【22】シュルデ子爵家の三人
とある、子供たちがたまたま早くに寝静まった夜。
生活感の拭えない居間の食卓で、シュルデ子爵家の鼎談会はしめやかに執り行われていた。
「旦那さまが、妃殿下の側近として無事に登用されて早数ヶ月――」
「ええ、ええ、ジョハンナさん」
談合の参加者は三名。ジョハンナ、シュルデ家の義母、そして当のシュルデ子爵でもあるジョハンナの夫であったが、肝心の夫は他二名の真剣さにあまりぴんと来ていないという顔で、髭を撫でながらあくびを噛み殺している。
普段から子供たちと一緒に就寝している彼は早寝早起きだし、普段ならばもう眠っている時間だ。仕方がない。
と、ジョハンナは思うが、義母はそんな息子をちらりと横目で見て情けなさそうなため息をついた。
「……ファビアンはその、きちんと王宮で勤められているの? 王妃殿下の付き人なんてそんな、恐れ多いことです」
一応は下級貴族としての体裁をぎりぎり保ってはいるものの、シュルデ家は没落ぶりも行くところまで行っている。最近はようやく、乳母としてのジョハンナの給金をもって、どうにか借財の返済も回り出したところだ。
「お義母さま、ご心配なく。妃殿下はご信頼のおける優しいお方ですし、きちんと旦那さまに適した任を振り分けて下さっています」
現状、シュルデ家の大黒柱がジョハンナだということもあり、嫁と姑の関係はかなり良好だった。
そうでなくても、義母は、一人息子にそもそも若い嫁が来たこと自体を奇跡だと思っている節があり、ジョハンナがシュルデ家に嫁いできた当初から下にも置かぬ扱いではあった。
「ファビアンに適した任など王宮にありましょうか?」
一方で、彼女は自分の息子に対してはかなり辛辣だった。
「大丈夫ですよ。母上」
そう言われても夫はからりと明るく笑うだけだ。
「最近ではルイ王子もだんだん私に慣れて、懐いてくれるようになりました。それに、妃殿下から恐れ多くも感謝のお言葉まで賜っているんですよ。ルイ王子は怖い家庭教師たちのせいでここ最近、年配の男性というものに苦手意識を持ってしまっていたようですが、私が来たおかげでルイ王子が髭面にも見慣れたと、とてもお喜びで」
妃殿下はファビアンと接して数日で、彼の適性を正確に把握した。
外朝で彼女を補佐するだけの実務能力はおよそ期待できないこと。子供には好かれやすいこと。
「あ! そうです、うちでも子供たちとよくやっているように、私が四つん這いになってルイ王子を背中にお乗せする乗馬ごっこをして遊んでいたところ、それを見た女官の方々が王子のおそばに動物を飼ってはどうかと妃殿下にご提案なさって。それで王宮で飼い始めた子犬にも、王子は最近すっかり夢中で」
しかし、ファビアンが得意げに語れば語るほど、義母は困惑を深める顔をした。
「……ファビアン、あなたは王宮でいったい何をしているの?」
「旦那さまは目下のところ、ルイ王子の遊び相手をなさっておいでですわ」
妃殿下も当初の目論見としては一応、外朝で自分の手足として役に立つ側近を育てることを期待していたのだとは思う。
ジョハンナは、陛下が妃殿下の側に付ける人材として、まず最初にシュルデ子爵を挙げた時、身内であるにもかかわらずものすごく微妙な反応をしてしまった。
陛下は本当に、妃殿下が外朝で動きやすくなるよう取り計らうつもりがあるのかしらと思った。
「まあまあ、お義母さま。けれど旦那さまは、今のままでよろしいのですわ」
息子が王宮に出入りすることに、常に一抹の不安を抱えているらしい義母を慰めつつ、しかしジョハンナはこの数ヶ月で、彼女なりに陛下や妃殿下がファビアンに何を期待して今の立場に配置したのかを理解していた。
「今の王宮内の情勢で、旦那さまに求められている役割はあまり多くはありません。最大の役割はむしろ、『妃殿下の男性側近』という新たな家臣団の形成に関して、周囲に警戒感を与えないことです」
当のファビアンはよくわかっていないという顔をしているが。
妃殿下は現状、外朝では勢力の均衡を取って、どの派閥にも強く寄らない姿勢を貫いている。
今回のことは、ひとまず派閥色が薄いシュルデ子爵で様子見をしようという人事だ。
そのことを考えれば、むしろ最初から優秀な人間を置けば警戒されてしまう。毒にも薬にもならないような人間で拍子抜けさせておくのが、いっそのこと吉だということだ。
「旦那さまは髭も立派にたくわえて、四十も超えた年恰好は一見して安定感を与えます。年嵩の男性側近が妃殿下のそばに控えているというだけで、睨みを利かせることもできますし」
特に外朝には、王妃という新たな権力者が女性であることや、まだ若すぎることを批判したくて仕方がないような輩がうじゃうじゃといる。
家父長制の見てくれが大好きな彼らは、妃殿下が連れ歩いているのが侍女や女官ばかりではなく、年嵩の男性側近もいるというだけで一定程度は黙るのだ。
馬鹿馬鹿しいが、それもまた処世術というものだ。
「えへへ」
ファビアンは照れたように、妻に褒められた髭を撫でつけた。ジョハンナも、二十近くも歳の離れた夫の照れ顔が可愛らしく思え、ふふふとはにかむように笑顔を返した。
義母だけはがっくりと肩を落とす。
「…………つまり、ファビアンはただ立っているという以上の仕事はなんら求められていないということね? それでは妃殿下のそばにこれから大勢の人間が集まり出せば、あっという間に選外になってしまうでしょう。どうにかして、当シュルデ家が重用を得続ける方策はないものかしら」
夫は確かに、妃殿下の片腕として活躍するような優秀さは発揮しないだろう。
しかし、その点もジョハンナは心配していなかった。
「シュルデ家は既に、妃殿下の傘下にがっちりと組み込まれる形を取っております。幸いなことに、妃殿下は愚直な忠心にこそ報いてくださるお方」
本来であれば、シュルデ家への妃殿下からの寵愛ぶりは、今回のファビアンの引き立てのこともあってやっかみすら買いそうなものだ。
ましてや昨年ジョハンナは、乳母として大失態を演じている。
ふと目を離した隙に、ルイ王子の脱走劇を許してしまうという……。
普段からルイ王子に接している女官たちは、王子の難しい性情を理解していることもあってジョハンナに多分に同情的ではあったが、ともかく彼女は、今はまだ失墜した信頼回復の最中にあった。
「この上は、今後共にますます妃殿下に誠心誠意お仕えするのみです」
シュルデ家は、時流に読み勝って早々に「第二妃」に付いた一派の家柄のうちの一つだ。
それ自体、家を守って貴族社会を生き延びるために、シュルデ家が選択した政治的な立ち回りであり、生き残りをかけた戦略だった。
まだ、彼女が第二妃として王宮の片隅で小さくなっていた頃――腹の子の性別もわかっていないような頃から、シュルデ家は彼女に賭けようと決めた。
「願わくは、この家の安泰が子供たちの代のその先まで続くこと。当家や当家の領民が、借金もせずお腹いっぱい食べられて、日々を暮らしていければそれでよろしいのです」
この賭けに勝った幸運を、どうすれば無駄にせず、次に繋げられるのか。
本来であれば、家運を守って戦うはずの夫は、王宮の汚い闘争に触れるにはあまりにも純粋で繊細な人だった。
ジョハンナはこの夫のそういうところが好きだったし、そもそも彼にそうした期待に応えられるだけの器用さがあれば、ジョハンナが彼を掴まえるまで売れ残ってくれていたはずもない。
この人や子供たちを飢えさせないため、できれば家名を上げてやらなければならないけれど、しかし目的のために手段を取り違えてはならなかった。
「多くは望みませんが、――ゆくゆくはあの子たちを、ルイ王子の忠実な側近へと」
三人での作戦会議の終盤は、ここ最近、義母が涙ぐみつつジョハンナへの感謝の意を述べて終わるという流れが常態化している。
「……頼りはあなただけよ、ジョハンナさん。しっかり気張って、職場でもよく立ち振る舞って、どうかファビアンを支えてやってちょうだい」
「大丈夫ですわ。ね、旦那さま?」
「もちろん。ハンナは妃殿下にもたいそう頼りにされて、私も鼻が高いですよ、母上」
彼自身も王宮に出たことで、活き活きと仕事をしているジョハンナを見て、誇らしく思ってくれているらしい。夫がそう言って笑うので、ジョハンナも嬉しかった。




