【18】メサーロにて
セルヒオの妻であるパオラは、女官の一人としてベルタに仕えている。ルイ王子が産まれた頃に増員された女官の一人だった。
「ニーナさんは本日は妃殿下にご同行ですか?」
同僚の姿が見えなかったので、パオラは雑務の手を動かしながら室内にいた侍女に聞いた。
だがしかし、ニーナの名前はその侍女の癇に障ったようだ。
「いいえ? ニーナさんはまだお布団の中よ。ベルタさまには別の侍女が供をしたわ」
リサは、いっそ快活なほどの嫌みを乗せてニーナの名を口にした。同僚たちは最近色々と人間関係が繁忙なようだ。
「あの仮病の怠け娘ときたら。おかげで仕事が増えたわ。まあ、もともと彼女がこなせる仕事なんてたかが知れているから、そう大した手間でもないけれどね!」
リサはたぶん、使用人たちの中では最もニーナへの対応が厳しいし口も悪い。実際ニーナの世話係がフェリパからリサに代わってからというもの、それまではまあまあお客さま待遇だったニーナも容赦なく教育されているようだ。
「仕方ありませんわ。ニーナさんは元々、新興とはいえ伯爵家のご令嬢ですし、昨日のようなお忍びに慣れておらず体調を崩されることもございましょう」
リサがそこまで強いのには明確な理由があった。
妃殿下の宮の使用人は、侍女たちすら出自が華やかだ。
「体調を崩してなんているものですか! あの子、昨日はたくさん動いて疲れたとかなんとか言って、二回も夕食をおかわりしたわよ」
「まあ。それは、そうですが」
特に妃殿下と血縁だというリサは、もともと相当身分が高い。リサは侍女たちの中でも一際若く、もしかしたら妃殿下よりも年若なのではないかともパオラは思っているが、それでも宮の中では常に堂々としている。
「しかも、ベルタさまが留守居役の私たちに買ってきてくださったお菓子まで! 一つ余っていたからって、同行もしていたのにニーナが食べたのよ」
彼女は単に、伯爵令嬢というニーナのもともとの身分を踏まえても怯まないだけの出自だった。だからニーナの首根っこを押さえておくための教育係には適任なのだろう。
昨夜の夕食の時にしたって、二人は終始どうでも良いようなことで言い合いながら同じテーブルで最後まで食事をしていた。同僚たちの認識としては、なんだかんだ言って仲は良いのね、という感じだ。
一生気は合わなそうだが、相性は案外悪くないのだろう。
パオラ自身は、貴族としての位も末席に近いような下級女官に過ぎない。彼女の夫セルヒオも陛下の側近として重用されてはいるが、現状の官位としては特に高いわけでもない、至って普通の下級貴族の家系だった。
だからパオラは「同僚」たちの華々しい出自や権力争いを、自分ごととしては全く関わりのない、遠い雲の上の世界の喧騒として眺めている。
リサは、メサーロの有力者たちからの妃殿下宛ての手紙を開封して仕分ける作業をしていたが、ふと何を思ったかその手を止めてパオラを見た。
「でも、パオラさん。最近あなたはやけにニーナさんの肩を持つのね」
彼女の言葉に含まれるわずかな険は、それまでニーナに向けていたものよりも明確に強かった。
(明らかに、……この前のことがあってからね)
先日パオラは、このリサと妃殿下が長々と二人きりで話し込んでいたことを陛下に告げ口した。詳しいことは知らないが、陛下がおそらくそのことで妃殿下と話し合われたらしく、自動的に女官からの告げ口があったことがあちらに知れてしまったのだ。
「それで。――結局のところあなたのご主人さまはなんと言っているの?」
実直で直球、彼女たちの姫さまを傷付ける事象が大嫌い。リサは南部出身の侍女たちの特質を体現するような人だ。
そんな彼女がパオラのような女官を気に入るはずもないが、リサからの追及があまりに直球が過ぎるものだから思わず苦笑を漏らす。
「ねえ、陛下は本当にニーナさんを側室になさるつもりがあるのかしら? でももしそうだとしたら、どうして現状のようにニーナさんをベルタさまに預けて放置していらっしゃるの?」
「リサさんは何をお聞きになりたいのかしら」
「私はあなたが何か知っているでしょうと言っているのよ」
それにしても、もう少し問い詰めるにしたって聞き方というものがあるだろうに。
パオラはここ最近の彼女たちを見ていて、一つ気がついたことがある。
ニーナに対して対応が厳しいカシャの侍女たちだが、彼女たちは当然のように、実際ニーナが将来側室に迎えられるというような展開を一つの可能性として視野に入れているのだ。
びっくりした。あるかないかで言えば、それは十割ないだろうし、ニーナ本人ですら明らかに虚勢を張っているだけだと思う。けれど一夫多妻が当たり前の南部から来た女たちの感覚と常識は、それとは食い違っているようだ。
「別に、何も知りませんわ」
パオラは実際何も知らないし、特段の指示が夫やその上役である陛下から出ているわけでもない。
「何もということはないでしょう。あなたは私たちがニーナさんをいいように虐めているとご報告を上げているはずだわ」
ニーナが側室になるかもしれないと思っているのなら、報告されている可能性を踏まえた上でニーナにあの対応なのも大概すごいなと思う。けれど、パオラは彼女が何を気にしているのかもよくわからなかった。
パオラは自分でも、己が間諜には向いていない性格だとは自覚していた。彼女は能力で取り立てられた女官たちのように優秀でもないし、さほど若くも、柔軟でもない。
「虐めているなんて思っておりませんわ。特に、ベルタさまの対応はお優しくて事なかれ主義ですし、何よりこの宮は統制もしっかりしておりますし」
ましてや侍女たちのことはともかく、あの穏やかでお優しい妃殿下が何を考えているのかはさっぱりわかる気がしなかった。妃殿下ご本人もまさかニーナと陛下のことを疑っているのだろうか。
リサは白けた顔をしたが、それは彼女が怒っている時の表情に似ていた。
「ベルタさまがもし本当に事なかれ主義なら、今頃あなたはとっくにクビになっているわよ」
「え?」
「あなたたちなんて追い出したほうがよっぽど安心して暮らせるっていうのに。陛下の息のかかった女官まで呑み込もうとなさるなんて、私たちよりベルタさまのほうが断然強気だわ」
リサに言われて、パオラはしばし考える。確かに夫セルヒオも、今回のことでパオラが宮を解雇されるだろうと考えていたようだった。
確かに、言われてみれば。
「ベルタさまは、どうして私を解雇されないのでしょうね」
リサはいよいよ癇に障ったという顔をした。
「私に聞かないでよ!」
きっぱりした性格のリサと、周囲からはよくおっとりしていると言われるパオラは、自他共に認めるほど明らかに相性が悪かった。
*
その頃ベルタは、目の前に黄金のお菓子を並べられていた。
とりあえず目の前の事象に目をぱちくりさせてみる。差し出された箱をしげしげと眺め、それから、恭しくそれを並べた富豪たちに視線を向けた。
が、もちろん現在起きていることが何かは正確に把握している。
――いわゆるあれだ。おぬしも悪よのう。
「王妃殿下に、これはほんのお近づきのしるしにございます」
「メサーロの贅を凝らした菓子、どうぞお収め下さいませ」
確かに贅は凝らされている。凝らされているが、こういうやり方はあまりにも芸がない。
「これは私に? それとも『王妃』に、ということかしら?」
ちらりと自身の背後に立つセルヒオのほうに意識をやりながら、ベルタは一番大事な部分を聞いておく。
(面倒なことになったわ。しかもこれ、有耶無耶に済ませられる額ではなさそうだし)
黄金の菓子折りは、おそらく一富豪が用意してくるような金額ではない。背後には大勢の人間の意図が、もしかすればこのメサーロという街の商会、富裕層全体が絡んでいる。
「前者ならば受け取れないわ。私がこの街で何をしていたかは、陛下も当然ご存じのことよ」
「もちろんにございます。我らの総意は是非とも、妃殿下に」
「御身を飾る宝石や細工物など、いかようにもお使いくださいませ」
「我らメサーロの商会はカシャの姫君であらせられる妃殿下が玉座にお並びになること、心よりお喜び申し上げます」
セルヒオを連れて来ていて良かった。
ベルタは、この多忙な男を連れ回すことに多少の罪悪感を覚えていたが、地理的に南部に近い候補地ではやはりこうした後ろ暗い接触もある。
首を垂れる商人たちの禿げ頭を眺めた後、ベルタは父の顔を思い出した。
(……わかってるわ、お父さま。こういう時に受け取らないというのは悪手なのよ)
ここは王都よりも大河の向こう、南部に近い。南部の人間の性情をよく理解しているベルタには、受け取らないという選択肢は取りづらい。
彼らの顔を潰すことにもなるし、話が通じないと舐められて、次からはベルタを飛ばされて話が進むことになる。
そうした文化圏で育ったベルタだが、王家の人間としてはいったい何が正しい反応なのだろうか。さすがに見当もつかない。
「あいにく、宝石も装身具も見飽きているの」
ベルタがやっと口を開くと、その場にいる少なくない人数は一様に黙り込んだ。
「私が望むのは、そうね。私が嫁いだ先の家が、もっと居心地が良くなるような使い方をすることよ」
ベルタに金を入れれば王家の財布として使う、という仄めかしにも商人たちは動じなかった。むしろ断られなかったことに胸を撫でおろすような様子だった。
「どうお使いになるかは妃殿下の御心のままにございます」
「そう。そなたらの心遣いは覚えておくわ」
セルヒオは何も言わない。たとえば受け取るのが致命的にまずい事態を引き起こすのならば、彼なら割り込んででもきちんと止めてくるだろう。
(多少の不都合は仕方ない。もう起きてしまったことだし)
どちらかと言うと、彼らの主戦場に連れ込まれて賄賂を差し出されてしまった時点で、ベルタからしてみれば負けが込んでいる。
元来即決タイプの彼女は開き直るのも早かった。
自身の護衛騎士を呼び付けて受け取らせる。あまりの額に、護衛騎士の腕は緊張に震えていた。
「仕方がなかったと思います。やむを得ず納められたことは無論理解しています」
セルヒオはそう言ったものの、帰りの馬車の中でも終始浮かない顔をしている。
ベルタはそれほど、このセルヒオという男について理解しているわけではない。だが彼が煮え切らない態度を見せるのはわりと珍しかった。
この男が腹に一物あるとしたら、なんだろうか。
「何かあるの?」
ベルタは考える。今日あった出来事が、ベルタや、セルヒオの主人である陛下に及ぼす影響。
「商人たちも別に、あの程度の額で誘致の確約を得られるとは考えていないと思うわよ」
「…………あれを、『あの程度』と言い切ってしまえるかどうかはともかく、妃殿下のおっしゃる通りかと存じます。妃殿下は明言を避けてくださいました」
もちろんベルタも決して楽観視しているわけではない。
ベルタは生まれながらの王族ではない。彼らが、王家に金銭を献上したという事実そのものに満足するとは考えていなかった。
「あの金をどのように使ったとしても、きっと彼らは文句は言わないわ」
商人たちが確保したかったのは、金銭の授受によって否が応にも出来上がってしまう関係性そのものだ。彼らにとって金を渡し、ベルタが彼らを金額ごと認識したという時点で目的の大半は達成しているとすら言える。
「では、どのように使われるのが良いとお考えですか?」
「そうね。後々に遺恨を残さないことを考えれば、どうにかこの街に富を落としていくのが良いでしょうね」
面倒なことになった。この街が新しい王都になるのなら、街道整備や宮殿の建築や、いくらでも金の使い道はある。けれど問題はそうならなかった場合だ。
「困ったことになりました。陛下に、なんと申し上げれば良いものやら……」
セルヒオの様子から自分以上に深刻な様子を感じ取ったベルタは、唐突になんとなく思い当たった。
「ああ」
明確に感じ取ったわけではない。ただ、薄ぼんやりとベルタの把握していない意図がそこにあって、彼がそれを隠すべきと考えていることだけは察する。
「――もしかして、もうヴァウエラに内定しているの?」
踏み込んで聞いてみたベルタに対し、セルヒオは表情こそ変えなかったが、何も答えなかった。
答えないことがすなわち確信を与えることと気がつくほどには、彼は取り繕えていないようだった。
「そう。それならそうと陛下も、言ってくださればよろしいのに」
この街の大きな利点を捨て、ハロルドがヴァウエラという街に何を見出しているのか、ベルタにはわからない。
ただ、セルヒオや部下たちが聞かされている意図をベルタが知らないことだけはわかる。ベルタは彼らほどハロルドに信頼されているわけではない。
「どうして陛下は」
長年馴染んだ側近と、最近妻となったばかりの女。どちらが信に足るかは考えるまでもないかもしれない。だがそうだとしても、ベルタはこうして、王族として実務的に動かされる立場にある。
「陛下は私を、どうなさりたいのかしら」
そこに焦点を当てて考えることはあまりに億劫だった。きっとベルタ自身が、王家のために何ができるか考えた時に思い当たるような得意な立ち振る舞いと、ハロルドが王妃という女に期待する役割は違う。そして違うということすら、彼にとっては大した問題ではないようなことなのだ。
馬車の中で独り言を重ねるベルタに対し、セルヒオは返答して墓穴を掘ることを避けたいようだった。
「妃殿下は、陛下とお話し合いになられてくださいませ」
話を切り上げたい彼の逃げ口上のようでもあったが、セルヒオの表情は存外に真剣な色を帯びていた。
「そうね」
何かを考えて落ち込む前に彼と話し合うべきだったし、こんなところで側近を問い詰めたって意味はない。
「陛下ときちんと、落ち着いて話をすべきね。王都に戻ったらそうするわ」
「いえ、」
「ああ、もちろん賄賂を受け取った件は戻ったらすぐに陛下に伝えないと。金貨の管理はあなたたちに任せても良いかしら」
「それはもちろん、構いませんが」
セルヒオが何やら煮え切らない態度を続けているうちに、馬車は滞在中の館に到着した。




