【9】ジョハンナの憤慨
実はジョハンナはまだあまり、ペトラ人の侍女たちの見分けがついていない。
みんな一様に特徴のない服装で、似たような髪型に髪を引っ詰め、表情はあまり動かさない。異様に主人への忠誠心が高く、まるで軍隊の兵士が上官に従うかのような態度でカシャ妃に傅いている。
不慣れなうちは接し方に迷うが、きっとすぐに慣れるだろう。彼女たちの行動原理は単純だ。すべてはカシャ妃のため。
「ジョハンナさん。ベルタさまが起きておられる時は、なるべくおそばに王子をお連れして。ベルタさまはその方が落ち着かれるようだから」
侍女のその言葉にジョハンナも頷いた。
彼女たちの主人、そしてジョハンナの新しい雇用主である妃殿下は、最近少し気鬱の症状が見られるようだ。
妊産婦には珍しくないこととはいえ、侍女たちが殊更慎重になるのも無理はない。
「ええ。無理もありません、ああいうことがあった後ですから」
ジョハンナ自身も侍女たちと同じ気持ちだった。
カシャ妃の気鬱の原因が何であるのか、この宮の人間はみんな心当たりがあった。
ことの発端は少し前に遡る――。
無事の出産を終えて以来、この宮は明るい雰囲気に包まれていた。
カシャ妃の体調は心配されるものの、医師の診察もあり回復基調にあることはわかっており、宮の雰囲気は明るかった。
妃殿下とルイ王子を中心に、増えた女官たちにとっては新しい環境で生活が始まって一ヶ月あまり、国家の一大慶事がようやく、近しい者たちにとっては日常に変わりつつある頃だった。
突然、それまでなんの行動も起こしてこなかった正妃マルグリットが、カシャ妃に接触してきたのだ。
代理の女官の話は長ったらしかったが、要約すると、王子が産まれた以上正妃が育ててやるから渡せ、ということらしかった。
「国王陛下のご長男なのだから、妻たるマルグリットさまが育てるのは当然のこと。これはマルグリットさまの正妃としての義務にございます」
さすがのカシャ妃も、正妃付きの女官が持ってきた伝言には二の句が告げなかったようだが、それはジョハンナたち新人女官にとっても同様だった。
正妃はこれまで、少なくとも対外的にはなんの行動も起こしていない。
それはつまり、正妃の周囲には子どもを育てる環境は全く整えられていないということだ。
だってジョハンナは知っている。カシャ妃懐妊の噂を聞き付けて早々に、乳母として出仕するため熱心に動いた彼女だ。カシャ妃は出産の前から人員や、子どものための部屋の支度や、産着や襁褓に至るまで、子育ての準備に心を砕いていたというのに。
正妃は乳母を募集していなかったし、正妃の周囲の女官たちにもそういう発想すらなかったことは明らかだ。
だからジョハンナにしてみれば、正妃さまはいきなり何を言い出したのかしら、という感覚だった。
正妃の人となりを、下級貴族に過ぎないジョハンナはほとんど知らない。正妃は正妃で、ただ夫の子を嫡母として養育したいだけかもしれないが、少なくとも彼女の周囲の人間がルイ王子を正統な王位継承者として扱うとは思えない。
正妃マルグリットは今や、伝統的な血統至上主義に固執する貴族たちの神輿となっている。
大陸屈指の名門諸侯の娘で、王よりも血の濃い王妃マルグリット。
対してカシャ妃は、貴族社会で尊い血筋とされる出自とは程遠く、カシャ一族は仕官もしていないため形式的には地方豪族の娘に過ぎない。
位では勝負にもならない。もちろんカシャ妃はそれを良くわかっていて、表立った対立は避けて来たようだが、こればかりはこちらが妥協するわけもない。
不毛な王妃一派との応酬がしばらく続き、宮の誰もが嫌気がさしてきた頃、事態を更に悪化させたのは、他でもない国王陛下その人だった。
「なぜ正妃にルイを渡さないんだ?私を産んだ母は、私を父上の嫡子とするために母上の手に委ねたと聞いている。そなたも血を分けた子が王子としてしかるべき立場に置かれるほうが嬉しいのではないか?」
カシャ妃はこの後宮で、特に陛下の前では常に控えめで従順な態度を貫いていた。
そのカシャ妃がなりふり構わず声を張り上げる姿を初めて見せた。
「陛下はなぜ、王太后さまとご生母さまとの関係が、現在の私たちの関係と大きく異なっていることにお気づきにならないのですか?仮に、私が正妃さまに信頼された侍女であったなら、正妃様に子を差し出すかもしれません。ルイが、陛下のように白い肌・透ける瞳の、王族としての特質しか受け継いでいないような御子ならば、きっとこの子は私の手元でなくとも可愛がられたでしょう」
カシャ妃はジョハンナの手からルイ王子を取り上げて、守るようにきつく抱きしめた。
「この子をご覧になりませ。黒い髪に、顔立ちも一目で内陸の貴族と違うとわかります。はっきりペトラ人の血が混ざってしまった王子です。私が盾とならなければ、この子がこの王宮でどんな目に合わされながら育つことか……。されど、この子に血筋を責められる罪はありません」
「それは、わかっている」
カシャ妃のあまりの勢いに陛下は視線をそらしたが、彼女は関係ないとばかりにたたみ掛けた。
「陛下の第一王子がペトラ人の子である原因は、陛下が私を妻として娶ったためですわ。陛下はその事実から目をお反らしになり、貴族たちに蔑まれながら育つ王子にすべてを贖わせるのですか」
国家の最高権力者である夫にここまでの口を利くカシャ妃を、咎め立てする者は少なくともこの宮にはいなかった。
「そなたはマルグリットのことがそこまで信じられないのか?」
この何もわかっちゃいない国王さまに、もっと言ってやれとさえジョハンナは思った。
カシャ妃の侍女たちもそれこそもっと憤りは深かっただろうが、侍女たちはむしろカシャ妃の体調や精神状態を心配して青くなっていた。
「例えマルグリットさまが聖女の如きお方でも、ルイはマルグリットさまにとって異人種の子に過ぎません。きっと、きっと可愛がってくださいます。この子に流れる汚れた血を哀れがり、可哀想がって慈しんでくださいますわ」
「そなたは、……いや、いい」
結局、陛下は何も明言せずに帰っていった。
その後陛下から、少なくとも正妃に王子を渡すようにという直接的な命令が下されることはなかったので、カシャ妃の精一杯の抵抗は最低限功を奏したのかもしれない。
けれど許せないのは、この一件のせいでカシャ妃は産後の体に鞭を打つように無理を押してあれこれと、正妃一派に対する対抗策を練らなければならなくなったことだ。
実際に動き回ることは侍女たちが縋り付いて止めさせたが、カシャ妃は遅くまで悩みながら青い顔で筆を取ったり、思案にくれて眠りが遠のいたりと負担を強いられていた。
そうは見えないとはいえ、まだ二十歳そこそこの、若い母となったばかりのカシャ妃に対するこの仕打ち。
ここにいるのがジョハンナでなくとも、誰もが彼女に同情して憤ったことだろう。