【8】王子ルイ
産まれた子は、ルイと名付けられた。
直系の王位継承権を持つはじめての男児。そして同時に、もちろんベルタにとっては最初の子だ。
二つの要素はこれからベルタの人生に大きな影響を及ぼすことになるだろうが、今はただ、ありきたりな幸せを抱きしめる一人の母であることに変わりはない。
生家からの侍女たちは従来の職務の延長線上として、二人に増えた宮の主人に仕えてくれる。彼女たちにとってベルタは、たとえ母になろうとも「わたくしたちの姫さま」という認識は変わらない。
一方で、乳母ジョハンナを筆頭に出産を機にして増員された女官たちは、当然ながら現国王陛下の唯一の王子という存在をこれでもかと意識していて、非常に勤務意欲が高く謙虚だった。
彼女たちはベルタと息子の日常を、まるで貴重な珍獣の母子を世話する飼育係のように神妙に見守ってくれる。
「おめめの色が陛下と同じでいらっしゃいますね」
「もうこんなに凛々しいお顔立ちなのだもの、将来が楽しみね」
ベルタの宮の人間は皆、早くもルイにほだされていた。
「黒髪の貴公子もきっと素敵だわ」
「気が早いのね」
「ああ、わたくしも乳母になってジョハンナさまみたいに一日中お世話したかった」
ベルタの体は出産から順調に回復の兆しを見せていたが、まだ産褥から抜けきらず、医者からも安静を言い渡されている。
この時期を大切にしなければ次の懐妊にも差し障る、と助言されて、ベルタは苦笑してしまった。御殿医たちはすっかりこの腹に期待をかけているらしい。
彼らには悪いが、期待には応えられないなあ、と特に感慨もなく思う。
「ルイ。るーい……」
風通しの良い部屋の、クッションを敷き詰められた長椅子の上で、このごろベルタは一日中うとうとするかルイをあやして過ごしている。
王子さまは現在お昼寝中なので、ベルタはそっと小声で名を囁きながらゆりかごの縁に手を添えた。
産まれた直後よりも人に近づいた小さな生き物は、まだこちらの世界に順応しきれていないらしい。一日の大半を寝て過ごし、突然些細な不具合にあたって泣いて見せては、糸が切れたようにぷつりとまた眠る。
愛しい我が子との時間は穏やかで、そして少し切ない。
この子が、ルイがもし、王族の子などでなければと考えずにはいられないからだ。
女官たちも眠りを妨げないように下がっていった。乳母のジョハンナあたりは隣室にいるだろうから、異変があれば来るだろう。このままベルタも眠ってしまおうか。
そう思って目をつぶるけれど、思ったように眠気は訪れなかった。
産まれて数日、ルイの目の色がわかった時に、ベルタはこの子は本当に陛下の子なのだと不思議な気持ちを味わった。
夫と、自らの間にできた子。
あの時のことを思い出すと、ベルタはいつも少し気分が落ち込んだ。
政略としての婚姻であり、義務でしかない訪いだった。
充分に理解していたし、自分の役目を納得して嫁いだ。
けれど、そうだと頭でわかっていたとしても、ベルタに娘らしい感傷が残っていたとして、誰がそれを責められようか。
こちらがすべてを差し出しても何とも思わないような相手と寝るのは、それなりに苦しい。
本当は、自分はもっと上手に割り切れると思っていた。だからベルタは、失望してしまった己の情動にすら矜持を傷つけられて食傷気味だ。
身の程を知らぬ期待をしていたわけではない。
いや、それも違うのかもしれない。妻として愛してほしいとか、寵妃に取って代わりたいとか、そういうふうには思わない。ただ、ベルタのことも彼の人生に関わる一人の、意思のある人間として認めて扱ってほしい。
夫にとって自分は、カシャの血が流れる妃という駒だ。
そういう役目の入れ物だから、機械仕掛けの人形のように、必要な時に必要な動きを過不足なくしてみせる。だから彼が気にするのは、その動きが王家にとって有益か害悪かという次元の話だけでいい。
一国の王としては正しい答えかもしれない。そしてそこに夫として、家族としての顔はない。
(ここに来る前の私は、あまりに浅慮だった)
父のもとで生家カシャのために働くことと、王家に入って陛下に仕えることとの区別もろくについていなかった。
そう変わらないとすら思っていたかもしれない。そしてベルタは己を過信して、うまくやっていけるつもりでいた。
娘として無条件に与えられた愛情の中で、知らずと享受していたものが何だったのか。離れてからようやく気がついたベルタは、けれどもう、ただのあの家の娘に戻ることはできない。
目をつぶれば容易に思い出せる故郷の景色は、色褪せた灰色の王宮とは何もかもが違う。
ベルタはただ生家が恋しかった。