【3】夕食
その日、夕食の席で、ベルタはハロルドに言われた。
「だいぶお怒りのようだな」
食事を口に運びながら彼の様子をうかがう。
「……言い過ぎました?」
実際ベルタは、帳簿についてはここ最近ずっと気になっていたのだ。
昨冬から、不作や教会への資金供出など、不測の出費が嵩んでいたとはいえ、どうしてここまでの資金難を事前に把握することができなかったのか。
気になって財務回りを深堀りしたベルタは、王家のあまりにも杜撰な帳簿管理を目の当たりにすることとなった。
驚いた。
歳入面――主に徴税を担当する財務庁と、国家の財政政策を立案する財務顧問院の間で、そもそもろくに情報共有すらされていないのだ。
これでは必要な業務が重複するし、何より実際の財布事情をろくに知らずに、その年の歳出を顧問院が決めていたということだ。
彼女にとっては、この王宮の財務機構は不思議で仕方がないものだった。なぜ、そこにある経済の実情を把握しようともしないのか。
「言い過ぎかどうかは。まあ、君が、問題を表面化させた後の落としどころをどこに持って行きたいのかによるな」
ハロルドは穏やかな顔で、昼間からずっとそうだったように、ベルタの強硬な意思に関しても許容的ではあった。
ただ、話題がまさに直球で政策のことであったので、彼の反応は様子見という色が強かった。
新たな王宮に移ってきて数ヶ月――。互いに、特に他の予定がない日には、こうして夕食を共にするという約束ごともだんだんと習慣になってきた。
夕食の席は、おそらく私的な会話の場を増やそうという彼の当初の目論見を外れ、最近ではもっぱら政策的な情報共有や認識の擦り合わせの場として機能している。
「落としどころですか。……財務庁と財務顧問院が最低限の連携を図るようになり、もう少し読みやすい帳簿と、的を射た予算案が上がってくるようになる、というところまででしょうか」
「なるほどな。財務組織の改革か」
「そう言うとなんだか大仰な感じもしますけれど」
しかし、改革は妥当な案であるばかりか、ベルタにとってはむしろ必須のことのようにすら思われた。
「――正直、国家の財布を握るような部署が、ここまで杜撰だとは思っていませんでした。そもそも金勘定を、会計の専門家ではなく、法律家や聖職者の集団が担っているという点に無理があります。おまけに、ここまでの財政難に国を追い込んでおきながら、彼らからは危機感も当事者意識も感じられません」
ハロルドは苦笑して答えた。
彼の表情は、ベルタの主張こそを明らかに正論だと捉えている、そんな雰囲気があった。しかし彼がこれまで、この問題に関しては足踏みしていたこともまた事実だ。
「いや、君の言う通りだ」
会計に不備があること自体を、国家の長であるハロルドが認識していなかったはずもない。
彼はもともとかなり堅実な君主だし、歴代の浪費王に比べれば相当に貯め込む性情の王さまだろう。そういう人であっても、度重なる先祖の代からの財政破綻の余波を受け、結果的にこれだけの負の遺産を背負わされている。
「――しかしどうしても、中央には宗教的な制約がある」
彼は、ベルタには理解できない種々の障壁について答えてくれた。
「? 財務管理を正しく行うことにですか?」
「帳簿を正しく管理することにも、国家として利益の獲得に征服的になることにもだ。……金勘定をすること自体が、欲深いとされる教えの中では」
精神的な世界までは、必ずしも合理性では縛れない。
「オヴァンドも言っていただろう? 神と富とに同時に仕えることはできないと。誰かが利益を得ることは、同時に誰かからそれを奪うことだ、という罪の意識がそう言わせる」
……信じられないことにプロスペロ教の教えでは、金儲けや利益の追求を生来的に「悪」とする考え方が主流ということらしい。
富を求めること自体、他人から富を収奪すること、すなわち悪とみなす社会では、人々は適正な財務把握のための方法論を学ぶことにすら忌避的なのだろう。それでは会計的な人材も育ちようがない。
その説明を受けたベルタは、夕食の手を完全に止めてしばらく黙り込んでしまった。びっくりして。二の句が継げなかったとも言うが。
それは、莫大な富の恩恵を受ける一族で生まれ育ったベルタにとっては、少なくとも全く理解ができない考え方だった。
しかし、どうやら「信仰」とはそういうものだ。いかにベルタが論理立てて説得を試みようとしても、彼らの信じる気持ちの強さの前には、余所者の主張は響かない。
ふと、そういうことを認識したベルタは、ハロルドがこの手の問題に関してどういう反応をするのかが気になった。
「……あなたも、そう思いますか? 金勘定をすること自体があまり良くないことだと」
「いや? この教え自体、そもそも遠い昔の、まだ人が牧歌的で原始的な暮らしをしていた頃ものだろう」
(あれ)
しかし彼は拍子抜けするほどあっさりそれを否定した。
考えてみれば、ハロルドはこと宗教観念に関してすら理性的な判断をする人だった。
「社会の実情を鑑みれば、現代的には、その教えではとうに限界が見えているとわかる。――自分が富めば隣人が貧する。そういう狭い範囲の単純な構造論では、既に国家の民たちの暮らしは説明がつかない」
彼もわりと信心深いほうではあると思うが、その敬虔さは、己自身が信仰する教義への客観視と矛盾するものではないらしい。
「現に、長年に渡って商業が盛んな南部は、敬虔な北方よりもよほど栄えた。富は奪い合うパイではなく、その社会の拡大に伴って、富自体も成長していくものだ」
「聖職者が全員、あなたのように冷静なら楽なのに」
「……だがまあ、オヴァンドはわりあいに話が通じるほうだと思うぞ。懐柔する相手としては悪くない」
財務長官オヴァンド。彼に対するベルタの第一印象は、いかにも頭の固い老臣、というものだった。普通に考えれば、オヴァンドはまず間違いなくベルタとは相容れない。彼は既得権益にガチガチの法律家であり聖職者だ。
しかしオヴァンドは、保守派の凋落や国内改宗の波の中でも狡猾に立場を守り、現職を維持し続けられる程度には、世俗的な一面も同時に併せ持つ人物だった。
「できれば、南部のカシャから実務的に役立つ人間を引き出して、オヴァンドの下――財務顧問院にでも、官職を与えたいと思うのですが」
「ああ。そうだな。そういう改革はたぶん、南部からの人間でなければ立ち行かないのだろう」
彼はベルタのことを言っているのか、それともベルタが南部から引っ張ってこようとしている、会計の専門家のことを言っているのだろうか。そのどちらでもあるのかもしれない。
「……そのためには、ヒメノ伯爵家とカシャの縁談も早めに進めなければなりませんね」
今は、もう一つベルタが別件として主導して動いている政策があった。北部ペトラ人の新興派閥と、南部頭領カシャとの融和を示す政略的な婚姻政策だ。
この二つの案件は、同時に動かしてしまうことが最も都合が良いだろう。中央にカシャの人間を仕官させる機会としても、ヒメノ伯爵家との縁は最適だ。
「忙しいな。それに加えて、都の造営には君もかなり折衝に出ることになるだろう」
「いいんです。もともと南部からの不満を逸らすことは当然に私の職分ですよ」
南部太守たちの派閥は、もともと遷都先にもう一つの候補地メサーロを推していたこともあって、ヴァウエラ造営には懐疑的だ。しかもここに来て、既存の王都商業組合も南部資本の流入に対して反発を強めている。
王都の造営期という特殊な状況下にあって、確かにベルタの負担も増えていたが、しかし彼女はどちらかと言うとこれを好機と捉えている。担う役割が、代替が利かないものになればなるほど、ベルタの顔色をうかがう者たちも増えていく。
「ねえ、ハロルド。私は今回のことで、しっかり外朝に組み入ろうと思います」
この機を逃すベルタではないし、そろそろ外朝の権力構造を実地で観察して一年ほどが経つ。具体的な位置取りを決める時期としては、ちょうど良い頃合いだろう。
「忙しく働いている今だからこそ、声も大きく通るというもの」
ベルタはにこりと笑って、差し向かいの席に座るハロルドに視線を向けた。
「頼もしい妃殿下だ」
最近、こうして二人きりの時は名前で呼び合うようになった分だけ、彼は時折ふざけてベルタのことを尊称で呼んだりもする。
「君が楽しそうで良かったよ。でも無理はしないでくれ」
「ええ」
「何か手助けすることはあるか?」
彼は何もせずベルタの好きにやらせてくれているが、そのこと自体、ただ守られるよりベルタにとっては何倍も嬉しかった。
「色々と。でも、今ももう充分助けられています」
彼が頼もしい後ろ盾として立ってくれているから、ベルタはこの異郷の地でも少しずつ思うように動けるようになっていく。
「あなたの邪魔にならないように、ちゃんと相談してから動きますね」
「夕食が団欒の時間になるのはまだ先になりそうだな」
「……あら。もっと遅い時間にしますか」
ハロルドはまた不必要に深刻な面持ちをしてみせた。
相変わらず意味のないところで器用な人だ。
「寝室に入ってまで仕事の話は御免だ」
「すぐに済みますもの」
「どっちが?」
くだらない応酬が続きそうな雰囲気に、ついに控えていた給仕の老女官が大きめの咳ばらいを入れた。
怖い老女官たちから、料理が冷めると小言を言われる前に、二人して笑いを噛み殺しながら止まっていた食事の手を動かした。




