【23】母の勘
馬を走らせるハロルドの邪魔にならないような体勢を取りながら、ベルタの頭はようやく間を置いて動き始めた。
「……普通に考えたら一番可能性が高いのは、あの子がいたずらか何かでかくれんぼでもしているんでしょう、もちろん、予断は許しませんが」
二歳と少しの幼児の思考は、大人には完全に理解できない。
近頃ルイは些細なことに爆発的な抵抗を見せる。
何を考えているのか周囲に伝える手段は持たないのに、彼自身は頑固に何か思い込んだら止まってくれないし、まだ何もわかっていないと思っていると、時折ぞっとするほど抜け目ない。
子供とはそういうものだと、弟妹に囲まれて育ったベルタは理解しているが、それでもルイは特に難しい。
「でも、もうじき日が暮れる。隠れているうちに怪我をするか、疲れて動けなくなっているかもしれないし、一人でいるうちに何かに巻き込まれないとも。二歳の子の足では後宮内は広すぎます」
何か出てこれなくなっている理由があるのか。
些細ないたずらのつもりで隠れたとして、女官や衛士が必死になって自分を探す様子を見てまで、出てこない子だろうか。
心配で心ばかりが逸り、ハロルドや護衛が市街で出せる全速力で駆ける馬にさえベルタは焦れた。
「落ち着け。焦ってもいいことはない、着いたらまずどこを探すか考えていろ」
「あなたは! 黙って馬に! 集中してください!」
混乱したまま理不尽な怒りをハロルドにぶつけるベルタは、しかし今はそんなことを気にしていられる場合ではなかった。護衛が一瞬ぎょっとしてハロルドの顔色を窺ったのも知ったことではない。
(――どこを探す? そもそもルイは何を考えて脱走したの? ああ、……私があのくらい小さい頃はどうだったかしら)
脱走?
乳母や侍女が職務を怠ったとは思えない。彼を見守る目は充分にあって、その目をすり抜けてまでルイがいなくなったのなら、少なくともあの子は大人を出し抜くような行動をしたはずだ。
ルイは何がしたいのだろう。
視察の間中、もう何度思い出したか知れないルイの泣き声が脳裏に響く。おかあさま、とベルタにしがみ付こうとしたあの子の姿。
ベルタも昔は同じだった。
幼い頃、きっとルイと同じ景色を見たことがある。泣いて、ベルタから離れていってしまう母に手を伸ばしたことがなかったか。
母と離れるのが怖くて悲しくて。あの時母と離れたらもう二度と会えないと思った。行ってしまった背中を追いかけて走って、誰かに捕まっても必死に手を伸ばした。
「……ルイは、私を探しているのかも」
理由のない直感は、けれどベルタの中では確信に近いものだった。
ベルタがそれきり黙り込んで思案を始めたので、ハロルドは彼女がまた突然爆発しないか気を配りつつ、彼女が落ちないように馬上で体を抱えた。
市街に入ってから、城までの距離はさほどでもない。
少数の近衛集団の対応に出てきたつもりの門番は、その一行の中にハロルド本人の姿があることに気が付いて、目を剥いて動揺する様子を見せた。
「急いでいる、通せ」
「は、はっ!」
その動揺に付き合う間もなく一声で開門させ、とにかく迅速に王宮へと戻った。
「陛下。表の方角から後宮に向かってください。後宮から外朝に出る、回廊の辺りから私の宮に向かって探します」
ベルタが出した指示以外、特に思いつく手立てもなかったため、彼らはそれに従った。
そのまま、出迎えの様式や臣下からの挨拶も一旦ほぼ無視し、一行は足早に後宮の方角へと向かう。
「この辺りは君の宮とは遠い。ルイの足ではかなりの距離だろう」
「ですから、きっとまだ見つかっていないのです」
ベルタはそう断言したが、彼女もまた確信があるようなわけではないのだろう。
「ルイ!」
いかにも不安そうな、混乱のまま叫ぶ瀬戸際といった様子で、ベルタは少し震える声を張り上げた。
「――ルイ! どこにいるの! おかあさまはここにいるわ」
ハロルドは、近衛たちにも付近を捜索するよう指示を出しつつ、事情を把握しているだろう衛士長か女官を呼び出すよう命じた。
「ここよ、出ておいで! ルイ」
彼らがそうして、動き出した矢先だった。
「ル……っ、」
ベルタが、その名を呼ぶ声を枯らさないうちに、ころころと茂みの奥から何かが転がり出る。
にっこりと笑顔の幼児。この王宮にその年頃の子は彼しかいない。当然、ルイだった。
ルイは、驚いて誰もが無言になった大人たちの様子など知らぬげに、むしろ誇らしそうな、いたずらが成功したかのような顔でベルタの膝に駆け寄った。
「ルイ……」
「おかあたま、いた! おむかえきたの」
ルイの目線の高さに降りて、その両頬を包む彼女の手は、夕闇に呑まれかけた目でもはっきりとわかるほど震えている。
ハロルドも驚いていた。あまりにも呆気ない解決に。
ベルタの言うことにはどちらかと言えば半信半疑で、彼女を宥めるためにも言う通りにさせて、自分がしっかりして捜索の手を回さなければと考えていた。
「ルイ。……そう。迎えに来たの」
「ちあうよ、るいがきたの!」
あちこち汚れてはいるが、元気だ。大きな怪我もない。
事件性もなさそうで、本当に本人が自発的にいなくなっていただけなのか。
「かえりましょ、おかあたま」
ルイは無邪気に、したり顔でベルタの手を引いて、それからどうやって帰れば良いのかはわからなかったらしい。きょろきょろと周囲の大勢の大人たちを、物珍しげに見渡した。
それから程なくして、女官たちが鬼の形相でその庭に走り込んだ。
「ベルタさま!」
「ああ、ルイ王子、ご無事で」
ベルタがルイを抱き上げて立っているのを見て、彼女たちは一様に安堵する様子を見せる。
「あ、お、王子……っ、おうじ!!……、」
安堵のあまり腰を抜かしたらしい、その中で一際若いルイの乳母は、地面にへたり込みながら人目も憚らずに大声で泣き出した。
「よかっ、! ほんとうに、よう、ご、ざ、ました、っ!!」
乳母の号泣に驚いてびくりと小さな身を跳ねさせたルイも、それからまた思い出したように、いきなり泣いてしまった。
「う、うわぁあああん!」
「ルイ、どうしたの」
「おかたま、おかあ、たっ!!ひっ、え、えええん!」
ベルタが腕の中の彼をあやすほど、ルイの断末魔のような泣き声は増していく。
泣き虫二人の声はしばらく王宮中に響き渡った。




