【9】揺れる王宮
その男――レアンドロが王都ヴァウエラに現れたのは、まだ新都造営も盛りの、暑い夏の日のことだった。
「国王陛下に拝顔の栄を賜りましてございます。カシャ当主が長男レアンドロ、この度、ご招聘につき参内仕りましてございます」
「――苦しゅうない。面を上げよ」
新たなエリウエラル宮の謁見の間で、ハロルドはその男と初めて顔を合わせた。
主だった重臣たちにとっても、南部カシャの動向は刮目に値するものだ。謁見の間には当然、大勢の人間が居並んで彼の様子をうかがっていた。
レアンドロは、衆目の重圧など毛ほども感じていないような軽やかな動作で下座から立ち上がり、そこから国王と王妃の姿をはっきりと見据えていた。
多くの廷臣たちは、三、四年前にこうして王妃ベルタが初めて南部から王宮にやってきた時のことを思い出していた。
最初は第二妃として中央政治の舞台に登場した彼女は、しかし当初から、臣下としての席次ですら凛とした存在感を放って立っていた。
(これはまた……、)
だが、ハロルドをはじめ一昨年に南部視察へと赴いた一部の者たちは、それよりも更にはっきりとした既視感を覚えている。レアンドロは、その父――カシャの当主ヴァレリオの印象を、明らかに髣髴とさせるような容色の男だった。
……彼は一言で言えば、華やかな男だった。
彼にしか似合わないのではないかと思わせるような鮮やかな色遣いの上衣を着こなして、男性にしては長く伸びた髪を一つにまとめて後ろに流している。
暗い色の瞳に宿る情熱は、南部で見た濃い太陽の熱気を思い起こさせた。
「よく参った。この王宮でそなたが果たす役割を期待している」
「はっ! ありたがき幸せにございます。本日より陛下にお仕えする臣下の一員とし、誠心誠意努めさせていただきます」
そもそも、ベルタが推してくる「カシャの顔」としての異母弟が、そう御しやすいわけもない。
快活な応答は耳に心地が良かった。
レアンドロはそつがなく、カシャへのある種別格扱いの待遇について、内心どう思っているのか知れない者たちも、どちらかと言えば気圧されていた。
ひとまずその場で悪感情を露わにすることは控えざるを得ないような有り様で、誰もがただ、異分子の登場を指を咥えて見つめていた。
「王妃。そなたにとっても久しぶりに会う弟だろう」
「ええ、陛下」
ハロルドが彼女に話を振ると、ベルタは心得たように、臣下として佇む弟に視線を向けた。
「レアンドロ。久しいですね」
「お久しゅうございます、姉上」
ベルタの表情は公の場に相応しく穏やかな微笑に彩られ、そこから彼女の個人的な感情はうかがえなかった。
「お輿入れの折、また先々年の南部行幸の折もメセタを不在にしておりまして、ご挨拶が叶わず申し訳ございませんでした」
確かに言われてみれば、南部に視察に行った時にレアンドロの姿はどこにもなかった。これだけ派手な男と一度でも会っていればさすがに忘れないだろう。
「あなたはそうやってあちこちを飛び回って、時には海の向こうで活躍の由も、カシャから聞き及んでおりますよ。けれどこれからは少しヴァウエラに腰を据え、王家のため、南部のための架け橋となるよう、良い働きをして下さいね」
「もちろんにございます。姉上におかれましては、今度ともにこの弟をよろしゅうお導き下さいませ」
穏やかな姉と、そういう姉を立てる快活な異母弟。
姉弟のそうした関係性を印象付けて、レアンドロの謁見は首尾良く終了した。
しかしハロルドは内心、そうした彼らの外形的な姿と、おそらく全く異なる内実への違和感を覚えて仕方ない。
『堅実』で『冷静で、現実感覚が正しい弟』――とベルタは彼を評して言っていたが。その言葉と、実際のレアンドロという男の印象はひどくちぐはぐで噛み合わない。
(……また、ひと癖もふた癖もありそうな)
ハロルドは、玉座の上からため息を隠した。
*
王宮の廊下でその男を見かけたセルヒオは、軽く立ち話でもするつもりで声をかけて呼び止めた。
「ラファエルどの」
その男は、まだ若い年齢に応じた相応の官職を示す、簡素な襟元の服装に身を包んでいた。そうした服装であっても、彼の出で立ちからは背筋の伸びた育ちの良さが察せられる。
ヒメノ伯爵家の長男――ラファエルは、セルヒオの声に気がついて律義に振り向き、体の向きを揃えて一礼をした。
「これはこれは。セルヒオさま。ご無沙汰しております」
彼は、将来的にはセルヒオの官位を追い抜くことがほとんど確定的な貴族令息だ。それでもラファエルは現状の官位に則って、セルヒオに丁寧な対応をする。
「妹君はお元気か?」
彼の妹ニーナは、昨秋の頃にひっそりと後宮を辞し、生家のヒメノ伯爵家へと戻っていた。
「ええ。母や、当家の使用人たちが、よく妹を教育しているようです」
「無理もない。今回の縁談の重要さを考えれば、母上もご令嬢の薫陶には気合いが入るというものだろう」
「本当に。陛下には、ヒメノ家にとって申し分のないご縁をいただき、感謝いたしております」
ラファエルは長男であることだし、本人の資質としても問題なくヒメノ伯爵家の跡取りと目されている。
ヒメノ伯爵家にとっても今回の縁談でカシャと結び、王妃と姻戚関係を得ることは、まずもって上々の結果と言えるのだろう。
しかし、中央の文化圏で生まれ育ったニーナという娘本人にとっては、南部の異なる文化圏から来た男との結婚は、それなりの負担には違いなかった。
「貴殿はレアンドロどのをお見かけになられたか?」
「先日の陛下への謁見の席を拝見させていただいておりました」
「さようか。レアンドロどのはなかなか好青年のようだし、貴殿も妹君を任せるのにきっと安心したことだろう」
「はは。お相手がどのようなお方であろうと、恐れ多くも妃殿下の異母弟君に対して、妹に文句は言わせませんよ。妹は、父や私に従うようによくよく躾けております」
ラファエルはにこやかに、いかにも誠実そうな笑顔を浮かべてそう応じた。
ヒメノ伯爵家は、言わずもがな北部ペトラ人の被支配層からの成り上がり家系だ。「貴族」の女というものは、ただ黙って家の男に従っていれば良いものだと、彼らは信じている。
……新興の家柄というものは、どうしてこうも、見様見真似の付け焼刃に似通るのだろうかと、セルヒオは内心で舌を出した。
しかしあながち馬鹿にしてもいられない。彼らは抜け目なく、本物よりも厳格に「貴族」らしさを演じることで、いずれはその家格に追いつかんとしているのだ。ましてやその滑稽な試みは、ヒメノ伯爵家に限っては、ラファエルの祖父や父の代で既に実を結びつつあった。
ラファエル自身はその成り上がり家系の三代目であり、どちらかと言えば彼はむしろ、温室で育ったただの御曹司に近い。
「此度のご縁は、妃殿下が主導なさって進めて下さっているということもあります。方々に迷惑がかからぬよう、家中のことはこれまで以上に引き締めて参ります」
彼は神妙な顔でそう言った。彼自身も「できの悪い」妹がこれまで引き起こしてきた数々の問題に、手を焼かされているようだった。
セルヒオはさりげなく周囲を見回し、付近の廊下に人目がないことを確認しつつ、もう少しこの世間話から踏み込んでみる気になった。
「めでたいことだ。カシャとヒメノの縁談により、南部と北部の派閥は実質的には対立軸を外れ、大きな陣営へとまとまりを見せるだろう」
「ええ」
「そうなれば、――派閥自体は当然、妃殿下のご意向に沿って動くことにもなろう」
それが実態の読みとして適切であるかはさておいて、セルヒオはそう鎌をかけた。
中央貴族としての矜持を気取る彼らは、その高慢な精神性を内面化させて、内心ではきっと南部ペトラ人のことなどは心底馬鹿にしている。
ましてや現状、南部の筆頭は女性権力者である王妃ベルタその人だ。
彼らが派閥のボスとして南部出身の、ましてや女が立つことに、果たして納得するのかという話。
――ヒメノ伯爵は、まだいいのだ。伯爵自身は叩き上げでやってきただけの泥臭さがあるし、内心はどうあれ、妃殿下の台頭と折り合いをつけられる程度には狡猾な人物だ。
「ラファエルどの。貴殿もさぞやご案じのことだろう。いや、王太后さまのご意向が古参の廷臣にはいまだに行き渡っていることもあるからな。大きい声では言えないが、……いつの時代も、権力の中枢に女人が入り込むことは政の乱れのもとだ」
意図的に声を低め、セルヒオは、ラファエルから本音のところを引き出すために様子見の言説を使った。
ラファエルは、神経質そうな瞳を丸く見開いて、それから口元だけで少し笑いを浮かべた。セルヒオの言及は彼の意図と当たらずとも遠からずのようだった。
ラファエルは同志を見つけて嬉しそうにした。
「――しかし、あの妃殿下をして『女人』と評するのが妥当かどうかは、いささか微妙なところでしょう」
自国の王妃を明確に揶揄する会話の流れの中で、彼は自身の懸念と、彼女に感じている脅威について、そう含みを持たせた嫌みを言った。
「妃殿下は先の政変後も、決してすぐには動こうとなさいませんでした。かつての主要派閥である保守派には、妃殿下ご自身も散々に苦汁を飲まされ続けてきたというのに、私刑での制裁も好まず……。穏当で、実に慈悲深い王妃さまの顔をしていらした」
セルヒオは、表情に極力何も出さないようにしてラファエルの言葉を聞いていた。
王宮の廊下でするような噂話としては、彼は若干言い過ぎているようには感じる。妃殿下に迎合的なここ最近の外朝の雰囲気にはよほど鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
「しかし妃殿下は全く、過去に保守派に受けた仕打ちを忘れられてはおりませんでした。保守派の奴らは今頃震えあがってもおりましょう。旧オットー子爵家の次は自分たちではないかと」
王妃ベルタは今回の、北部と南部の架け橋となる婚姻政策を主導した。
そのために彼女が選んだ具体的な選択は、ラファエルたちのような、これまで彼女と接する機会もそれほどなかった中央貴族たちを少なからず唖然とさせた。
妃殿下が、ヒメノ伯爵家の一人娘であるニーナを、カシャの庶出の異母弟と娶せたこと自体はまだいい。
しかし、問題はそのレアンドロが既に複数の側室を持ち、その中には先般の政変で失脚した保守派のオットーの娘までも含まれているという点だった。
「中央の貴族社会の価値観では、第二夫人以下の側室は妾の扱いと大差ありません。それをご存じない妃殿下ではありませんでしょうに、そうしてオットーの娘を貶めることで家自体の格を下げさせた。特にあのオットーの双子侍従は、妃殿下に散々な態度を取っていたと聞き及んでおりますからね」
後を継ぐべき男子が途絶えた貴族家では、後に残された娘が婿取りをして家を継いでいくしかないから、オットーの一人娘を側室扱いに下げさせることが家の凋落ぶりの証左であるという見方は、あながち間違ってもいないが。
(まさか妃殿下が、こんな悪名の轟かせ方をするとは)
実際は、セルヒオは政策に上流から関与する立場で、妃殿下にとってもオットーの娘のことは実は全くの予想外であったという流れを一通り見知っている。
「世相を反映した、実に意義のある政策かとは存じますが。そうした所業がしかし、同じ女のすることか? とは」
聞き苦しい主張を長々聞いているのにも飽きてきて、セルヒオは素知らぬ殊勝な顔で同意を示しておいた。
「まったく。心中お察しする」
とはいえ、見方によっては、今回のことは良かったことかもしれない。
つべこべ言っているが、要するに女を舐めているこの男が、方向性はどうであれ今回のことで妃殿下に一定の警戒心をもって接することになるというのは。
そうやって感情的だ、私刑を好む王妃だと揶揄されるようなことを、おそらく彼女自身はあまり好まないだろう。
しかし人格者であり続けることよりも、こういう小物には適度に顔色をうかがわせておいたほうが円滑というものだ。そして、ラファエルのような男はもちろん少なくはない。
「――また、何かあればいつでもご相談に乗ろう」
「ありがとう存じます。セルヒオさまも、お立場上思うに任せないこともおありでしょうが、どうぞご辛抱なさってください。我らがついておりますゆえ」
熱く目配せをされてすれ違い、誰もいなくなった廊下で、セルヒオは一つ白々しいため息をついた。
ラファエルは別に、実務的にはなんら問題もないし、悪い人物ではないのだが。いかんせん苦労を知らない、これまで生きてきただけの世界で小さくまとまった御曹司という感じだ。
(……しかし、あの女性観じゃあ絶対女に好かれないだろうな)
さほど共感できない価値観に触れて食傷気味のセルヒオは、切り替えるように首を振って歩きながら、ラファエルの位置取りや思想を一応のこと記憶の中に留め置くことにした。




