【15】水の都
前回置いて行かれたせいで、ベルタが次の視察先であるメサーロへ出立する日、ルイはお留守番をさせられる不穏な雰囲気に気が付いてしまった。
「いくっ! やあ、るいもいくもっ!!」
出立の日、宮を出る前にルイはベルタにしがみ付いて大泣きしてみせたが、着替えている時間のない中でドレスが汚れることを危惧した女官に強引に引きはがされた。
「ごめんね。連れてはいけないのよ」
ルイはまだ公務に連れるには幼すぎる。それに昨年の南部視察の時とは状況も異なっている。
ベルタの力は今では後宮内に行き渡っているし、ベルタ本人が不在にしていてもルイの身に危険が及ぶことはまずないだろう。
彼のご機嫌はどうあれ、幼児を気軽に連れ歩くのはそうそう歓迎されるものではない。
「ルイ。すぐに帰ってくるわ」
「や!! おかあたま! やああだ!」
今回の視察もそれほど長期の予定ではない。しかし子供にとっての数日は大人と違って長いのだ。
この世の終わりのように泣き叫ばれれば、ベルタはまるで自分が稀代の極悪人になったようにも感じる。
とはいえ、王子がいつまでも母親にべったりなのも問題だ。
ルイをさすがにもう少し親離れさせるためにも、ここは心を鬼にして振り切るべき場面だろう。
「ベルタさま、」
もう何をしても泣くからさっさと行けというように、エマが無言で促してルイとベルタの視界の間に挟まった。
「ルイ、いい子でね。エマの言うことをよく聞くのよ!」
彼女たちの努力を無駄にせず、ベルタは足早に自分の宮を後にする。
「行ってらっしゃいませ」
「どうかお留守の間のことはご心配なさらないでください」
その別れ方のせいで、ベルタは表の王宮に向かって回廊を歩きながらも口数が多かった。
「私がいなくてもあの宮は大丈夫よ。ルイが悪さをすればエマが叱るし、エマに怒られて泣いたらジョハンナが慰める」
「お気持ちはわかりますが」
ルイとの別れに引きずられて涙目になっている主人に、同行の侍女はそっと手巾を差し出した。
「わかってるわ。……私だっていつまでも子離れしないわけにはいかないのだし、今回みたいなことがなくても、少しずつルイの周囲が、私不在でも回るようにしなければね」
今までがむしろ異常だったのもわかっている。
普通、上流階級の女はそこまで子供と一緒に居るものではない。子供たちに殊更に甘いカシャの両親でさえ、幼少期にここまで娘と一緒にいてくれたものではなかった。
ベルタとルイが特殊だったのは、これまでベルタに対外的な役割が極端に少なかったからだ。
ルイの母というだけの役割にべったりでいられた時間が過ぎて、少しずつ王妃と王子の距離として、あるべき姿に落ち着こうとしている。
「ルイ王子のご様子も心配ですが、子供は案外けろりと新しい環境に慣れるものですわ。ベルタさまも、あまり気に病まれませんよう」
「そうね。きっとすぐに慣れる。最初だけよ」
胸の中にぽっかり空いたような寂しさを意識すると、ルイの泣き声が遠くから聞こえる気がした。
*
王都から整備された街道を南下し、馬車で数日。
一行は、国土の南北のほぼ中間地点に到着していた。
その都市は、高台から広く全景を見渡すことができた。
大河の下流地帯にあって、その支流が街に向かって流れ込む。水の都に特有の忙しない喧騒が、遠景からでも伝わってくるようだった。
メサーロは、水運を押さえる大商業都市だ。
「不思議な心地がいたしますね。少し懐かしいような気もします」
ベルタたちはちょうど一年前もここを訪れた。
昨年の南部への行幸の折、中継地点としてこの街に立ち寄った。もちろんあの時もハロルドと一緒だったし、ベルタの腕の中にはルイもいた。
「前回はあまり周囲を見て回るような余裕はなかったからな。今回は色々と見て回れる」
視察の一行は間もなく市街地に入った。
滞在する予定の現地太守の屋敷まで、市街をゆく馬車と護衛の騎士たちの周囲には見物の一般市民が詰めかけた。馬車の窓から少し覗くだけでも、大通り沿いは大変な騒ぎになっているようだ。
「メサーロの雰囲気は南部の都市群と少し似ているか?」
ハロルドに問われ、ベルタは故郷を思い起こしながら窓の外に視線を向ける。
「どうでしょう。賑やかな庶民の雰囲気はどことなく似通るものでもあります。こちらにも南部からの商売人は入っているでしょうし」
活気のある街。支配的な権力の煽りを受けていないのだろう自由な雰囲気は、確かにベルタの知るものと少し似ているような気がした。
「ようこそお越しくださいました。国王陛下並び王妃殿下のご滞在、街を挙げて歓迎いたしております」
街の役人を束ねる太守は、屋敷の門前で馬車を出迎えた。
以前ここに来た時、ベルタはまだ王妃殿下と呼ばれる立場にはなかった。
厳密には第二妃として既に王室入りはしていたが、人々の感覚は二番目の妃という存在を受け入れ切ってはいなかった。
それは敬虔な――言い方を変えれば折り目正しい真面目な人間ほど、ベルタにおぼろげな隔意を持っていたように思う。
前回この街に来た時、自分がどのような気持ちだったのか、ベルタはもう思い出せなかった。
今とは全く異なる気持ちだったということは想像に難くない。
ベルタは同行者のことを夫だとは認識していなかったし、南に戻れば無意味な郷愁に駆られることのわかり切った、どちらかと言えば憂鬱な気持ちの続く旅だった。
わずか一年ほど前のことが、思い出せないほどひどく遠い昔の出来事のように感じる。
ただ、ベルタは今、一年前だったら絶対に考えなかっただろうことを思いついていた。
「街に出てみようかな。こっそり」
聞いたセルヒオは耳を疑う顔をした。




