【17】先見
屋敷に戻って、留守居の侍女が用意していた風呂に入ってさっさと身支度を整え、ベルタは素知らぬ顔でハロルドとの晩餐の席についた。
しばらく、ハロルドが今日の社交で赴いていた狩りの話や、適切な談笑が続いたが、その流れの中で彼は笑顔のまま言った。
「ところで今日、市街に君にとてもよく似た女性を見かけたんだが」
ベルタはちょっと様子見をしようかと黙りかけたが、彼の目を見るに、おそらく鎌かけではなく確信を得ている。
「私ですね。陛下と目が合いましたわ」
一拍置いて、ベルタは速やかに自首した。
昼間、結構な距離があったにもかかわらず彼が真横を通り過ぎようとした瞬間、何かの冗談のようにばっちり視線がかち合ってしまっていた。
ベルタの返答に、なぜか彼のほうが動揺した。頭を抱えたいような様子を見せた後、それでも食事中なので礼儀正しい姿勢を崩さなかった。
「やはりそうか。……いや、そんなわけはないと笑い飛ばして欲しかったんだが」
「陛下が先ほど召し上がった果物は今日私が買い求めたものです」
「そうなのか? いや、今はそういう話をしているのではない」
表面上にこやかに返答しつつ、ベルタはハロルドから意識を逸らさず観察していた。
正直なところ、セルヒオのような部下は勢いで押し切れても、肝心のハロルドがどういう反応をするのか確信があるわけではなかった。
彼が絶対に許さないという態度を取るのなら、ベルタは今後の行動は控えなければならなくなるかもしれない。ハロルドが家庭教師のようにベルタを叱るとして、本気の制止か、それとも今後もなあなあに目こぼしを狙えるようなものなのか。
「セルヒオ。警護は抜かりなかっただろうな」
まず彼は、広間の端に控えていた自身の侍従に問いかけた。
「無論です。手慣れた妃殿下が鉄壁の布陣を敷かれましたので」
セルヒオはベルタをかばうようで、その実更に火種を投下する発言をした。
「……君は南部にいた頃はよくあのようなことをしていたのか?」
もともと隠す気もさほどないベルタは頷く。
「カシャの娘として顔が割れていない地域ではよく外に出ておりました」
「…………あのような下々の服装をして?」
「あれは全然下々ではございませんわ。民の暮らしの平均から見れば上等な中産階級の服装です」
「今はそういう話をしているのではない」
いったい何から言えばいいのかと考える様子で反応を鈍らせたハロルドに、ベルタは好機と知ってたたみ掛ける。
「それほどの危険ではありません。私は群衆の中では悪目立ちしないような容姿ですし、背はあるので護衛がうっかり見失うこともありません」
「だからと言ってそのようなことを続けるのは看過できない。王妃が気軽にお忍びで出歩いていると知れるのは問題だ」
ベルタにとって彼の反応は、思っていたよりも強いお叱りではなかった。
「もちろん、このようなことを度々するつもりはありません。たまにやるから上手くいくのですわ。あまり頻繁に出入りしていると知られては、行動時間を把握した曲者が機を見出しかねません」
「実体験のような言い回しだが」
「いえ。とんでもございません」
ベルタが過去には色々と迂闊だったという話は、もちろん王妃になってからのことではない。
が、調子に乗って余計なことまで言いすぎないようベルタは沈黙した。
結局、晩餐の時間の間中どう反応すべきか態度を決め切れなかったらしいハロルドは、「後で話そう」と言ってその場を切り上げた。
ただ、後で話そうと言ったわりにはハロルドはベルタの寝室に来なかった。
「陛下はお忙しいのでしょう」
侍女に就寝の支度を整えさせながら、ベルタは一人でそう呟いた。
彼はいつも忙しい。君主としてはいささか、自ら動き過ぎているように思う。ただそれは、全く政務にかまけないような暗愚な王を頂くことに比べればあまりに贅沢な文句だろう。
仕事をするのは良いことだ。
「姫さまも明日以降は色々とご公務がおありです。今日は移動にお忍びにお疲れでしょうし、早めに体を休めてください」
「うん、もう寝るわ」
侍女にそう言って下がらせたものの、昼間の高揚感の名残りがまだ残っているらしい。ベルタはなかなか眠気を掴めなかった。
なんとなく寝台に入っている気になれず、窓から差し込む月あかりを頼りに、窓辺の椅子に深く身を沈めた。窓から覗く、丸い大きな月に照らされた夜半は、静かで穏やかだ。
秋の夜とはいえ、ここは少し王都よりも気候が良いためか、今夜はそれほどの冷えを感じない。
(王都に比べて、か)
ベルタはその自分の考えに気がつき一人で少し笑った。
ごく普通に、王都の人間のような考え方をする。
少し前までは、彼女はきっとすべてのものごとを、カシャの故郷メセタと比べて考えていたはずだった。
メセタが故郷だと思う気持ちは今も変わらないのに、ベルタの無意識は既に身の置き場所を変えている。こういうふとした時に思い出すのは、王都に置いてきたルイの顔。帰ろうと思う場所は住み慣れてきたあの宮だ。
ここは楽しい街だが、夜に一人になるとやはり、よく馴染んだ場所のことを思う。
帰りたい。あの馬車で。帰りも彼と一緒だろうか。
(陛下、)
昼間、遠くから見たハロルドのことを思い出す。物見高い町方の人々越しに彼を見た光景だった。
男も女も一目でいいから見たがる。みんな国王陛下に夢中になるのは、彼が民の幻想に応えるだけの見栄えのする君主であることと無関係ではないだろう。ペトラ人から見れば彼は、彼ら王族は、まるで舞い降りた天界の住人のようだった。
ベルタはあの時、場の空気に乗って酔っていたし、そうでなくとも滅多に見られない国王陛下の行列に浮かれる庶民の心情というものは腑に落ちるものがある。
それは、実のところ今も、ベルタと彼の距離感はあのくらいが適切なのではないかと思うことがあるからだ。なんの因果か自分は彼の妻になって隣にいるが、公人として見る彼も、時にただの男としてベルタの前に現れる彼も、遠い。
「……ハロルド」
その名を音にして発音するのは、初めてかもしれなかった。
自分の声が耳に入った瞬間、あまりに気恥ずかしくいたたまれなさを味わって、ベルタは自分しかいない室内を思わずきょろきょろと見まわした。
その名を呼ぶということは、彼を個人として認識し、まるで自分のものだと主張しているような気さえする。
(これは、大変だわ……)
彼のすることにただ受け身でいるよりも、彼を自分の男だと、そう思うことのほうがベルタにとってはよほど大それた、後ろめたい、勇気のいることだ。
一度そう考えるようになってしまったら、自分はどう変わるのだろう。
もし彼と、王と王妃という関係ではなく、二人きりの時は親密に呼び合って。いつかそういうことに慣れる日が来るのだろうか。
王宮が自分の家だとは、正直今も思えないままだ。
けれどそれはきっと、いつまでもそうだろう。王宮や王家という家を、一人の女が認識の内側に入れ切るのは無理な話。王族になったという事実を少しずつ受け入れて、己の立ち位置を理解して、適切な距離感を模索していくしかない。
――国家は、今や王妃となった女に、いつまでもただ人でいることを許さない。
新しい都に関することも、彼女にとってはその認識のことだった。
自分がどこに住みたいだとか、実家に行きやすいからこっちがいいだとか、思ったとして言い出すような種類のことではない。一家の引っ越しとはわけが違う。
(お父さまも結局何も言ってこないようだし)
遷都に関する情報は当然南部にも届いている。先般カシャに返らせた侍女はそれに関する父からの伝言も預かっていた。
『南部は正直、どちらでも構わないということでしたわ』
不確定要素の多すぎるこの議題に関して、ベルタの父は何かを選択して根回しするという手間を投げた。
不安定な政情の中、無理を押して口を挟んでもカシャが得るものはそう多くない。
その認識がベルタと父の間で一致しているのは、まだ幸いなことだった。
もし王都が近くなれば、双方の流通はもっと盛んになって南部は栄えるかもしれない。一方で物理的に距離が縮まることは、目が届きやすくなるということでもある。
ただ、どちらにせよ融和の流れはもう変わりようがない。
きっと近く、数年のうちには、南北を繋ぐ街道の整備が構想される。山脈を切り開き、あるいは大河に橋を架けて。
国土は、民の暮らしを豊かにする大動脈を欲している。
これが十年後と言わず、五年後だったらカシャの出方もまた違ったかもしれないが、南部は王家の移転に口出しをするほどには進出が間に合っていないのが現状だ。
『ですが姫さまが王妃とし、もしどこかの都市を強く志向されるのでしたら、カシャの総意として推して構わないということでした』
それは丸投げともいうが、少なくとも父は今も、ベルタがカシャの家にいた頃のように信頼して後押ししてくれる。
そしてベルタは正直なところ、選択の余地はないように思う。
今日が楽しかったから言うのではないが。
(この街は間違いなく、近い未来にもっと栄える)
もちろんメサーロ案にも様々な欠点はある。物理的距離による移転の手間。新たな王宮の拠点を一から作り上げるだけの莫大な投資。
しかし、それらすべてを補って余りあるものがここにはあるように思われた。
近い時代に、国土最大の都市のひとつになるような地力を秘めた地だ。
ベルタは丸い月と星空を見上げ、この月が今夜と変わらず照らすであろう、この街の遠い未来に思いを馳せた。
―――――
結論のみを言えば、この夜の彼女の直感は正しかった。時代の流れと整合するように、この街は栄華を極める。
メサーロは彼女の夫の代というより、――その息子ルイの代で大いなる発展を遂げる。
国家の大動脈を押さえ、南海の植民地から大陸北方諸国までの、あらゆる富の通り道。街並みは見渡す限りどこまでも広がりを見せる。
けれどそれを、今のベルタが知る由もない。
後世に中興の祖としてその名を残すこととなるルイも、今はまだ彼女の腕の中で育つ、少々手のかかる幼子に過ぎなかった。




