【5】緊張の茶会
財務長官オヴァンドは国王夫妻に呼び出され、先日の御前会議での一件のこともあって、たいそう気を張って王宮に赴いた。
しかし、彼が通されたのは、エリウエラル宮の中でもあまり廷臣たちが立ち入ることのない宮殿の深部。王家の私的な住まいの空間にある、応接間の一室だった。
応接間に入った途端、オヴァンドは国王夫妻のささやかな茶会に同席を許される形で着席を促され、目を白黒させた。
「オヴァンド。そなたを呼び出したのは先日の一件には違いないが、少し茶に付き合え」
「は、はあ」
「砂糖は何杯?」
動揺を隠せないまま、オヴァンドは出された茶に砂糖も入れず真っ先に口を付けた。
夫妻のための毒味のつもりだったが、後から思えば招待された側のオヴァンドがそれをする必要は全くなく、むしろ無礼な所作でしかなかった。
二人はそれを指摘することも、気分を害したふうもなかった。
「あら、通なのね。茶葉の味を味わうためには、最初の一杯は何も入れずに飲むのが良いというわ。私はいつもすぐに砂糖を入れて甘くしてしまうけれど」
通もなにもオヴァンドは、このような高価で味が濃い茶など滅多に口にする機会もない。味の良し悪しなどわかったものではなかった。
「君の茶はいつも甘すぎて驚く」
「あら。砂糖は疲労の薬にもなるんですよ」
妃殿下は、確かにぎょっとするほどの量の砂糖を入れた。砂糖は大変高価なもので、王侯貴族の特権的な嗜好品でもある。
普段からその立場にしてはごてごてしい飾り立てを好まない妃殿下だが、そういえば彼女は紛れもなく南部の大富豪の娘であったことを思い出す。
妃殿下は、あまり無駄な前置きをすることもなく本題に入った。
「――国庫の中身を数えて、この国家の富の全てを、須らく網羅する。そんな会計の手法はこの世のどこにもない、とあなたはこの前言ったわね」
「……申しました。ことは、ご家庭の家計簿をつけるような単純な問題ではないのです」
どうにも場の雰囲気に呑まれ、本調子ではない思いを味わいつつも、オヴァンドは言うべきことは言うべきだと意気込んで返答をした。
「妃殿下のご生家の辺りでは、巨利を儲けるだけの帳簿技術や会計機構を有しておられるのかもしれませんが。しかし国家の運営とは、一商家の帳簿付けとも全く事情が異なります。国庫の金貨は、わりに合う商売にだけ投資すれば良いというものではなく、全ての民を救うため、守るために存在しております」
神の下に全ての人間は平等であり、万民が救われるべきである。オヴァンドは自身の宗教観に愚直であった。
「そうね。昨冬の不作についてあなたが、飢えを防ぐために国庫を開く施策を陛下に奏上したのは良いことだったわ。聖職者が財務方の長についているというのも、そうした時に損得観念に囚われず、迷わずに国庫を開くためなのでしょうね」
前回の問答は平行線で終わっている。そのことを彼女も自覚しているのか、苦笑してオヴァンドに視線を向けた。
「なにも、この前の問答の続きをするために呼び出したのではないわ」
王妃。それは、余所者の嫁でありながら、婚姻により突如、国家権力の中枢にすら入り込む立場にある女のことだ。
オヴァンドのような老臣たちにとって、その座には先のマルグリット妃の姿というよりも、前王時代の王妃カタリナの印象がまずもって浮かぶ。
現在も王太后として健在のかの人は、女性でありながらその柔らかな慧眼と信念で、長く国政を影に日向に支えた。
現王ハロルドがこれまで、マルグリット妃に母王太后と同じような実権を与えようとしなかったことは実に幸いであった。
母后がそうであったからといって、自身の妃にも同じことを期待するという愚行がなかっただけ、オヴァンドは「若造」の国王陛下のことを良く評価していた。
しかし王妃が代わり、また何やら事情が変わったらしい。陛下のお気に入りであるところの、まだ年若い、ほんの小娘のような王妃ベルタ。
「ただ、今回の遷都にかかる財政難のことを思えば、現状にはどうしようもなく危機感をおぼえるの。財務庁も財務顧問院も、このままではまずいわ。次に同じようなことを繰り返さないためにも、私たちは今手を打っておく必要がある」
オヴァンドは何も言えなかった。
彼にも負い目があった。
遷都にまつわる財源管理の不備を理由に、財務長官の地位を追われるとすれば、それはまずもって妥当な処遇だろうと思われたからだ。
「妃殿下。妃殿下は私に、この期に及んで財務官としての職務を全うせよと仰せですか? それとも、もはや早々に職を辞すようにとの仰せですか?」
オヴァンド自身、己の財務長官という職域と、聖職者としての真摯な態度の矛盾には長年苦しんできた。
悩ましいことに、利益の追求や利息の中抜きがいくら宗教上の教えに反し、金儲けのための会計という学問がいくら「汚らわしい」ものだとしても、実際の資金の流入が止まれば国家の運営は立ち行かなくなるということを彼は知っている。
己の職域に関して、完全に不誠実にはなれない葛藤を、胸の内にわずかに宿らせたまま現職にいる。
オヴァンドは、この宮廷から退場してついには職を失うことになったとしても、それに関してこれ以上見苦しく抵抗することはできそうになかった。
「――オヴァンド。そなたの言うことももっともだ」
見合って押し黙った両者に対し、それまで沈黙を守ってきた国王ハロルドが、聞き心地の良い柔らかな声を発した。
「しかし、王妃が何を言っているかはそなたにもわかってはいるだろう。確かに手法的な面から考えても、国家の帳簿付けは難航することは無論だ。だが私たちはこれから、それをやろうとしているのだ」
それは、はっきりと君主の口から明示された、国家の財務会計を再整備するという遠大な構想だった。
「そうしたことができる人材は、王妃が南部から集める。そなたには財務長官として、秀でた専門知識を有する者たちにとっての、良き長であり続けることを期待している」
ただ呆けて陛下を見上げるオヴァンドに、彼は静かな顔で頷きを返した。
「そなたは別に、今のままで良い」
陛下が何を言わんとしているのか、オヴァンドはすぐには意図をはかりかねた。
「従来、聖職者が財務の長を担ってきただけの意味合いはある。国家が金勘定に溺れて暴利を貪っていないということを、――広く他の廷臣たちや民草に知らしめるためだ。私は確かに国家の財務や会計を作り変えたいが、それは表立った計画として進めるには、あまりに摩擦が大きすぎるからな」
つまり陛下は、これまで通りオヴァンドを財務長官に置いたまま、水面下で抜本的な改革を押し進めようと言っているのだ。
口調は穏やかでいて、これは事実上の戦力外通告にも等しいものだった。
今後、オヴァンドの「部下」となる専門家集団の改革を邪魔だてするのは許さないが、口出しをせず名目職にあり続ける限りにおいては、引き続き現職を担保するという――。
「大きな話は小さなことの積み上げから始まる。その積み上げは、日々の地味な帳簿作業や、愚直な記録の徹底に他ならないのだろうな」
その構想が果たして、うまくいくようなものなのかはわからない。けれどオヴァンドは、そうした遠大な計画に自重せずに一歩を踏み出す君主を仰ぎ見ていた。
「――秩序だった計算の中にも、神に愛される公正さは生まれるかもしれない。そなたが職域として納得感のある答えを得られることを願っている」
そして陛下の言を聞きながらオヴァンドは、この仕掛け人は誰であるのかということを明確に察していた。考えるまでもなく、事前に国王本人を説得し、己の主張を代弁させることができる者など、この場にただ一人しかいなかった。
「オヴァンド。そなたの力が必要なのだ」
国家を「数字」という新たな秩序の中に落とし込むことを躊躇わない王妃。
そういう君主や妃は、まずもって世襲王朝からは出ない。普通、高位の王侯貴族というものは、会計のような現世利得的な学問とは無縁の、もっと高尚な教育を受けて育つものだ。
けれどオヴァンド自身、分野は違うが学者肌の人間ではあった。公正で秩序だった数字の管理という理想や概念を、決して頭ごなしに否定できようはずもない。ましてや、陛下直々の命を受けてしまえば。
「そう、陛下におっしゃっていただけますことは、光栄なことにございます。今後とも、及ばずながら尽力させていただきます」
どこか丸め込まれたような釈然としない思いを味わいながらも、オヴァンドが今この場でしなければならないことは決まっていた。
ただ、優秀な人材を南部から招聘できるまたとない機会を喜び、彼はありがたがって人員拡充を受け入れる姿勢を取らざるを得なかった。
*
「うまくいきそうで良かったわ」
ベルタは侍女たちの前でくつろぎながら、ふふふと機嫌良く笑っていた。
しかし、ベルタ以外の室内にいる侍女たちの顔は、やけに浮かないものだった。
なぜなら彼女たちは、今回のことで財務顧問院への仕官の人選として、ベルタが提示した人物に、全く納得がいっていないのだ。
「しかし、姫さま……」
「…………本気でレアンドロさまを王都にお呼びになるんですか?」
彼女たちは、ベルタがその異母弟の名前を出した瞬間からこの反応だった。なんなら話が完全に内定した今ですら、ずっと半信半疑と言った様子だ。
半信半疑というか。どちらかと言えば、一切歓迎していない雰囲気と言った方が正しい。
「よく、カシャの旦那さまがお許しになられたものですね」
「正気の沙汰とは思えませんわ」
まあ、彼女たちにこういう反応をさせるだけのことはある異母弟なので、ベルタ自身もある程度身内からの反発は予想していたところだ。
反発の強さは予想以上だったが、とはいえそれで今更話がひっくり返ることもない。
「まあまあ」
ベルタは、この件に関しては完全に侍女たちを宥めすかして回る側だった。
「決まったことは決まったのだし。それにレアンドロとは十代の半ばの頃から会っていないんだから、気がつけばもう十年近くにもなるわ。しばらく見ないうちにだいぶ変わって落ち着いているかもしれないし」
ベルタが彼を庇えば庇うほど、侍女たちの反応は渋くもなる。
「変わっているわけがありませんわ!」
「あの幼少期のままどうなっているかなど容易に想像がつきます」
侍女たちにここまで堅固な意思で嫌われている異母弟に、ベルタはむしろ感心さえ覚えかけた。
もっともベルタは、この件についてさほど心配はしていなかった。本人はしばらくやりづらいだろうが、きっと自分でなんとかするだろう。
それは、南部から王都にやってくる、カシャにとっても次代の鍵となるべき人物の話だ。
カシャから初めて中央へ仕官する、南部出身の廷臣として。
そして、北部貴族の、ヒメノ伯爵家との縁談相手として。
「ともかく。――もうすぐ王都に、レアンドロが来るわ」




