【21】彼女のこと
明け方ハロルドは目を覚ました。
窓からうっすら青みがかった光が差し込み、室内を暗く照らした。夜明けが始まりかけている時間帯だった。
横にいる彼女は、まだ深い眠りの中にいる。ベルタはこちらに背を向け、細い背中を丸めて寝具を抱き込むように眠っていた。それも当然の時間だった。
一度覚醒したら目がすっかり冴えてしまったことに気がついて、ハロルドは静かに身を起こし、寝台から足を下ろした。自分の部屋に戻りもう一度寝直すか、それともたまには、近衛の朝稽古にでも出て体を動かすか。
「……ん、」
人の気配に敏感な彼女が、寝台のわずかな揺れに反応しそうな様子を見せたので、ハロルドはその眠りを妨げないよう慎重に立ち上がった。
けれど、ゆっくりと立ち上がり、彼女の部屋を出ようとしたハロルドの背後で、もぞもぞと起き上がる衣擦れの気配がする。
「陛下、」
どこかぼんやりとした、起き抜けの声に呼び止められる。
起こしてしまったか。こんな時間に付き合わせて起こすのは忍びない。
そう思いながら足を止めて振り向くと、ベルタはなぜか驚いた顔をしていた。大きく見開かれた目がハロルドを見つめている。
彼女が呼んだのに、と疑問に思うも、次の瞬間事態に気がつく。
丸く見開かれたその瞳から、ぽろりと粒のような涙がこぼれ落ちていた。
「どうした」
早朝の気だるい思考など一気に吹き飛ぶような心地を味わった。
急に頭が冷えて、足早に寝台に逆戻りしたハロルドは、そのまま彼女の頬に触れた。
明け方の薄明りの中、彼女の頬はたった今濡れたように、いくつも真新しい涙の筋を作っている。
「な、んでも。なんでもありません」
泣いている自覚もないように、ベルタは笑顔を作ってハロルドに笑いかける。相手を安心させようとするだけのような笑みは痛ましく、ハロルドはたまらなくなって、彼女を抱き寄せた。
ベルタはされるがまま、ハロルドに身を預けた。
「どうした。……大丈夫だ、ベルタ」
腕を振り払うでも、身を縮めるでもない。けれどその涙はますます止まる気配もなく、彼女の下着の胸元を濡らした。
ハロルドは片手で寝具を手繰り寄せ、寝乱れた下着姿のままの彼女を包むように掛布を纏わせた。
彼女が泣く理由はわからない。けれど、ハロルドが原因であることは疑いがない。
自分はあまり、彼女にとって良い夫とは言えないだろう。
「……ごめ、なさい。泣くつもり、……。なんで涙がでるのかも、」
「無理に泣き止まなくていい」
寄る辺なく身を預けるだけのベルタは、常とは違って危うく見えて、ハロルドは張り詰めた糸の上にいるような緊張を覚えた。
昨夜のような手段は取るべきではなかった。
ハロルドはただ、彼女が自分のものであると認識し、安心したかった。けれど、それは相手の苦痛を無視してまで得られるようなものではない。
絶対に断られないだろうとわかった上で引き出した合意ほど、一方的なものはなかった。
自分がここにいないほうが、ベルタは落ち着くだろうか。けれど、弱みを晒しきったような彼女から離れがたく、ハロルドは迷いながらその背に手を回して撫でた。
細い背だ。
資質のある妃。たった一人の王子の生母。
公の評価を伴うベルタを思う時の、その存在感の大きさとは裏腹に、生身の彼女は今もってどこか不完全な、少女のような。
彼女の年相応の娘らしさを認識する時、ハロルドはそれを可愛いと思っていた。
そう思い、若く未熟な姿を愛でるばかりで、そこにある弱さも、幼さに残る美徳も、都合良く見て見ぬふりをしたのだろうか。
どうして彼女相手に、揺さぶるような真似ができたのだろう。どうして彼女を、気を許せない相手だと疑った。
(ベルタは、こんなに)
今まで自分が、彼女に向けてきた行動や態度の何もかもが、釦を掛け違えていたように間違っていたような気分になる。
ベルタの涙はそのまま、彼の苦い後悔となって、胸の底に淀んでいくようだった。
その涙が、ハロルドを責めるために流されているものではないからだ。
もっと健全に、もっと守りながら距離を縮めれば良かった。今ならばそうすると思う態度がいくらでも思い浮かぶ。
「陛下に呼びかけて、後悔したんです」
ベルタはぼんやりと、熱に浮かされている時のように、彼女にしては要領を得ない語り口で話した。
「もし、私が呼んで、……また振り向いてもらえなくなったら、どうしようと思って」
「俺が君を無視したことがあったか?」
問い返すと、ベルタは少し困ったように笑う。
彼女の顔はハロルドの肩口に押し付けられていて、表情は見えなかった。
「ございました。一度だけ。……私が、最初に来た夜に」
なんのことを言っているか、それだけわかった。
「陛下はきっと覚えてはおられないでしょうが」
ベルタの声は、含まれる自嘲をごまかすかのように敢えて軽いものだった。
彼女の理解は正しい。――実際ハロルドは何も覚えていない。
結婚した頃のベルタ。あの日、彼女は謁見の間で下座から堂々とハロルドを見据えた。
南部から召し上げた姫君は、緊張に支配される様子もなく、ただハロルドという王を見極めるためにそこに立っていた。ハロルドが彼女との結婚でまず思い出すのは、公の場で初めて対面したその時の姿だ。
背筋の伸びた彼女は好ましく凛としていたが、それでもきっと見知らぬ土地で孤独を抱えていた。
「すまない」
ベルタは一人、ぽつんとそこに佇んでいた。
だから今もベルタは、そこにいるままなのかもしれない。彼女を抱きしめて、今すぐにでも慰めてやりたいと思うが、そうしなかったのは過去のハロルドだ。彼女をこんな風に泣かせる遠因を作ったのも。
「いいえ」
「……すまない。ベルタ」
昨夜ではない。あの時、そもそも始まりからハロルドは手段を違えていたではないか。
「謝らないでください。謝られると、余計になんだか、私は」
ベルタは少しハロルドを見上げた。暗い色の目はまだ涙に濡れていたが、彼女はむしろ宥めるような様子で、後悔に染まるハロルドの目を見つめる。
「あなたは変わった。……変わろうとしてくださる」
柔らかな声に肯定されれば、ハロルドは何もかも許されたような気持ちになりかける。それではいけないし、伝わるわけもないというのに。
「変わらないのは今も私だけです。ですから私が、至らないのですわ」
放っておくと、本当にそうして彼女の中で整理がついて、受け入れるようになりそうだ。そしてまた繰り返す。
「違う。それは」
思い返せば昨日もそうだ。彼女は先に折れたし、ハロルドを許した。
「そうじゃないんだ」
彼女に耐えさせたいわけでも、今朝のような涙を呑み込んでほしいわけでもなかった。
ただ隣で、穏やかに安心して笑うようになってほしい。そしてできればいつか、彼女からの思いがほしかった。
――本当は、王宮の奥深く、政の潮流などと関わりのない場所で、ただハロルドの家族でいてくれたらと思うこともある。
だがそれは、それこそ言っても意味のないことだ。そもそもそうして閉じ込めたところで、政局から王妃を守り抜けるとは限らないということを、ハロルドは身をもって知っている。
「ベルタ。君は、俺に怒ったっていい」
ベルタに関することになると引き際も見誤るし、彼女と決定的な対立を避けたくて、結果的にその立場を軽んじるようなことになってしまった。
彼女は自らの意思で動く妃だ。その事実は変えようもないし、無理に変えさせたいわけでもない。ヴァウエラにおいてもメサーロにおいても、のびのびと王妃の座にある彼女は彼女として美しい。
「君には、俺が間違ったらそれを叱る権利があるし、それで君を泣かせるのならば俺が悪い」
ただ彼女は、彼女を前に無様を晒す男を怒っていればいい。
昨夜のようなことがそう何度も続くのは困るものの、本来的に衝突を嫌う彼女にあそこまでの振る舞いをさせたのは、まさに彼女の言った通りハロルドの失態だ。
ベルタは、よくわかっていなそうな、どちらかと言えば不安そうな顔でハロルドを見上げている。
「……なんだか私はいつも、怒っている女になってしまいそうです」
そんなにか? と思うものの。こんなに寂しい顔をさせて、知らないところで泣かれるよりもそのほうがずっといい。
「君の考えていることが、何もわからなくなるよりはいい」
強くて弱い彼女のことをもっと知りたい。細い体をそっと抱きしめて、ハロルドは腕の中に感じる体温を、どうしようもなく大切だと思った。
「あなたの心も、何もかも、私にもわかればいいのに」
頑是ない子供のようなことを言ってさえ、彼女の声はひどく頼りなく悲しげだ。
夜が明け切るまで、ハロルドはそのままベルタの肩を抱いて、番の鳥が巣の中でそうするように小さく身を寄せ合った。




