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【20】怠慢



「陛下!」


 早々に人払いを要求し、二人きりになった部屋で、ベルタはなおのこと語調を強めた。

 彼女はまだハロルドに対し、怒りを示し続けている。


 それと同時に感情面ではひどく疲弊していた。


 自分から問題を起こして揉めるというのは、とてつもなく労力を消費する。ベルタが黙っていれば丸く収まるような場で、ましてや感情的になってみせるというのは。


「どうしてあの場であのような。ご説明ください」


 けれど、そうするより他になかった。

 あの場で起きたことが彼女にとっては不本意であることを、公然と態度で示さなければならなかった。それはベルタの、王妃としての求心力の根本的な問題だ。


「ベルタ。こちらの台詞だ。何もあの場で言う必要はなかっただろう」


 ハロルドもハロルドで、今夜ばかりは人目がなくなるとさすがに不快な表情を隠さない。


 けれど彼の認識は間違っている。あの場での出来事は、今後ベルタが周囲からの信頼を損なうかどうかの正念場だった。


「商人たちや周辺貴族への対応として、私は明言を避けるようにとしか指示を受けておりませんでした」


「それでいい。それで君は今日までは上手く周囲をいなしていたじゃないか」


「いいえ、いいえ陛下」


 けれどベルタのそのあたりの感覚とハロルドの主張は当然食い違う。今もまだ、ベルタにとっては正念場が続いていた。


「何も知らされていない王妃として遊山に伴われたのならばともかく、実務的に動かされていた妃として、知らなかったでは済まされないことです」


 商人たちや貴族たちへの対応で、ベルタは議案が固まっていないことを前提とした態度を取っていたのに、肝心の上役からそれを覆された格好だ。ましてや彼はベルタも承服していたとも取れる言い方をした。


「私は何も知らされていなかった、後手に回った不利を、あの場で順当に主張したに過ぎません。私にあのような態度を取らせたのは、陛下ご自身の失策です」


「確かにそうかもしれないが、俺は後で君と話し合うつもりでいた」


「ですから、後では遅かったと申し上げているのです」


 ハロルドの「王妃」に対する公的な扱いに、これまでも色々と思うところはあった。それに関して様子見を貫いていたベルタにも非があるかもしれないが、さすがに今回は看過できるものではない。


 彼はあまりにも、政治の駒として「女」を使い慣れていない。それに一から付き合って、口うるさく価値観を擦り合わせていくには、ベルタと彼は歳も経験値も離れすぎているように思われた。


 以前までの妃と十数年連れ添い、その中で出来上がった価値観や妻との関わり方を、今からベルタが塗り替えられるとはとても思えない。


 そうした卑屈な考えで、これまでも無意識に直視を避けていたような自分の弱さに気がつけば、場違いに泣きたいような気持ちになった。


「事前に知らせれば、君がカシャの立場から動くかもしれなかった」


 その少ない言葉から、ベルタは彼が確信犯であったことを察した。


 彼は怒るベルタに付き合って話し合いをするのがもう面倒なのもしれない。ハロルドはうんざりしたように、片手で雑に髪をかき上げた。

 

「……陛下は私を軽んじたのではなく、出し抜かれたのですね」


 ベルタの前で、彼がこうも不快を態度で示すところを初めて見ている気がする。


 一方でベルタは、なんだか彼の前でいつも怒っている気がした。そんな自分が自分で好きなはずがないのに、どうしてこんな言い方しかできないのだろう。こんなに可愛くない女になりたいのではなかった。


「ああして皆の前で公言した後ならば、私を黙らせられると思いましたか。後でごまかせば済むと、」


「南部の女に言えることではないだろう!」


 声を張り上げたハロルドは、大股で歩み寄りベルタへの距離を数歩分も詰めた。


 反射的にびくりと肩が震えたことすら悔しい。けれど彼女は耐えて、その場を一歩も動かなかった。


「出自の話ではないぞ、君の心の在り処の話だ。……いつまでカシャの女としての立場を守り続ける気だ。生家への便宜だけを考える王妃に、国策の中心の話をできると思うか?」


 彼も彼で、ベルタの苦しいところを突いてきた。


「……生家への便宜だけを考えているようなことはありません。王室の一員として働いて、王妃の体面を保とうとしているからこそ申し上げているのです」


「君の態度を見ているととてもそうは思えない。全てのものごとを南部の利害と天秤にかけて、何も素直に話そうとしないじゃないか」


 にべもない切り捨てに多少の反発も覚える。


「少なくとも私は今回のこと、南部の人間としての目で見てはおりませんでした」


 ベルタだって考えている。考え続けている。


「けれど、早々に折り合いのつかないこともございます。確かに王妃として、王家の人間になった。そのことを以って、これまでの全てを裏切るような、故郷を捨てる真似は、私にはできそうにありません」


 自分の今の態度が完全には正しくないことを理解していても、かと言ってどうすればいいのかはわからない。誰も正解を教えてはくれない。


「……全てを捨てろとまでは言っていない」


「では、何をもって貴方は、私を王妃と認めてくださいますか? 私はどこに身を置けば、よろしいのですか」


 それは途方に暮れたベルタの、単なる本音だったが、言ったそばからたちまち後悔に襲われた。耳に届いた自分の声が感傷的すぎて、この場にも立場にも全く相応しいものではなかった。


「いえ……、これは聞くようなことでは、ありませんでした」


 ささくれ立った感情の行き場を探すように、室内に視線を忙しなく行き来させるハロルドの顔を見れば、彼もベルタに視線を止めた。


「私が本来、王妃たるに向かない女であることは自覚しております」


「どうだかな。母上のような王妃を想定するのなら、少なくともマルグリットより君のほうが向いている」


 彼との会話の中でその妃の名が出るのは、先の政変以来初めてのことだった。


(ああでも、陛下もそういうことを考えるんだわ)


 考えてみれば彼もまた、いつだかの会議の場では、「王妃に実権を」という王太后の言葉を頭から否定するような言い方はしなかった。


 ハロルドもきっと、ベルタをどういう王妃に置くか、理解しようと悩んでいる。

 互いに模索して、それでも間違っているから、今夜のような不都合が起こり得る。


「……それでも、私よりこの役を上手くこなす者はたくさんおりましょう。今夜のような振る舞いをせずとも」


 ベルタの言葉を聞いたハロルドは、却って不服そうな顔をした。

 彼はきっと、ベルタに先に折れさせたことも気に入らない。


「自らの不手際を棚に上げ、場を台無しにしてしまったこと、申し訳ありませんでした」


 おそらく、喧嘩の終わらせ方を考えていた間に先を越され、ハロルドはばつが悪そうだった。彼は単に、喧嘩相手の女が自分よりも先に冷めるという経験に乏しいのかもしれなかった。


「……悪かった。君は、王妃としての地位に報いようとしてくれる。それを責めたわけではないんだ」


「陛下のお怒りはごもっともですわ」


 先刻のベルタは、ハロルドの立場を度外視の態度を取ったのだから、後で彼の不興を受ける覚悟は元よりあった。


「怒鳴って、悪かった」

「……いえ」


 どちらも本質的な部分では引けない話し合いに飽き飽きしていたし、途方に暮れてもいた。


 なんでも良いから、とにかく一旦この話を終わりにしてしまいたい。


 水を打ったように静まり返った室内。今夜はもう誰もが疲れ切っている。

 隣室あたりに控えているだろう双方の使用人たちは、言い争いが沈静化したことに胸を撫でおろしているだろうか。それとも更に気を揉んでいるだろうか。


 いたたまれない沈黙が続いた後、ハロルドは場にまとわりついた重い空気を払うように首を揺らした。


「わかった。ベルタ」






 もうこの話は終わりにしよう。


 彼はそう言って、近い距離にいたベルタの腕をつかんで抱き寄せた。ベルタも頷こうとしたが、できなかった。


 そのまま存外に力の強い腕に引かれるまま、彼の足が向いた先は寝室だった。


 こういう晩の、ハロルドのこうした強い態度には覚えがあって、ベルタは棒のように立ち竦んで重くなった足を半歩縺れさせる。


(この人、もう全然話を聞く気ないな……)


 そう思うが、ベルタだってもう話したくはない。

 有耶無耶にしたいことがあるのはお互い様で、ハロルドの最悪な提案は、今の彼女にとっても唯一の名案であるように思われた。


 普段の彼とは程遠い動作で、乱暴に開けられた寝室の扉が音を立ててバタンと閉まる。次に開くのは翌朝だと、きっと使用人も知るだろう。


「ベルタ」


 性急な仕草で寝台に押し込められながら、ベルタはこわごわ彼を見上げた。

 目が合って微かに笑われたような気がしたが、その顔は怒っているようにも、名状しがたい感情を持て余しているようにも見えた。


「俺はただ、」


 ハロルドは何か言いかけて、けれど結局言葉を継がなかった。ベルタにはよくわからない。刹那的な感情に支配されたような、そうすることが正しい態度と疑わないような男の顔。


(いいじゃない、それで)


 おずおずと手を伸ばし、自分とは違う広い背中に腕をやる。


 言葉を重ねて不興を買うよりは、このまましおらしく流されておくほうが。


 明日からまた、国王と王妃として素知らぬ顔で振る舞わなければならない。視察の日程は大詰めで、視察から帰っても、彼もベルタも公人としての顔がある。


 彼がどういうつもりでいるのか知らないが、一方で、それを受け入れるベルタの心境もかなり身勝手だ。


(……これでもう、許して、終わりにしてくれるなら)


 許す? 何を?

 結局またベルタだけが悪いのか。彼はそうしてベルタを罰する?


「……俺はただ、君が欲しい。ただ王の妃というだけでなく、俺はもっと、」


 欲しがるだけ手に入れられる男が、これ以上何を望むのだろう。果たしてこれは正解だろうか。こういうことで解決する問題があるとも思えない。


「俺はどうすればいい」


「陛下の、……なさりたいように」


 けれど、ベルタの返答に特に意味はない。

 この状況で今更拒絶してみせることが、どれだけ怖いか、彼はもしかしたら本当にわかっていないのかもしれない。


 その夜ベルタは、まるでそれが彼女に残されたせめてもの抵抗の手段であるかのように口を閉ざした。


「っ、……、」


  寝具に頬を埋めて顔を隠しながら、己の胸の内の醜い情動が、ひどい形で溢れそうで、もう何かを言うことすらできなかった。


 駆け引きも何も知らない。ベルタはきっとこういう真似に納得できない。

 それでも、たとえ己に負担を強いたとしても、彼が納得するのなら構わないと思った。


(なんでもいい。……あなたが、私を諦めないなら)


 彼にこれ以上嫌われて、彼がもうこちらを見なくなることだけが怖かった。


 自分の思いの在り処も知らないくせに、彼からの思いは欲しがる。なんと身勝手で嫌な女に成り下がったことだろう。


 きっと彼は、ベルタを愛してくれるのだろう。けれど尊重はしてくれないのかもしれない。


 ――そうまでして一緒にいたいのか。自分を曲げてまでこの人と。


 彼と寝るようになったって、何かが劇的に変わるわけもないと思っていた。けれどじわじわ真綿で首を絞められるように、気がつけば彼女は追い詰められている。


 飽きられることも、面倒だと思われることも、ベルタはいつも心のどこかで怯えていた。


 いっそ打算だと言い切れたら良かった。

 あまり嬉しい夜ではなかった。








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― 新着の感想 ―
[一言] ハロルドが屑すぎて、こんな屑男の相手をさせられるベルタが気の毒すぎる。
[良い点] 話し合いを設けたからってそう簡単にはいかないか。。 ますますすれ違っちゃってますね。 とりあえずなんとかして関係修復を急ぐあまりの行動が裏目に出ちゃいましたね。 この辺りは前の方もおっしゃ…
[一言] 面白すぎる。思わずニヤリとしました。続編になってますます読みごたえある作品になったと感じます。 胸糞と書き込んでいる読者さんもチラホラですが いくら主人公に感情移入しようと主人公の受け入れ…
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