【15】共に歩むということ
ニーナの結婚に際して、もともとベルタは、ニーナを一人で行かせても用が足りないのではないかと懸念していた。
ニーナは当然ながら南部の文化に詳しくないし、そしてレアンドロの家中に仕えている使用人たちも、中央や北部貴族の文化には詳しくはない。
この婚姻を円滑に、なおかつ有効に進めるために、ベルタはもともと、自分の使用人たちの中から誰かしらをニーナにつけてやろうと考えていた。
しかし。
「フェリパをですか?」
「……ええ」
ただそれは、既に南部の人間と結婚しているような年嵩の侍女であったり、せいぜい下級の使用人あたりの人選を想定した考えだった。
けれど、ベルタがそう考えていると知って、強く自薦してそれを願い出たのがフェリパだったのだ。
「……参ったわ」
志願されてしまって、ベルタは困った。
正直、この役割にフェリパを割くことまでは想定していなかったからだ。
フェリパは出自自体も悪くなく、若い侍女で、そして未婚であった。
王妃の侍女という特別な立場で王宮に仕える女たちには、自然と相応の話が来るようになる。
特にベルタの立場が加重されていく昨今においては、ベルタと繋ぎを付けたい中央の有力貴族たちの中から、既にベルタの侍女との縁談を願い出る者たちもちらほらと出ているような頃合いだった。
「……それで、どうなさるのですか?」
今のところベルタの周囲で、最も早く中央の有力家との縁談がまとまりそうなのは、リサという侍女だ。リサはベルタの従妹でもあり、よくベルタが連れて歩いているため、貴族たちにも顔が売れている。
もしリサと中央貴族の婚姻がまとまれば、その後もベルタの侍女たちの縁談の流れは更に進んでいくことになるだろう。
その、リサの次に控える人選の選択肢として、フェリパはかなり早い順位にいた。
「どうもなにも。本人がニーナについて行きたいと言うのだから、それはもう仕方がないことでしょう」
正直なところ、今の状況でフェリパに抜けられるのは痛い。
しかし、本人だって王宮の現状は重々理解した上でそう願い出てきているのだから、そういう侍女を無理に引き留めることはベルタにはできそうもなかった。
フェリパは、中央でこれから求められるであろう役割を果たしていくことよりも、南部の文化圏に帰ることを強く望んでいる。そういう人間に強制して残らせることには意味がない。
ベルタは、折を見て自身の私室にフェリパを一人呼び出した。
そして、彼女がニーナの侍女として付いて行くことへの了承と、今後、ニーナをよくよく支えてやってほしいこと、そしてニーナ一人では覚束ないであろう、南部とベルタとの細々とした連絡役を引き受けてほしい、というような、実際的な話をした。
フェリパはしばらく、黙ったまま話を聞いて頷きを返していたが、彼女は途中から耐え切れなかったように泣き出した。
ベルタは仕方なく椅子から立ち上がり、彼女の手を取って、フェリパのすぐ隣に腰掛けた。
「泣かないで」
泣かれてしまうとベルタも困る。
彼女がどうして、どういう気持ちで泣いているのか、痛いほど伝わるからだ。
フェリパとは長年の間、主人と侍女という関係でありながらも、ベルタにとっては友人の一人でもあった。それは、他のこの宮の侍女たちと同じように。
不安のまま南部から王都へと出てきた日も、不遇の時期も手を取り合ってここまでやって来た。
「……もうしわけありません、」
「謝らないで」
けれどフェリパは、自ら望んでベルタの側近という立場から一段遠ざかろうとしている。
ベルタの駒である立場を降りることに、裏切るような罪悪感を抱えながら。
「フェリパ。ねえ、あなたがどうしてそうしたいのか、私はわかってるわ」
彼女は確かに、ベルタが最も信を置くエマやリサたちほどには、侍女として優秀というわけではなかった。そして彼女は、自分の能力の底を自覚できる程度には賢く、そして誠実な人だった。
この先、ベルタの立場はもっと加重され、そうなれば当然、その腹心の侍女たち一人ひとりに求められる役割も重くなる。
そうなれば、フェリパはいつか己の力量に限界が来ることを察したのだ。
だから彼女は、そうなる前にベルタの側を退くことを選んだ。自分自身の失態が、ベルタに重大な傷をつけないうちに。彼女は賢く、単に引き際を心得た。
「ベルタさ、ま……っ」
「この先、あなたがどこにいて、私がどこにいても、私たちが親しい友人であり続けることには変わりはないわ」
彼女とベルタが共に歩む旅は、確かにここで一度終わるのだろう。
ベルタは足を止めるつもりはなかったし、そのことについて、小手先だけでフェリパを慰めるつもりもなかった。
けれど、それで今までの関係性の全てが台無しになるというわけでもなかった。
結局、泣き止まないフェリパを優しく宥め続けることにも飽きてきたベルタは、手っ取り早くフェリパを黙らせることにした。
ベルタは白昼堂々、話し合いの場に酒を持ち込んで、フェリパを酔い潰した。
ただ、土地柄酒には強い南部の女を一人潰すためには、ベルタ本人もそれなりに代償を負った。
その日の夜。ベルタの部屋に訪れたハロルドは、昼の酒盛りの影響で体調に大いに支障をきたして沈んでいるベルタを見て、かなり物珍しそうな顔をした。
「侍女の一人と飲み比べをしていて、やり過ぎました」
この説明だけだとあまりにも不良の王妃が過ぎるな、と思って、ベルタは割れるように痛む頭を押さえつつ、言い訳を付け足した。
「フェリパという侍女です。今度、ニーナの輿入れに付いて行かせることにして。……そのお別れで」
ベルタの足りない言葉と、周りの侍女たちの表情から、ハロルドはだいたいのところを察したらしかった。
「なるほど。で。どっちが勝ったんだ?」
「もちろんベルタさまですわ」
「フェリパは明後日くらいまでは使い物になりません」
「最後はあの子、泣きながらベルタさまのお酌を空けていましたもの」
侍女たちもベルタがそうやってフェリパの「裏切り」を手打ちにしてやったことを感じてか、フェリパに対する態度を目に見えて軟化させた。
「人聞きの悪い。フェリパは最初から泣いていたわよ」
ハロルドは苦笑して、ベルタの、王妃としてはいささか子供じみた蛮行を許したようだった。
しかし冷静に考えれば侍女たちの対応もおかしい気がする。
今夜のような日は、なんでもいいから適当な理由をつけてハロルドを部屋に入れずに帰すのが正解だっただろうに。
いつの間に彼女たちもこんなにハロルドに対して適当な、身内のような対応をするようになったのだろう。
「お休みなさいませ」
「失礼いたします」
突発的な頭痛に襲われてベルタは頭を抱えていたが、ハロルドは侍女たちの退出を促したようだった。
早々に寝台に上がり、奥に詰めて横になってしまったハロルドの隣に、そのまま上がって良いのか考えてベルタは唐突に動きを止めた。本当は一秒でも早く横になって休みたい。
しかし今更、本当に今更、少しだけ冷静になった。彼もさすがに今夜はベルタに対して呆れているのではないかと思った。
「もうこんな風に飲みません」
王妃の立場にある女が、軽々しく飲酒行為にふけるべきではない。そういう、考える前から明らかなことに今更気がついて殊勝ぶるベルタに対し、ハロルドは、軽くからかうような口調のままだった。
「飲み過ぎた人間は必ずそう言う」
「いえ。……もう、本当に」
彼に視線で促されるまま、もそもそと寝台に上がり、なんだかもう恥ずかしくてさっさとできるだけ端のほうに横になった。彼は無言のまましばらくベルタを見つめていたようだった。
「わかってる。酒の力が必要な時もあるだろう」
重い頭を深く枕に沈めたまま、視線だけを上げれば、全く普段通りの優しい顔がある。
「ましてや、長く連れ添った侍女を手放すような局面では」
ハロルドの手だけが伸びてきて、ベルタの顔の前に落ちていた髪を払ってかき上げていった。
「そうやって強く心を預ける腹心がいるのは、羨ましいよ。君の周囲にはいつもそうして深い繋がりが見える。そうやって、情が深くて素直でいられる君だから、きっと多くの人間が側にいたいと願うんだろう」
ベルタはどう答えて良いかわからなくて、彼から顔を隠すように俯いた。そうしないとたちまち感傷的になり過ぎて、泣いてしまいそうだった。
彼が言うほど、ベルタは上手にやっているわけではない。現にフェリパは、ベルタのやり方や采配について行けないと感じて離れていく。
そういう自分の駄目な部分を直視して、彼女たちと疎遠になりたくもなくて、結局ベルタは酒に逃げて友人との別れを有耶無耶にしただけだ。
けれど、彼はそういうベルタのことも肯定してくれて、こうやって最悪な気分の夜も一緒にいてくれる。
「もう寝よう」
答えられないのは、今何か言おうとすればきっと嗚咽になってしまうからだ。わかっているのか、ハロルドはベルタに返事を求めず、仰向けに寝転びなおして目を閉じた。
ベルタは、自分が彼との暮らしの中で得たものと、いつの間にか心を占めるその大きさについて考えようとしたが、頭痛に邪魔をされて思考を阻まれ、悔しい思いをしながら沈むように眠りについた。
彼に理解されることも肯定されることも、どうしてこんなに嬉しいのだろうかということは、朝になったらゆっくり考えることにして。




