、それでも妃殿下からの遣いを座ったまま受け取るのはいかがなものかと考えているらしい。
「シュルデ子爵。わざわざご足労ありがとうございます。あの件ですかな? 例の、通商院への視察の」
「はい。視察の許可証について、妃殿下から書状をお預かりしております」
シュルデ子爵は、大事に抱えていた王妃の封蝋付きの書状をオヴァンドに渡した。
オヴァンドもそれを両手で受け取り、遣いの子爵に対して一礼する。
「お早いご対応をありがとうございます。こちらで進めさせていただきます」
通商院というのは、植民地を統括的に管理する政治機関の名だ。
その本部は王都ではなく、伝統的に水運の強い港の各地に置かれている。
今回、財務顧問院として長官オヴァンドが直々に出向く視察が計画されているのは、大河流域のメサーロという港町にある通商院だった。
植民地貿易の実情と、帳簿状況の調査を兼ねた視察だが、レアンドロが長官に視察を進言した最大の目的は、オヴァンドに現場を見せて意識を変えさせることだった。
徴税業務の現場へのガサ入れともなれば、それなりの荒事も発生するだろう。
正直、もともとの財務顧問院のお偉方の老人どもは頭でっかちで考え方が固すぎる。
彼らはそもそも徴税という汚れ役と、国家の予算案を練る自分たちの高尚な仕事を切り離して考えたがっている節があった。
「許可証のついでに妃殿下から伝言を預かっております。……なんでも、メサーロはそれなりに南部の文化圏が流入している港町であるとか。ああいう港町の徴税官は柄が悪いので、なるべく聖職者の方々は、それとわからない服装で行くことをお勧めするそうです」
メサーロの通商院がどういうガラの悪さの統治機関であるかという肌感覚は、どうやらベルタ本人もレアンドロと一致した見解であるらしい。
「……なるほど」
一方でオヴァンドは、あまり合点がいっていないという顔だ。
「しかし、土地柄振る舞いに気をつけるようにというご忠告はありがたいことですが、服装までとは。……我々に、変装のような真似事をせよとは。奇特なおっしゃりようですな。そのようなこと、あり得ぬ仕儀と妃殿下にお伝えいただけませんか」
各人の出で立ちとは、その人物の社会的な身分や立場を示す記号のような意味合いもある。
どちらかと言えば今回は、確かにベルタの言い条のほうが非常識ではあった。
僧侶たちが還俗の服装をすることは通常あり得ないし、ましてや誰もが身軽に庶民の服装に身をやつしたりはしないのだ。
「ちょっと失礼」
レアンドロは、シュルデ子爵が携えていた書き付けを横から盗み見た。
公的な書状とは別に、シュルデ子爵の伝言能力を不安視したベルタが、書き起こして持たせたメモ書きのようだった。
「『南部の文化圏において、聖職者と知れるとそれだけでもう話を聞いてもらえない可能性があることを、卿に伝えおくよう――』ああ、つまり、妃殿下のご懸念はですね……」
宗教的な問題に対する南部の独特な空気感は、おそらく現地の感覚を知る者以外には把握しづらいものだ。
もしかしたら中央のプロスペロ教徒どもは、南部地域を単に、宗教的な啓蒙が足らない未開の地だと思っているかもしれない。
特定の信仰を持たないという生き方を、それはまだ信仰というものに触れたことのない人間の、無知で憐れな選択であると。
しかし、実際のところ南部の実情は、それと全く異なる。
「……つまり南部は、特に内輪の文化圏になればなるほど、何かを強く信奉している人々のことを忌避する傾向があります」
「レアンドロどの。南方に下がれば下がるほど不信心な人々の多いことは無論、私も認識している。嘆かわしいことだが、長らく治世と教会の手が行き届かなかった故のことを今もって、南部の民の責であると問うつもりはない。彼らにも等しく、救われる権利はある」
オヴァンドの考え方は、中央で巨大な権威を有する教会で育まれた聖職者の意見としてはなかなか立派なものであるだろう。
とはいえ実情とは危険な食い違い方をしている。
「オヴァンド卿。あなた方は、信仰を持たない我々のことを低く見ているかもしれないが、それは南部の人間もまた同じこと」
これははっきり言っておいたほうがいいな、と思って、レアンドロは直属の上司に誠心誠意の忠告をした。
「ーー南部の民は逆に、信仰を持つ人々のことを、見えもしない神を崇めて暮らす変わり者たちだと内心では馬鹿にしています」
「…………ば、馬鹿にっ?」
オヴァンドが絶句しているうちにレアンドロはたたみ掛けた。
「啓蒙の足らぬ憐れな民だと思って南部の人間と接するのは危険です。そりゃあ、中央に出てきている我々カシャや他の南部太守たちは、それなりに中央の宗教偏重に理解がありますから。あなた方が我々を未開の野蛮人と捉えていても、怒ったりせず穏当に対処していますよ。しかし一般庶民は違います」
南部の民は直情的だし、プライドも高い。
南部にとっては余所者の僧侶に矜持を真正面から傷つけられればそれなりに攻撃的にもなるだろう。
「――もし、私や妃殿下の見解だけでは不足と思うのなら、陛下の側近の方々にもご確認を取ることを勧めます。一昨年の南部行幸の折も、陛下はやはりお付きの中に聖職者を入れずにおいでになられたと聞き及んでおります」
オヴァンドとレアンドロの間に、緊迫した空気が張り詰める中、空気を読めるのか読めないのかシュルデ子爵が取り持つように普段通りの調子で明るい疑問を発した。
「しかし、どうして南部の人々はそこまで神を信じないのですか?」
レアンドロ個人としても、千年以上も前に死んだ、ただ一人の人間のことを神と崇めて暮らしているらしい彼らの宗教的教義は正直どうかと思うし、気は知れない。
しかし、レアンドロはこの自らの忌避感の源泉がどこにあるのか知っていた。
それはレアンドロ自身が主体的に選択した思想というよりは、単に民族的な記憶によるものだ。
南部の民の大半が今現在、特定の信仰を持たない理由。
「――南部の民の信仰心は、たいがいが歴史の中に消えたからです」
大陸諸国の宗教にしろ、砂漠の異教にしろ、南部はこれまであらゆる思想に揉まれ、文化の往来としての揺り返しを受け続けた土地柄だ。
もし彼らが、その中のどれか一つの思想にでも染まり切っていたら、反対宗教からの民族への弾圧はきっと、比較にならないほど激しいものになっていただろう。
「不確実なものは信じないほうが、少しでも長生きできますよ」
レアンドロは露悪的にそう言って笑った。そこにはやはり、聖職者への多分の揶揄も含まれていた。
どうせ信じたところで、神は彼らを救いはしなかった。




