【24】顛末
泣き疲れたルイを宥めてなんとか供述させたところによると、彼はやはり後宮から外に出ようとしていたようだ。
ルイにとって「後宮の外」へ繋がる道は、表の王宮へ出るあの回廊だけだった。ベルタがそこから出入りすることを何かの拍子で覚えていた彼は、首尾よく侍女や乳母の目を潜り抜けた後、庭伝いの大冒険で本当に回廊の手前までたどり着いた。
だが、表の王宮へ出る扉の前にはもちろん衛士が立っている。
どうにか見つからずに外に出る手立てはないかと、茂みの中に隠れて隙を狙っているうちに、彼はうとうとと眠ってしまったようだった。
ルイがどのくらいそこで眠っていたのかはわからないが、起きた時にはベルタの声が聞こえたと言っていた。
「何はともあれ、日が暮れる前に解決してよかったわ」
日が落ちれば捜索はますます困難になったし、ルイ自身も暗闇の中で突然目を覚ませば混乱してどんな突飛な行動を取ったかわからない。
ハロルドにそうして良いと言われるまま、後始末も何もかも彼らに任せてしまって、ひとまずベルタはルイを連れて宮に戻った。
ことの顛末を、留守を任せた侍女や女官たちに聞くという役目もあった。
侍女エマは、半日で一気に老け込んだような疲労困憊の様子で状況を語った。
脱走劇は、ジョハンナや女官たちが目を離したほんの一瞬の出来事だったらしい。
「私たちはいつものお椅子で、王子がお昼寝をなさっていると思っておりました。私やジョハンナはおそばに控えておりましたが、私が料理番に呼ばれて所用を片付けに席を立ってしまい……ジョハンナも油断して、王子のおそばで少しうとうとしていたようで」
ベルタは一瞬天を仰いだ。あの子はそういう、妙に間の悪いところがある。
「そう。……それでジョハンナはあの様子だったのね」
彼女が全力で己を責めているだろうことは想像に難くない。
とはいえ、殊更ジョハンナを責める気にはなれなかった。幼児相手に四六時中気を張っているのは無理なことだし、そもそもルイ自らが脱走するような事態を普段から想定して動けというのは酷だ。
「王子はおそらく、扉ではなく窓から庭の方角に出たのだろうと思われます。ジョハンナが気がついた時にはまだ椅子は温かく、おそらく王子が出ていった直後でしたが、それから私たちはまず建物内を捜索してしまいました」
「そうね。まさかろくに外に出たこともないあの子が、いきなり宮を出ていくとは思わないもの」
エマは殊勝な様子で、深く深く頭を下げた。
「今回の一件、姫さまのご不在時の責任を預かっていたのは私にございます。ルイ王子はジョハンナによく懐いておりますし、どうか処分を賜るのはこの身ひとつとして、姫さまからも陛下に進言していただけませんでしょうか」
ベルタは立ち上がり、エマの肩を叩いて半ば強引に顔を上げさせた。
「まあ、結局ルイには何事もなかったんだし。このくらいのことで周囲の人間を重く罰していたら、すぐに周りに誰もいなくなるでしょう。ルイが難しい子で、苦労をかけるわね」
エマに対してもそうだが、ベルタはもちろんジョハンナのことも、できれば軽い処分で収めたかった。
ルイの突発的な脱走劇の原因を、彼女たちの職務怠慢とするには無理がある。これで実際にエマやジョハンナが対外的に重い処罰を受けた場合、ルイに接する者たちに今後いらぬ緊張を与えるかもしれない。
ベルタはそういう環境であの子を育てたくはなかった。
「何もお咎めなしというわけにはいかないでしょうけど。あなたたちは心配しないで、どうにかやり方を考えるわ」
彼を普通の子として育てたい。一方で、完全にそうするべきでもない。
彼が王族であることは、生まれた瞬間から変えようのない事実だった。
ハロルドはその日のうちにベルタの宮にやって来た。
彼も色々と煩雑だろうから、明日にでも相談に向かおうと思っていたベルタは驚いて出迎えた。
「おとおたまっ」
ルイも、母が戻ったご機嫌からか、珍しく父上に愛想をふりまく気分になったらしい。彼はベルタのドレスの裾から離れると、ハロルドに近寄ってにこにこと父を見上げた。
「ルイ。お父さまはお母さまとお話があるんだ」
いつもならルイを抱き上げてあやしてやるだろうハロルドは、今日は身を屈めてぽんぽんと小さい頭を撫でるに留めた。ルイは不思議そうな顔をしている。
幼い彼は、女官たちの雰囲気がハロルドの来訪に多少緊迫していることにも無頓着だった。
「少しお母さまを借りるぞ」
人払いをした部屋で、向かい同士の椅子に落ち着くと、ベルタは先刻エマに聞いたような内容をハロルドに話した。
「ルイはやはり、後宮の外に出ようとしていたようです」
「外? なんでまた」
「あの子が言うには、私を捜しに。……いえ、迎えに?」
幼児に説明を求めても、どうしてそのように行動するに至ったかの思考は不明瞭なままだった。
「そうか。それにしても、母親の勘はすごいな。君があの付近を捜すよう言った時は半信半疑だったが」
彼が何か反省しているようなので、ベルタは苦笑して否定する。今日のようなベルタのやり方は、決して論理的でも合理的でもなかった。
「いえ。勘だけに頼っても仕方ありません。陛下の実際的な采配のほうが適切でした」
ベルタの意図が外れていても、ハロルドがしようとしたように虱潰しに探して行けば遠からずルイは見つかっただろう。
「ただ、ルイと私はよく似ています。今回に関して言えば、それがたまたま当たっただけです」
ハロルドは、ベルタの言葉を聞いて少し首を傾げた。
「似ているか? あの駄々っ子と」
「私もカシャの両親の長子で、甘やかされて育ちましたし、あの子と同じくらいに頑固でしたわ」
大人になった今となっては、ベルタはそれなりに上手く取り繕えているが、本質的な部分は案外変わっていない気がする。
彼女がそう自省する横で、ハロルドは思案を深める顔をした。
「まあ、わからなくはない。ルイはどんどん利発な子になるな。寝たふりで乳母を欺くような知恵ももう働くか」
すくすくと育ち、もし彼が市井の子などであれば、今回のことも些細ないたずらとして親が叱って終わりにすれば済む話だ。
「知恵がつくのは問題ないが、王子が今後もこのような問題を起こすとなると、やや困ったことだ」
「幼い子に求めすぎるのは酷なことですわ」
そうは言うものの、ベルタも理解している。ルイを完全に普通の子と同じように育てることはできないということ。
王族として生活する子には、そこにいるだけで既に責任が伴う。今回のことで、王宮中の衛士が半日もルイに集中することになってしまったし、言うまでもなく王子の所在がわからないというのは、彼の身の安全にとっては致命的になり得る。
「……ただ、今回のことでルイは、自分の勇敢な行動で私が帰ってきたと思い込んでしまったかもしれません。今後同じような行動を何度も繰り返されて、もし今度は怪我でもされたらと思うと」
さすがにそうなれば、ベルタでも庇い切れない。彼の周囲に付けられた使用人たちに、厳罰をもって責任を負わせなければならなくなる。
「二歳の子にどこまで責任を求めるべきだろうか」
ベルタは今まで、周囲の重すぎる期待からルイを守ってきた。王室唯一の男児、王太子になると目されている子。
ベルタの宮の女官たちがそれを意識しすぎないように努めたし、幼い彼本人はまだその事実を実感したこともないだろう。
今回のことはその弊害でもあった。
「ベルタ」
ハロルドは深く椅子に腰かけていて、一見すれば慣れた部屋でくつろいでいるだけのようにも見える。けれどきっと頭の中は忙しなく動いている。
「ルイの周囲の人事は君のほうが把握している。だからこれは相談なんだが、ルイの乳母を、しばらくルイから遠ざけることは可能だろうか」
「ジョハンナをですか?」
ハロルドの提案に、ベルタは緊張を隠して返答する。
「確かに今日の件、完全にこのままというわけにはいかないでしょうけれど。ジョハンナを遠ざけるのは気が進みません。ルイは乳母に懐いておりますし、彼女は愛情深く申し分ない乳母です」
ハロルドが話の着地点をどこに想定しているかわからない。
彼はベルタからの反応が渋いのも無理はないという様子で、ひとまず頷いた。
「確かに、思えば良い乳母を探したものだな。職務に忠実という以上にルイへの思い入れも強そうだ」
「では、」
ハロルドも、人目も憚らずへたり込んで大泣きしたジョハンナを見ているはずだ。そんな乳母を見て驚き、つられて泣き出したルイの顔も。
「ルイが懐いているからこそだ」
ベルタが言葉を継ぐ前に、彼が続けた。
「乳母を罰するためではない。……今回のようなことをすると、乳母を罰されるような事態になるのだとルイに覚えさせるための措置だ」
その発想はベルタにはなかったため、驚いてまじまじ彼の顔を見てしまう。
つまり、ルイ自身に責任を求めると?
(……この人はルイを、何歳だと思ってるのかしら)
しかし、それを口に出すのは控えた。ルイが日常の物事をどこまで吸収するのかは未知数で、ベルタのあの子に対する理解が絶対だと考えるのは傲慢だ。
「まあ。解雇ということではなく、一時謹慎のような扱いならば、まだ」
少し考えた末、そう悪くもない決着かもしれないと思い始める。
何よりハロルドが、ルイの教育という観点から口出しをしてくることは珍しい。
「あの子は頭ごなしに叱りつけられるより、そういった手段のほうが理解しやすいと思う」
彼が思いのほか「父親」であるということは充分にわかっているが、一緒にいられる時間もベルタや女官たちよりよほど短い分、ルイに対しては甘い顔のほうが多かった。
そのハロルドがルイのことを真剣に考え、彼なりの厳しさを見せてくるのが、ベルタにとっては新鮮だった。
父と母としてルイのことを話すのは、彼と家族になったと思える近道のようで、奇妙な気分でもある。
「けれど、ルイ相手にはともかく、やはり謹慎処分は対外的には重く映ります」
ベルタの宮の中だけでのことならまだしも、この件は後宮全体や外朝にも響く。ジョハンナの失態はシュルデ子爵家の失態扱いとなって、今後に渡り少なくない影響を及ぼすかもしれない。
「代わりに、……彼女か彼女の家を、謹慎処分と相殺するように取り立ててやっていただけませんか?」
それはあまり、ベルタが口出しをしたことのない部類のお願いだった。
彼の、国王としての人事は理性的で合理的だ。側近くの者を好意だけで引き立てたりしないし、能力がある者を重用する時も、それが反感を買わないよう慎重に引き上げているように見受けられる。
背筋を伸ばすベルタの心中をよそに、向かいの椅子でハロルドは足を組んで座り直した。
「難しいが致し方ないな。考えておく」
彼があまりにもあっさりと同意を示したので、ベルタはいっそ拍子抜けする。
「乳母が戻る時に官位か俸禄を今より少し引き上げるか。それとも、シュルデ子爵に何か役割を与えるほうが適当だろうな」
「……よろしいのですか?」
ベルタも別に、隙あらば気に入りのジョハンナの家を取り立ててやろうとしていたようなわけではない。
だが、ジョハンナが乳母となったために、本来は単なる下級貴族に過ぎないシュルデ子爵が王妃と面会の機会を得たことは事実だし、その結果としてベルタが子爵の人物を好意的に捉えているのも事実だった。
ハロルドの反応は相変わらず読み切れないが、彼はその場しのぎの嘘を言ったり、安請け合いしたりはしない人だ。
「もともと表から、王妃の周りにもう少し人を付けることを考えてはいた。良い機会でもある。ずっとセルヒオを動かすわけにもいかないし、それならば派閥に影響のない、君にも馴染みのある人物の登用は適当だろう」
驚いた。彼がそういうことを、考えていたということに。
ベルタの感想は顔に出ていたのか、ハロルドはちょっと拗ねた。
「なんだ」
彼が気まずそうな様子を見せるのも、つくづく新鮮な気がする。
「いえ。ありがとうございます」
こちらも気まずい。そして気まずい原因には、明らかに心当たりがある。
ベルタが王妃として表の政治に関わる云々の話は、あの夜以来二人の間で一旦棚上げされていた話題だった。
あの日、なぜか泣いてしまったことは、ベルタにとっては相当不本意なことだった。
泣くようなことではなかった。三年も前の、ましてや相手が覚えてもいないことをうじうじと持ち出して、責めるような真似。
自分の中にあんなに感傷的な気持ちがあったということも知らなかった。前夜に色々とあり過ぎておかしくなっていたとしか思えない。
けれど同時に、吐き出したことで以前より心が軽くなっている自分がいるということも自覚している。
翌朝以降、帰途でもずっとハロルドが妙に優しく、はっきり気遣われているとわかるのも恥ずかしい。それで距離感を見失って、ついつい気安い態度を取り続けてしまっている気がする。
今日の馬上でのことも、後から思えば全く理不尽な口を利いたのに、彼はそれを気にかける様子もない。ベルタは結局謝罪する機会を完全に逸している。
「話していなかった政策のことも、きちんと君に話すようにしようと思う」
冷静に考えればこれらの会話もそれほど気安いものではないはずだ。実際今も、話の内容は一つの家の進退にまつわる政治の話だ。
けれど、ベルタは今の自分が公人なのか私人なのかを考えている。
「何から話そう。遷都のことか。それともヒメノ伯爵の娘のことか」
ぐだぐだと益体もないことを考えて話半分になっていた彼女は、彼の口から聞こえた単語に、突然我に返った。
「ちょっと、待ってください。……ニーナも政治の話に関連があるのですか?」
ニーナに関しては、ベルタは正直深く考えていなかった。
最悪過去にうっかり手を出してしまっているのだろうなくらいの認識だ。まさか王都の移転と並列に挙げられるような議題とも思っていない。
「ヒメノの娘に関しては、後宮から下賜する先の結婚相手についても君に相談してから進めようとしていたんだ」
「いや、全く聞いておりません」
下賜? ニーナの結婚とは。
「すまない。確かに何も言っていなかった」
ふわふわとどうでも良いことに脳の容量を使っているような気分と切り替えて、ベルタは居住まいを正した。
「ともかく、順を追って話そう」




