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【22】二歳児


「やっ!!」



「おかあたま、どこ」

「なんでないの、うわあああああっ」

「かあたま!……」


 ……その頃の後宮では、ベルタの不在が際立っていた。


「お母さまはお仕事に行かれたのです」

「王子が良い子にしていればすぐお帰りになりますよ」


 小さな暴君は周囲をとても困らせていたが、何より彼自身が一番困っていた。

 大人たちが思うよりルイは、子供なりに色々なことを理解している。


 だから女官たちがそう言う言葉が、嘘だということもルイにはわかっているのだ。


 「しごと」が何かもわからないし、どうして母がいなくなってしまったのかもわからない。ただ、母は昨日も帰ってこなかったし、今日もまだ帰ってこない。


「お母さまは遠くにいらっしゃいますわ」


「とおく?」


 遠く? 母はどこにいる。いつもの場所にはいない。お部屋の外、母がこの宮から出ていく時はルイはいつも置いていかれる。


「……ルイ王子のご様子は?」

「お外を見て今日もベルタさまをお待ちですわ」


 最初の数日は、ルイが泣き喚けば母が慌てて、仕方なさそうな顔で戻ってきて抱きしめてくれると思って。

 その後の数日は、本当に母が帰ってきてくれなくて、もういつまでも会えないのではないかと疑って。


「なんと言うか。意外と飽きないのねえ」

「ええ。もう少し慣れて、気を紛らわせてくれるかと思ったのですけれど」


 ルイがぐずっても泣いても、普段よりも女官たちが優しくてあまり怒られないことも、彼の不安を助長させた。母の不在がいつもと違う種類のものだということを、ルイは敏感に感じ取っていた。


 彼の世界には今、母か母以外か、その二種類の人間の区分しかなかった。


(おかあさま)


 幼児のそれは、何か別のもので代替できるような欲求ではなかった。


 ただ母が、母だけがいいのだ。

 他は全部偽物だ。


 たまらなく慕わしい存在がそばにいないというだけで、ルイは世界のすべてに見捨てられたような心細い心地を味わっている。


「無理もありませんわ。一番駄々っ子の時期で、お母さまが恋しいお年頃でしょうから」

「かと言って、早くお戻りくださいとベルタさまにお願いするわけにもいきませんしねえ」


 帰りを待っているうちに、また急に悲しくなってべしょべしょと泣き出してしまったルイを、優しく乳母の手が抱き寄せた。


「王子。ああ、お可哀想に。お母さまが恋しいのですね」


 乳母も、ルイに同調するかのように目元を赤らめていた。乳母はルイの理解者で、ルイの気持ちをわかってくれる。乳母に慰められながら、ルイは乳母と一緒にもっと泣いた。


「お母さまも王子が恋しいはずですわ。お母さまはすぐにお帰りになってくださいます」


 けれど、乳母のその言葉は嘘だとルイは知っている。


「じょあんな。おかあたま、おかえりないの?」


 乳母はルイの言葉に頷いた。


「お母さまはお仕事を頑張らなければいけないのですわ。お母さまは一生懸命、ルイ王子のために頑張っていらっしゃいます」


「おかあたま、かえりたい?」


 お母さまは、ほんとは、帰ってきたい?

 乳母と話していて、ルイはひとつ新しいことに気がついた。


 ――母は帰って来ないのではなく、帰れなくなっているのではないか。


「もちろん。早く王子に会いたいと、お母さまは思っておられますよ」


 なんてことだ。

 それなら、ルイがただ待っていても、母にはいつまでも会えないではないか。


 新たな事実にルイはびっくりし、そして打ちのめされた。

 ルイに会いたいと思って、母は今この瞬間もどこかでルイを待っているのだろうか。


 母が、何度も何度も振り返りながら去っていった別れ際の光景は、ルイの小さい脳では長く記憶に留めてはおけなかった。


 あの時、母はどんな顔をしていただろうか。母の顔を忘れてしまいそうな焦燥もあいまって、ルイは殊更、間違った方向に確信を強めた。


(おかあさま。……おむかえに、いくも)


 彼はそのうちに決心した。――自分が母を見つけて、連れ戻さなければ。


 ルイが母を探しに行くのだ。





     *





 その急報が視察の一行に届いたのは、夕暮れ時に差し掛かった帰途でのことだった。


 メサーロへの視察の全日程を終え、王都までの数日間の帰途も既に終盤だった。隊列の責任者から、夜までには王宮に到着できるだろうとハロルドとベルタが説明を受けいていた頃だった。


「陛下! 妃殿下、王宮からの急使です」


 馬車の近くを並走していた近衛が、端的に固い声音を張り上げた。ベルタが状況を理解するより早く、ハロルドが返答する。


「馬車を止めろ」


 ただならぬ様子で早馬を走らせる急使を遠目に見とめて、それからの行動は迅速だった。

 国王夫妻は街道の道端で一度馬車を降りた。とたんに護衛が周囲を物々しく固め、隊列全体に騒めきが伝播する。


 息を切らして駆け込んだ急使は馬を下り、それが内々の知らせであると表すように、許しを得る前からかなり馬車に近い位置で跪いた。


「――申し上げます。本日の昼過ぎから、後宮内にルイ王子のお姿が見えず。数刻前から行方を捜索しております」


「は? ルイが? いなくなった!?」


 その報告は、一行にとってはまさに寝耳に水だった。


「……どういうこと? 後宮にはいるんでしょう、ルイを外に出す用なんてないはずよ」


 急使自体、あまり事態を把握していないようで、詰め寄るベルタにたじたじで礼をとるばかりだった。


「本日の昼頃までは妃殿下の宮におられましたが、女官がわずかに目を離した隙にお姿が見えず、」


「誘拐? 事件性は、ああもう、エマは、ジョハンナは何をしていたの!」


「衛士は何をしていた? すぐに後宮の出入りを閉鎖しただろうな」


 急使が声を潜めたのも無意味に、周囲を気にする余裕もないベルタの後ろから、低くハロルドの声が響く。


「女官からすぐに衛士長に通報があり、衛士長が対応致しました」


「ああ、それなら問題なく動いているだろう。……それなのになぜ数刻も見つからないんだ。おまえたちは何をしていた」


 ハロルドもハロルドで混乱しているのは間違いがないので、急使は国王と王妃にそれぞれ詰められてどんどん青くなる。


「陛下! 私は馬で戻ります、よろしいですね」


 ベルタは今にも護衛から馬を乗っ取ろうと、自分が乗りやすい小型の馬を目で探し始める。

 そんなベルタの手を、ハロルドが引いた。


「俺も戻る。こっちに乗った方が早い、君も」


 確かにベルタは旅装とはいえ女性の平服で、この服装で慣れない乗馬では焦るわりに大した速度は出せないだろう。


 ともかく一刻も早く戻りたかった彼女は、余計な問答をせずにハロルドに手を引かれるまま、彼に抱き上げられて馬上に押し上げられる。


「近くの護衛だけ付いてこい! 他の者は少し遅れて隊列を動かせ」


「かしこまりました」


「セルヒオ、後は頼んだ。上手くごまかしておけ」

「はっ」


 言うなり、ハロルドは護衛に先行の指示を出して、ベルタを乗せた馬を駆けさせた。






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