【19】かえが利く
ニーナとレアンドロの初対面の様子を、別にベルタは心配していなかったが、一応その場に同席させておいた侍女に後で話を聞いた。
「一丁上がりという感じでしたわ」
身も蓋もない感想が聞けた。
まあ、ニーナがひとまずのところ、疑問も不満も抱かずにこの結婚に臨んでくれるのなら何も言うことはない。
彼らの結婚は、既に個人と個人の問題を大きく逸脱した、南部と北部のペトラ人派閥間の融和政策の一環になっている。
特に最近は、新都ヴァウエラへの移転に伴い、市井にも南部からの文化や商人の流入が増している。
そうした状況では、当然既存の勢力であった旧王都からの商業組合も黙ってはおらず、各方面でいくらでも軋轢が生まれているような状況だ。
そういう新王都の市井で、両派閥のペトラ人同士の筆頭家が婚礼を執り行う。
少なくともそれは盛大な催しとする必要があるだろう。多少意図的にこじつけてでも、融和ムードという上からの圧力をかけて、問題の表面化を鈍らせるためにも。
混じり合う北部と南部の文化が、最後には完全に同化するのか、それとも決して溶け合わず、文化と文化が隣り合う多様な都市形成が許容されていくのか。
――あるいは、これらの試みの全てが失敗に終わり、果たして歴史に大失態を演じることとなるか。
それも全て、結局は人と人との関わり合いにかかっている。
世論の向く先に関して、為政者が支配的になれることは少ないが、それでも小さな雰囲気づくりや日々の細やかな政策で、少しずつ方向性を示していくことはできる。
盛大で華やかな、幸福感の溢れる婚礼は、新たな都の落成祝いとして良い景気づけになるだろう。
慣習に従えば、臣下と臣下の婚礼に国王夫妻が出席することはないが、そういうわけでベルタはかなり細々とした裏方の支度にまで首を突っ込んでいた。
その夜、ベルタの部屋を訪れたハロルドは、机の上に多少乱雑に広がったままの書簡やら生地見本やらに視線を向けて首を傾げた。
「ニーナの花嫁衣装の生地見本です」
「……そんなことまで君が関わってるのか」
「だいたいはカシャとヒメノの家臣団がやっていますけれど。ただ今回は、この婚礼の性質を考えても南部の布と色調で作らせたほうが良いでしょうからね」
そうなると当然、花嫁衣装は南部の職人に仕立てさせることになるわけだが、新王都での初めの盛大な行事に際していきなり南部の団体が出張るとなると、当然既存の商人団体も黙ってはいない。
「中央の商人たちには、今回は引いてもらうことにしました。代わりに、次に何かある時は向こうに便宜を図ってやらなければなりませんが」
「そうだな。行事の時に君の衣装を仕立てるのでもいいし、……目下、王家にありそうな大きな行事と言えば、まずもってルイのことか」
ルイの洗礼の儀式、あるいは立太子の儀については、昨今ちらほらと外朝でも議論の的になり始めている。
「その時に、ルイの衣装を仕立てさせるのでも良いかもしれません」
「洗礼式は、国教会の教義の形を整え終わって、次期国王の洗礼に相応しい支度が整えば来年にでも。……しかし立太子の儀は、まだ、しばらくは先になりそうだ」
「ええ」
それらの議論も遅々として、なかなか進展しないというのが現状だった。
現状、王家には、ルイ以外には実質的に王位継承が可能な人物はいない。
にもかかわらず彼の正統性を疑問視する声はいまだに上がり続けていて、その最たる論点として持ち出されるのが、旧国教――プロスペロ教会との衝突だった。
プロスペロ教会の本流はそもそも、今もってハロルドのことすら明示的には正統と認め切っていない。アウスタリアは国力の差で押して、他国からの許容姿勢を勝ち取っているだけだ。
諸国との外交問題、宗教問題、系譜の筋書き。その全てが入り混じって――そして言うまでもなく、世継ぎの王子をどう扱っていくかという問題は、この国の少し未来の舵取りを懸けた最命題だった。
「ルイは、まだ家庭教師と打ち解けないか?」
「一向に状況は変わっていませんね」
ハロルドがルイのために先ごろ用意した教師陣は、間違いなく現代の最高峰の知識人たちだ。
将来の王に、幼いうちからできるだけ高度な教育を。
……考え方はわからないでもないが、現在のルイはまだ長時間椅子にじっと座っている練習から必要、というような段階にいる。
「基本的に、ルイが走って逃げ出すのを教師たちが頑張って捕まえて、幼児と老人たちの体力勝負が続いているような様子です」
「……ルイは本気で勉強を嫌がっているのか?」
「勉強が嫌というよりは、教師たちに不信感があるのだと思います。自分に何かを強制しようとする相手が。気が向いていそうな時を狙って、私や乳母がお絵かきのついでに文字を教えたりしている時のほうが、却ってやる気を出しているようで」
まだ三歳かそこらの子を無理して机に縛り付け、勉強に苦手意識を植え付けることのほうが、長い目で見ればよほど害があるようにベルタは感じる。
そういうわけでベルタは、今はまだ、極力家庭教師とルイが接する時間を短くしたり、教師たちとの鬼ごっこに勝って得意げなルイを叱らずに、やんわり勉強の方向に興味が向くのを待つよう、教師たちにはしばらくルイの遊びにも付き合ってやるよう言ったりしている。
もちろん、彼女がそういう態度でいるものだから、教師たちの不満の矛先はしっかりベルタにも向いている。
妃殿下がそうやって甘やかされるから。王子がいつまでも幼いままなのです。教師たちもさぞや心配なのだろうと思う。
ようやくこの世に生を受けた唯一の王位継承者が、南部出身の粗野な王妃の手元で愚鈍に育て上げられてしまわないか。
ベルタが、忠義心の高すぎる家庭教師たちとの日々の応酬を思い出してげんなりしていると、ハロルドは苦笑を返した。
「……君はもう少し、ルイを大らかに育てたいと思っているだろう」
違う、とも、かと言ってそうだとも即答できなかった。
ルイがただの自分の子、というだけの存在であれば、確かにベルタはもっとのんびり構えて接しただろう。
しかし、成長にかかる期待も周囲からの関心もあまりにも高すぎる子に、ベルタはどういう態度で接したら良いのか、実のところ少し悩んでいる。
「ハロルド。蜂の巣を解体したことはありますか?」
「蜂、……?」
唐突に話題を飛ばしたベルタに、ハロルドはとっさに置いて行かれたように目を白黒させた。
「蜂の巣には、たった一匹の女王蜂と、それ以外のたくさんの働き蜂が暮らしています。女王蜂だけは体が他の蜂より一回りも大きくて、女王蜂だけが産卵することができて、その群れを統率する王になれるんです」
「詳しいな」
「小さい頃に養蜂家に弟子入りしたことが」
「蜂蜜が好きな子供だったのか?」
「今も好きですよ」
……話が逸れた。
「いえ。……けれど、女王蜂も他の働き蜂も、最初は完全に同じ、ただの幼虫なんです」
ベルタは一度間を置いて話を戻した。別に今は蜂蜜の話がしたいわけではなくて、これはたとえ話だ。
「同じように生まれるのに、成虫になる頃には一回り以上も大きくなる。……餌が違うんです。女王蜂になるべく選ばれた蜂の子は、特別な部屋と餌を与えられて、特別な育ち方をする。だから、その群れの次の王になれる」
とはいえ別に女王蜂の話をするまでもなく、同じことはハロルドを見ていればわかる。彼はそうして王になるべく育てられ、そして王になった。
――ルイもまた、彼と同じ運命のもとに生まれてきた子供だ。
「ルイを王位継承者に相応しく育てるためには、相応しい環境も大切です」
かつてベルタは、ルイを必ずしも次の王にする必要性はないと考えていたが、しかしあの子が産まれた頃と今とでは既に状況は大きく異なっている。
ベルタは王妃としてハロルドの隣に立つようになったし、それをもってあの子の王位継承権には、少なくとも正統性と義務が生じるようになった。
ベルタが、カシャの嫡女としての立場を背負って生まれてきたように。
長じたのち、ルイがその立場に何を思うかはまだわからない、しかし特権的な生まれに伴う地位には、それと同じだけの義務が付随する。
だからハロルドが、過去の君主たちが得てきたような幼少時からの教育環境をルイに与えようとすることについても、ベルタは完全には否定的でなかった。
ハロルドは少し考え込むように口を閉ざした。
彼は結構、こうして口が重い。
「俺がルイに与えている環境は、合っているかな」
それに、外で君主の顔をしている時は、ハロルドはこういう弱みを見せるようなことはあまり言わない。
ベルタはなんとなく彼の横に座り直して、少しだけ高い位置にある横顔を見上げた。
「俺もルイくらいの歳の頃にはもう、家庭教師に囲まれてはいた。……ただ、君や君の弟を見ていると、のびのび自由に育つのも良いのではないかと思うこともある。早いうちから自立的で、自分の考えを持つことのほうが子供の成長にとってはよほど重要ではないか? 椅子に縛り付け、大人が与える環境を強制することは、ルイにとって悪影響ではないだろうか」
ハロルドの幼少期の環境については、当時の政治情勢から予想できる限りのことや、王太后から世間話のついでに聞いたような話からもぼんやりと推察できる。
彼が幼い頃の政治情勢は、病に臥せった父王の健康状態に王宮中が一喜一憂するような不安定なものだった。
王太后も、その中ではハロルドに厳しい教育を敷かざるを得なかっただろうし、本人もきっと、そのことに反発を覚えているような暇すらなかった。
優等生にならざるを得なかった幼い彼のことを考える。
とはいえきっと、「王」の育ち方としてはそれで合っている。
「私もレアンドロも、家を継ぐ子供ではありませんでした。のびのび育てられたのは、言い方を変えれば、失敗しても替えが利くからです」
ベルタは実家の放任主義を思い浮かべてそう苦笑した。父は実際、待望の嫡男であるクレトに関してはもう少し丁寧な育て方をしているような気もする。
ハロルドも少し笑ったが、その顔は多分に自嘲めいていた。
「替えか」
彼はきっとベルタと同じことを考えている。中央と南部の違い。王家とカシャの違い。
「……替えが、利かないからな、俺やルイは」
ただ、その事実に対する感慨までは、おそらく二人は分かち合えていなかった。
彼は視線をわずかに泳がせ、自分の膝のあたりにぼんやりと落とした。ベルタと目を合わせたくないようだった。
(ああ、)
この話は良くないかもしれない。
ふと、この前侍女とした会話を思い出す。――『違うのよ。別に』『いつまでも次の子に恵まれないことを気に病んでるわけじゃないの』。
たった三年程度、その視線に晒されただけのベルタですら、その重圧を知っている。
彼は取り繕うことに慣れ切っているだけで、その事実を前に、単にもう限界なのかもしれなかった。
「君の弟を見ていて、確かに思った。既に片手では足りないくらいの子供がいるそうだな。彼は子供たちに囲まれて賑やかに父親をやっているのが似合うだろうし、君の父もきっとそうだったのだろうし。ベルタ。……君も」
話の流れを容易に予測できてしまって、ベルタは思わず眉を潜めた。
「君もきっと、そのまま南部に居れば今頃は、もう何人も子を産んでいただろう。……もし外朝の口さがない者たちが君に何かを言ったとしても、それは間違いだ。子ができないことのどちらに原因があるか、これほど明らかなこともない」
「ハロルド」
名を呼んで、少し身をかがめて回り込んで目を合わせようとしても、ハロルドは口を止めなかった。
「何人も子がいて、やがてその子たちも巣立ってまたそれぞれに家庭を持って、いつか歳を取った君は、大勢の孫たちに囲まれて笑っているような姿が、きっとよく似合ったんだろうな」
彼がもし、王家の系譜が細っていくことに関して、先祖や国家のために申し訳なく思うというのなら、それは仕方のないことだとは思う。
けれどハロルドがそのことで、ベルタに対してまで罪悪感を覚えているというのは間違いだ。自分ばかりが与えられていると思い込んでいるのなら、それは。
「そうでしょうね」
あえて突き放すような声音で言えば、彼はやっとベルタの顔を見た。
「自分でも、きっとそうだと思います」
カシャはただでさえ多産の家系だ。完全に偶然のなせる業だったとはいえ、そもそも最初の三夜でルイを授かったことも、ベルタと彼のどちらが持ち寄った幸運だったかということ自体、明白なことだった。
とはいえ、もしベルタが南部で結婚して子供を産んでいたとしても、それはルイではなかった。
「――けれど私は、あなたと結婚しました。大勢の孫に囲まれる私の隣には、同じように年老いたあなたの姿がなければ、意味はないので」
そもそも南部から出てこなければ、彼と出会うこともなかった。
今となっては、そうした仮定の話に意味はない。
「それに別に、そういう未来を諦める必要はありません。孫の顔も曾孫の顔も、一緒に見てから死にましょうね」
ベルタは極めて一般論のつもりでそう言った。
ただ、瞬時には答えに窮したようなハロルドは、首を傾げたベルタの目を見た途端、少し決まりが悪そうな顔で目元を押さえて視線を外した。
「君は、」
どうしてか、今の言葉が彼の胸の奥深くに入り込んだと知った。
「……君の存在が、どれだけ俺を救ったか、知らないだろうが……、俺は」
なんだか今夜は、彼がどうしようもなく孤独に見える。
かわいそうで、泣かないで、とただ思って、ベルタは立ち上がって彼を強く抱きしめた。
胸の内に彼の頭を抱き寄せ、ルイにする時と同じように、優しく髪を撫で、肩を叩いて。
ハロルドは緩くベルタの背に腕を回したきり、しばらくそのまま動かなかった。
自分よりも随分と年上の人に対してこういう気持ちになることは、少し奇妙で、しかし温かい心地もした。




