【23】子供の成長
ジョハンナが乳母として働きに出ている間、子供たちの世話はほとんど夫と義母に任せきりになっている。
義母には感謝しているし、子供たちには本当に申し訳ないと思いつつ、ジョハンナができることは彼らの将来の道筋を切り開くため、仕官先で日々身を粉にして働くことだけだ。
本当は、子供たちにはお母さまとか、母上と呼ばれてみたい。
けれど彼らは、多くても月に数度しか会わないジョハンナのことを「ハンちゃん」と呼ぶ。夫が彼女のことを愛称のハンナで呼ぶからだ。
その日、朝からジョハンナは、兄弟の騎士ごっこに付き合わされていた。
「ハンちゃんそっちすわっちゃだめなの」
「こっち! こっちきて。おひめさまの役して」
ジョハンナはどうやら悪者に囚われたお姫さまの役に任命されているらしい。
「おひめさま! いまたすけにまいります!」
「はっ、はっ!」
「とうっ!」
たまに休暇をもらって帰っている日は、ジョハンナは兄弟の遊びにめいっぱい付き合わされることになる。
子供たちと少しでも関わりたい気持ちはあるものの、四歳児と三歳児の遊びにずっと付き合わされ、毎回休暇が終わるとぐったりしている。
ジョハンナがこの家に嫁いで産んだ二人の息子たち。
上の子、エルナンド四歳。
下の子はフアン、三歳。
フアンのほうは、ルイ王子と産まれ月も数ヶ月しか違わない。けれどルイ王子の成長を側近くで見守り続けているジョハンナは、会うたびにその著しい成長に驚くほどだった。
「フアンは言葉も早いし、手先も驚くほど器用で。……すぐ上にエルナンドがいて、年上の兄弟に引き回されているせいでしょうか」
義母は、朝から庭を走り回らされてぐったりとしているジョハンナに白湯を出してくれながら、首を傾げた。
「あら。王子さまの周りにこそ大勢大人たちがいて、手がかかっている分成長も早そうなものだけど」
「案外、年の近い子と一緒にいるほうが良いのかもしれません。王子はあまり活発なご性情ではあらせられませんし。……普段王子をお世話していると、たまに会うフアンの成長の速さには驚かされます」
自分の子とはいえ、ジョハンナにとってはついついお仕えするルイ王子の肩を持ってしまうところがあって、王子の成長が同世代の子と比べて遅いというのは懸念すべき事項だった。
「まあ、三歳児にとって数ヶ月の月齢の差は大きいでしょうしね。あなたが職務意識として王子に肩入れする気持ちは立派だけれど、きっとあと数年も経てばなるように落ち着きますよ」
義母は、王子の話題が出たことで彼女にとって別の懸案事項を思い出したようだった。
「ルイ王子と言えば、……王子の洗礼の儀は、まだ、先になりそうなものなのかしら」
それはここ最近、王宮の内外で頓に取り沙汰されるようになってきた問題だった。
なぜなら、この国の大半の貴族が信仰していた(そして今も多くが信仰を保持している)プロスペロ教では、生まれた子供にはほとんど必ず、教会で洗礼式を受けさせるものだからだった。
しかし義母の言う通り、現在三歳のルイ王子はいまだに洗礼を受けていない。
「内々にも話を進めてはおりますが、……状況を鑑みるに、支度が整うのは早くても来年になってしまいそうです」
ルイ王子の洗礼式が遅れている理由は色々とあるが、その原因の最も大きな一つは、新たなアウスタリア国教会にまつわる問題であった。
大陸諸国の多くの国々が信仰する、プロスペロ教徒の主流の教義から「分派」するという形で、この国にアウスタリア国教会が本格的に立ちあげられてからまだ五年も経っていない。
新たな国教会は、プロスペロ教皇の権威の下ではなく、ここアウスタリアの国王を盟主とした独自の会派として歩み出した。
――しかし、アウスタリア国教会は、ある一つの根本的な問題を抱えている。
「……まだ、教義の内容が。整い切っていないんです。ですから洗礼の様式をどのようになさるのかも、第一位王位継承権を持つ王子の洗礼とあっては、おいそれと合意が取れるものではありませんし」
何しろ新国教会は、教義的な信念の乖離が動機となってプロスペロの主流派から分派した教会ではない。
言ってしまえば、単に国家間の政治的な兼ね合いだけで分派した宗派だ。
いつまでも、現国王が庶出であることに拘ってアウスタリアを低く見る教皇に、陛下は遜り続ける意味を見出せなくなってきていた。
そこに来て、当代の陛下自身も三十路を超え、後継者問題に本格的に焦点が当たろうという段階に差し掛かった。
アウスタリア国教会がプロスペロ主派と大きく異なる主張をしているのは、唯一、実質的な重婚と婚外子の相続権を婉曲に認めているという点くらいであるが。
……それも大々的にやり過ぎるとまた別の問題が生じかねないので、現王家の正統性を補填する程度の扱いに留められ、それは宗教改革と呼べるほどたいそうな思想の変転ではなかった。
要するに、アウスタリア国教会と大仰な名前を銘打った「箱」だけは用意したものの、いまだに箱の中身はほとんど空っぽのような教会だ。
「来年ともなれば、王子さまは四歳になってしまうのではないの。フアンも」
ジョハンナは自らの子――フアンに関しても、いまだに旧国教会式での洗礼を受けさせていなかった。
彼女は、ルイ王子の洗礼の儀にまつわる一連の議論に決着がつくのを待っていた。
上の子エルナンドに関しては、ルイ王子が生まれる前に洗礼を受けさせてしまっていたので仕方がなかったが、ジョハンナはなんとしてもフアンには、王子に準じる形での洗礼を受けさせたかった。
ただ、そのことは、義母にとっては大きな不安要素になっているようだ。
「――幼い子供に神のご加護のないままというのは、やはりどうしても気になるものでしょう。たとえばエルナンドがけろりとしていて、フアンだけが風邪を引いて具合が悪そうな時なんかは、私はああやっぱり、大人の都合で子供を振り回してしまってかわいそうにと思いますよ」
義母は、世代のためもあってかわりあいに信心深い。一応、信仰の種類を鮮明にしてはいなくても、義母は明らかにまだ新国教会には懐疑的な見方をしている。
「あと少しの辛抱です。同じことは当然王宮内でも懸念されております。新たな国教会の教え自体も、ヴァウエラに都が移ったことでようやく教義としてまとまりを見せつつありますし、ご加護の受け方が定まるのもきっともうすぐですわ」
「……そうかしら」
「心配はありませんわ。それに、陛下ご自身も元はプロスペロ主派の敬虔なご信徒。陛下が盟主となられる新たな国教会も、そう今までと変わった教えになるはずもありません」
ここで義母を説得し切っておかないとまずいジョハンナは、自信を持った口調で滔々と述べた。
「フアンの洗礼は、将来お仕えすることになる王子への忠義を果たしてからでも決して遅くはありません」
ジョハンナは王子に仕える乳母として、常に王宮の裏側から政治情勢を覗く立場にあった。
だから彼女は感じ取っている。――近頃の王宮内に渦巻く、宗教絡みの問題の雲行きの怪しさを。
今に始まったことではないが、国教会創立の波に押されて従来のプロスペロ旧国教徒はじわじわと数を減らしていっている。後がなくなってきた彼らは、却って声高に信仰を吐露するようになってさえいるかもしれなかった。
敬虔な人々を切り捨てて、果たしてそれが報国のためになるのかと。
彼らは、代々の枠組みを捨て去ってまで、国王陛下がそのペトラ人の妃と向かおうとしている先を問うている。
その状況下、事は既にシュルデ家としての功名心だけの問題でもなくなっている。
第一王子の乳母という、本来最も王家に近しく忠誠を誓うべき立場の臣下が、実子には旧国教の洗礼を受けさせたなどという話が広まっては大きな差し障りがあった。
こちらの陣営の揚げ足を取りたい輩は、外朝にいくらでもいる。それを近しい乳母すら御し切れない妃殿下の落ち度と受け取られれば、当然敵対派閥には付け入る隙を与えることにもなってしまう。
何より、そうなれば陛下は、早々に危機回避のためにジョハンナたち一家を王家から遠ざけるだろう。
陛下が王家にまつわる宗教課題にどれだけ慎重で、細やかに気を割いているか、ジョハンナは見知っていた。




