【20】結婚前夜
ニーナは昔から、婚礼の儀式と言えば、教会で神に誓うような粛々としたものをぼんやりと想像していた。
けれどニーナの婚礼はそういうものではなくなったらしい。どちらかと言えば南部の風習に寄せて執り行われることになった一連の儀式は、お祭り騒ぎのような騒々しいものになると聞かされた。
それを聞いた時は少しがっかりした。
しかし自分は南部のカシャに嫁ぐのだから、婚家の側の慣習や文化に従わなければならないのは、考えてみれば当然のことかもしれなかった。
幼い頃からささやかに思い描いて憧れていたような形ではなかったが、レアンドロが手ずから選び、南部の商人から買い付けたという生地で作られた花嫁衣装を見た時には、さすがに少しは気分が上向いた。
目の覚めるような黄色に染織されたその生地は、花嫁衣装と言えば白か黒、という漠然としたニーナの価値観とはまるで違って驚いたが、贈られてきた衣装には彼からの手紙も同封されていた。
――貴女の白い肌には、明るくて深い黄色のドレスがよく映えると思って選びました。サフランで染め上げた、色落ちのない縁起の良い黄色です。貴女と私の行く末に、末永く祝福がありますように。
手紙を読み終えたニーナは、贈られてきたドレスを広げ、鏡の前で一度体に当ててみた。
派手過ぎるような色は、けれど南部風の華やかな婚礼の間中、きっとニーナを守ってくれる気がした。
場違いに粛々とした花嫁でいるよりは、彼女にその日一日、気後れしない魔法をくれる装いかもしれない。
「まあ、ニーナ。婿どのはおまえにこんな格好をさせたがるの?」
その時、勝手に室内に入ってきていたらしい母から、聞き慣れた声音が飛んできた。
「なんて毒々しくて下品な色味でしょう」
「母上。南部では縁起が良いとされている色なのですって」
「そうだとして花嫁衣装にこんな、慎みの欠片もないような色なんて」
母は絶対に、ニーナが何を言ってもこの衣装に対する印象を好転させないと決めているように、食い気味に否定を重ねた。
「あちらはね、王妃殿下の弟君であられる婿どのはともかく、そのお母上は元踊り子風情だというし。貴族の娘にとって結婚のなんたるかを先方はご存知ないのかもしれないわね。貞淑で厳粛な婚礼の意味などあちらにはわからないのでしょう」
母はあれこれと手を回して調べさせ、レアンドロの生母が元は身分の低い踊り子であったことを知り、地団駄を踏みそうな勢いで悔しがっていた。
「ニーナお嬢さま。ドレスはもう致し方ないとして、せめてベールを身につけられるよう先方にお話を通しておかれませ。花嫁に相応しい純白のベールさえないなんて、物笑いの的になります」
使用人たちにもそのように言われ、ニーナはこの黄色のドレスを気に入っているとはもう言い出せない雰囲気に委縮してしまう。
「ああみっともない。一人娘の婚礼さえ満足に出してやれないなんて、父上さまもなんと情けないことでしょう」
ニーナはふと、この古くさい価値観に囚われた母や、使用人たちの目から自由になれることこそが、この結婚によってニーナが得る最大の幸福ではないかと考えた。
うるさいのだ。もう決まったことにつべこべ言ってもどうにもならない。
母の嘆きにはあまりにも進歩がなくてくだらない。
どうして、ニーナにもどうにもできないことを、ニーナの前でなじるように言うのだろうか。そうやって可哀想がられることが一番、ニーナを惨めな気持ちにさせる。
その場でただ俯いてしまったニーナの手に、そっと自らの手を添えて顔を覗き込んだ人がいた。
「大丈夫ですわ。ニーナさま」
今の時期、一時的にヒメノ伯爵家に仕えに入っているその人は、妃殿下の元侍女のフェリパだった。彼女は結婚後にも続けてニーナに仕えてくれることになっている。
フェリパは、ニーナが知らないうちに握り込んでしまっていた花嫁衣装をそっと受け取り、皺にならないように丁寧に生地を撫でつけた。絹のドレスは皺になりやすいのだ。
「南部でも花嫁がベールを被ることはありますし、レアンドロさまはもともと、ニーナさまがそうなさりたいとおっしゃったことに反対するようなお方ではありません。……それにほら、これだけ深い黄色の染め付けですもの。方々が思い描くような純白のベールの輝きは、ドレスともきっととてもよく似合うでしょう」
フェリパはついこの間までは、共に王妃殿下の宮に仕えるニーナの同僚だった。
ニーナのことを、出来の悪い後輩としてどちらかと言うと軽視していたはずの彼女が、今ではこうして自分の侍女として仕えているという事実はどうにも居心地が悪い。
けれど、少なくとも彼女は職務意識には忠実な侍女だった。
「……フェリパさん」
フェリパがどう思っているのかは知らないが、少なくとも今のニーナにとっては、嫁ぐ先の家から先んじて身の回りの世話についてくれた彼女の存在は大きかった。
「そうね。それがよろしいわニーナ」
「奥様。すぐにドレスに似合うベールを注文いたしましょう」
こうしてはいられない、と母や使用人たちは退出していった。もともと婚儀の日取りまであまり時間がなく、今は慌ただしい日々の中だった。
ニーナは静かになった室内で、先程のレアンドロからの手紙を大事に読み返した。それから、ゆっくりと返書を書いた。
――とても素敵な衣装をありがとうございます。当日はこのドレスと、母が用意してくれる白いベールを身に着けて式に出席します。このような鮮やかなドレスはまだ着たことがありませんけれど、こういう変化の一つ一つを受け入れて、私はあなたの妻になるのだと――……。
「ああっ!」
赤裸々すぎた。
自分で書いて自分でしか読んでいないのに、気恥ずかしすぎて声を上げながら料紙をぐしゃぐしゃに丸める。
ああでもない、こうでもないと考えながら、どうにか簡素な、素っ気なくもベタベタしてもいない塩梅の返書を書き終える頃には、ニーナはかなり疲弊していた。殿方とのこうした手紙のやり取りには慣れているはずもない。
「ニーナさま。喉が渇いてはいらっしゃいませんか?」
ニーナがようやく手紙に封をした頃を見計らい、フェリパは彼女のために茶を淹れてくれた。
「……別に、二人しかいない時は『さま』なんてつけなくていいわよ」
気安く呼んでほしいという意味ではない。フェリパが、出来の悪い後輩だったニーナに仕える立場に、内心では不満を抱いていないはずがないと思うからだ。
「慣れるまでは、多少気詰まりに思われるかもしれませんが。ご辛抱くださいな」
彼女は慇懃な態度を崩さなかったが、それではニーナが納得しないと思ったのか、もう少し砕けた説明をした。
「私がそうするのは、なにもあなたのためというわけではありませんわ」
ニーナは、彼女が用意した茶を啜りながら首を傾げた。
「私はベルタさまのために、カシャと王宮の繋ぎ役としてカシャの家中に戻るのです。そのためには、王都ではレアンドロさまの下にお仕えするのが一番動きやすいですから」
少なくとも彼女は、内心の葛藤などはとうに乗り越えて割り切ってここにいる。彼女たちはニーナよりも、年齢は大して違わないのにずっと大人だ。
「もちろん、ニーナさまの日々の生活をお助けして、あなたがカシャの家中で大過なく暮らしていけるよう環境を整えるのも私の仕事です。そのことに関して変に遠慮はなさらないでください」
「……ふうん。そう」
フェリパがそういう姿勢でいることは、単に彼女が優しかったりする場合よりもよほど納得できる気がした。
「ねえ、フェリパさん」
「……なんでしょう」
ニーナは内心、ずっと少し気になっていたことを、この際だから勇気を出して聞いてみた。
王宮で侍女としてのお仕着せを着て、髪をひっ詰めて働いていた時にはそれほどわからなかったが、普通の娘らしい装いをしているフェリパは実はとてもきれいな人だった。
「フェリパさんは、その。……そのうちレアンドロさまの妻の一人として数えられるようになるの?」
南部の野蛮な文化圏はニーナにはわからない。
ただ、そうした事情でレアンドロの家中に仕えることになったという彼女が、そうするためにいったいどのような手段を用いるのかすら未知数だった。
フェリパは少し目を丸くした後に、吹き出すような腹の立つ笑い方をした。
「なによ」
「……いえ、けれど、ニーナさまはそうしたことは気になさらなくてよろしいのですわ。皆、北部から入る伯爵令嬢であるあなたには気を遣います。あなたの目に触れる場所には第二夫人以下は置かれません」
彼には既に妻も子供も複数人いるらしいことを知っているけれど、確かに王都には伴ってきてはいないようだとも聞いている。
「ちなみに私はたぶん、状況が適度に落ち着いたような時期に、レアンドロさまの傘下にあるカシャ縁者のどなたかと縁談でもまとまるでしょう。もちろんその後もずっと家中にお仕えし続けますわ」
「そ、そう」
フェリパがそうした事情を達観しているようなので、ニーナとしては頷くくらいしかすることがなかった。




