【27】彼女の名前
チェスは、王太后の趣味のひとつだった。
彼女は別に駒遊びなど好きでも得意でもなかったが、少なくともそう言っておくことにしている。
趣味のチェスに集中しているふりをすれば、面倒な客人の相手をする時に何かと便利だからだ。
「最近一気に国内の潮流が変わりましたね」
その日も、他国から送られてきた大使の一人を相手に、彼女は話半分に駒遊びに興じていた。
彼女が「チェスの友人」と呼ぶ相手はそういう、常日頃からあまり関わりたくもない社交の相手だ。
「カトリーヌさま。なぜ貴女さまはマルグリット妃殿下の救出に動かれないのですか? ……肝心の陛下は黒髪の妃にすっかり骨抜きのご様子。伝統ある王室が土着の民に呑まれるような、そんな事態をみすみす許す貴女さまではないでしょうに」
大使の言い分は、大陸諸国からの世論でもある。
いずれにせよアウスタリアの新しい王妃への外からの関心はいや増している。ただそれを、王太后がまともに相手にする必要があるかというのは、また別の話だ。
彼女は背を丸めたまま手を伸ばし、軽やかな手付きで駒に指を触れた。
「誰もが老いぼれに期待しすぎだわ。私の言うことなんて、あの子は聞きやしませんよ」
「されどこの国の王族の正しさは、もはや御身ひとつが補填するのみ」
コト、と彼女の動かした駒が音を立てる。
「まあまあ、見ていらっしゃいな。ロートラントとの縁などよりも、もっと大局を見た決断よ。現王陛下の御世はまだまだ長いわ」
ハロルドがマルグリットとの婚姻無効をいまだ表明していないことが、諸外国にはそれなりに効いているようだ。
それは、マルグリットにいまだ復権の芽があるという趣旨の措置ではない。
国内の政局が不安定な時期に、従来の骨組みの破壊に勤しんでいる場合ではなかったというのが大きい。
一方で、諸外国からの口出しを、多少の期待を持たせることで躱しておけるのもなかなか便利なことだった。
「――あの妃の血が王家の嫡流となるのを、カトリーヌさまはお認めになるのですか?」
「さあ」
にっこりと笑う彼女は、そうしていればただの気の良い老婆のようにすら見える。
「けれど、世継ぎはルイよ。その先はさておきね」
世間話程度の相槌の中での、王太后の突然の強い断言に、大使は鼻白む。
「それに、カシャ妃はまだ産むでしょう。私は女の子がほしいわね。孫娘を可愛がって余生を送りたいの」
「……もし王女が誕生したら、我が国の国王からも是非祝いの品を」
「私の孫を楽しみにしていてちょうだい」
「王女のご容姿によっては、ともすればルイ王子よりも各国の関心の集まる事態になるやもしれません」
まだ産まれてもいない王女の髪の色や目の色に気を揉んで、婚姻政策の根回しに奔走する。外交官という仕事は忙しい。
「気長に当国に逗留なさい。新たな都も見ていくのでしょう?」
「ええ。件の妃――カシャ妃にも直接お目にかかり、印象を持ち帰るよう言付かっております」
商家の娘に過ぎない、というようなものから、新たな女王の誕生というようなものまで、王妃ベルタに関する噂は色々と独り歩きしている。
そのどれもが実際の彼女の一部を表しているには違いない。
王太后自身、いまだベルタという人物を測りかねている。
出だしであまりに様子見を貫くようだから王太后は多少焦れていたが、それでもずっと黙っていられる女ではないだろう。
最終的にはハロルドの手には負えないくらいになるかもしれない。
(そのくらいのほうが、私は面白いのだけど)
最近のベルタを見ていると妙に、己が十代の小娘だった頃のことが思い出される。彼女が祖国でまだ「カトリーヌ」と呼ばれ、ただの姫君だった頃のことだ。
王太后があの娘くらいの年齢の頃には、もうとっくにこの国に嫁いで長くなっていたし、もっと落ち着いてうまく立ち回っていたというのに。
彼女がその名を変えたのは、夫に嫁いだ後のことだ。
この国に来た数十年前――彼女の夫は彼女のことを、当国風の愛称で「カタリナ」と呼んだ。王がそう呼ぶのに任せ、以来彼女は国内でそう公称されるようになった。
そうして彼女の名はカタリナになったのだ。
「王妃は、国の母よ」
王の妻。そして王の母となるべき女。言うまでもなくその女の政治的資質は、国家の行く末に少なくない影響を及ぼす。
王太后にはその自負があった。少なくとも彼女がいなければ、彼女の夫の治世の安寧はあり得なかった。
けれど自分はもう年老いた。カタリナはいつまで、カタリナである責任を果たせるのだろうか。
ずっと彼女が、子供たちの行く末を見つめ続けられるわけではないのだ。




