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【14】家族像



 王都に戻って数日。ハロルド以下、外朝の人間は多忙を極めた。

 ヴァウエラから戻ったばかりとはいえ、次回の視察の日程が迫っている。


「この書類、裁可のサインがありません! 担当官はどちらに?」

「視察の先行組で既に出立してしまいました」


 過重労働に殺気立つ官吏たちを眺めつつ、ハロルド自身も通常の政務に忙殺されていた。


「担当官の上役のサインで代用させろ。一足飛びに俺の認可で構わないなら出せ」


「…………それはさすがに」

「陛下直々のお手は現場が慄きます」


 普段ハロルドが疲れて適当なことを言い出した時に「馬鹿言わないでください」と率直に諫めてくるような、セルヒオをはじめとした側近たちは皆出払っている。


 結果、彼は周囲を困らせないよう、ろくに軽口も叩かず真面目に仕事をする羽目になった。




     *




 ハロルドがベルタの宮に行くことができたのは、王都に戻って何日か経ってからのことだった。


 しかしベルタは、ハロルドの顔を見るなり申し訳なさそうな顔をした。


「陛下。申し訳ありませんが……」


 彼女が言い淀んだ言葉の先は聞かなくともわかる。


 ベルタの腕の中にはルイが張り付いていた。

 小さい頬には涙のあとが乾いて白く残っていて、既に小さな暴君がどうしようもなくぐずった後らしい様子は察せられる。


「ああ。ルイが君から離れようとしないらしいな」


 視察から帰って来るなり、彼女の宮はそれはもう大変な騒ぎだったらしい。

 ルイはとにかく、ベルタが視界にいないと泣き喚いているようだ。


 まだ事情が分かるほどの歳ではない。母が突然いなくなり、数日も放置されてショックを受けたルイは、身も世もないといった様子でベルタを離さない。


「早めに寝かしつけてしまおうと思ったのですが、今日に限ってなかなか寝付いてくれませんでした」


 彼は大好きな母親の腕の中から、不機嫌いっぱいの目のままハロルドを見上げた。

 ルイは一応、ハロルドのことを父親だと認識してはいる。たぶん。


「ルイ」


 だが呼びかけはにべもなく無視される。

 少し前まではたまに会う父にも好意的だったのが一転、近頃彼はすっかりハロルドに懐かなくなった。


「どこに行くのも後追いがひどくて。困っております」

「可愛いな。……いや、大変だな」


 率直な感想が漏れたものの、ハロルドは空気を読んで即座に訂正する。

 実際ベルタは疲れているようだった。


「昨日もセルヒオとの打ち合わせにルイを抱いていたと聞いた」


「ええ、」


 ベルタは変な顔をした。笑うべきではないのに笑いが漏れてしまったというような。


「セルヒオは遠慮してとても手短に帰って行きました。セルヒオを見るとルイがぎゃんぎゃんと泣いて騒いで。悪いことをしました」


「まあ、どうせ視察先の現地で一緒になる。その時でもいいだろう」


 ハロルドは身を屈めて、ルイと視線の高さを合わせた。

 

 ハロルドには、小さい彼が無差別に馴染みのない人間に対し、不機嫌をあらわにしているとは思われなかった。

 彼は彼なりに、母を自分から奪って遠ざけそうな人間を選んで嫌っているのだ。


 幼いながらに、確かに強い自我を持っている。まだ人というよりは動物的だ。


「一緒に寝ようか」

「え?」


 意外だったようで、ベルタが声を漏らす。


「ルイ。今日はお父さまとお母さまと一緒に寝よう」


 ハロルドももう少し、ルイと一緒の時間を過ごしていたかった。彼に嫌われたくない気もするが、拒絶する顔すら可愛らしくて構い倒したい気持ちが勝つ。


「……おかあたま」

「お父さまだ」

「おとたま?」




 ベルタの部屋の寝台は、幼児を間に挟んで三人で寝ても充分な広さだった。


「なんだかこういうのも、良いですね」


 寝室の落とした明かりの中で、ルイは最初はバタバタと手足を動かして暴れていたが、すぐに落ち着いてうとうとし始めた。

 もともと、幼児が起きているには遅い時間だ。ベルタを取られたくなくて無理をしていたのだろう。ベルタにそっと撫でられて、安心したように口元を緩めている。


「ルイは幸せだな」


 彼の眠りを邪魔しないよう声を落として遠慮がちに話す。ベルタは視線だけを返して答えた。


「こうして、母親の腕の中で眠りにつける」


 安心しきった幼児の寝顔は、この世のあらゆる不幸とは無縁そうに見えた。


 たった一人の直系の王位継承者。政治的な重要性が表では取り沙汰される子でありながら、ルイは常にこうして周囲に守られてすくすくと育っている。

 まるでただの、一人の子供であるかのように。


 それは幼い彼の環境として、どれほど得難く尊いことだろうか。


「それは、陛下がそうお考えになるからです」


 ハロルドの内心の感傷を知っているように、ベルタは呟いた。


「ルイがただの子のように育つことを。私たちに今の生活を、許してくださる」


 眠った幼児の高い体温に釣られるように、彼女の瞼も重たくなり始めているようだ。


「俺は何かしているか?」


「ふふ」


 笑っただけで明確な答えはない。


「私も眠くなって参りました」


「ああ。……おやすみ、ベルタ」

「おやすみなさいませ」


 彼女は眠りに落ちる直前、無意識のようにルイに身を寄せた。その無造作な動作もまた、共寝に慣れた母子の単なる日常を思わせる。



 ハロルドは、自分が幼い頃、父王と母と同じ寝台で眠ったような記憶は一度もないことを思い出していた。


 ルイは、もう将来に記憶が残るくらいの年齢だろうか。二歳半ほどの頃の出来事は、大人になった時には忘れているかもしれない。

 そうだとしても、自分たちはまたいつでも三人でこうした夜を過ごせる。


 先に眠ってしまったベルタの横にいるというのは妙に新鮮だった。


 ハロルドは、彼女の寝顔を今もまだ見慣れない。

 普段ハロルドが起きているうちは彼女が眠っていないからだ。


 せっかくだからもう少し起きていようと、半身寝返って枕に頬杖をついた。彼自身も心地良いまどろみの中にいたが、数年前までは影も形もなかった、己が手に入れた妻子というものの姿を、もう少し眺めていたかった。


(想像すらつかなかった。ほんの少し前まで)


 どうしても胸に去来するのは、自分だけが幸せだと思うことへの罪悪感だ。


 もともと、本当は別の人とこうなるはずだった。あり得たはずだった別の未来のことを考えずにはいられない。


 会わなくなって、今はただ懐かしく思い出す。マルグリットとのかつて日々は記憶の棚の中にそっとしまい込まれて、普段意識することは減っている。


 彼女が今も、せめて笑えていればいいと願う心は、彼の中でベルタやルイへの思いとなんら矛盾してはいなかった。


「ベルタ……」


 答えは期待しておらず、誰も起こさないようハロルドはそっとその名を呼んだ。


 細くて柔らかい体に触れたいとも思うし、それとは別に愛おしいとも思う。


 時折、彼女に誰より近く、深く触れられるのが自分だけという状況に、それでも足りないような我慢が利かなくなる思いがする。


(――もっと。もう少し)


 彼女を手に入れて、全部を自分のものにするには、どうしたらいいだろうか。


 今更自らの情動に戸惑うような歳ではないものの、歳を重ねた分だけ、若い妃にのめり込んでいく己に対し、客観的な呆れを含んだ自省もあった。

 

 けれどハロルドは、彼女との関係について、ある程度の覚悟を固めている。


 王妃の座はそう何度も替えのきくものではない。もう王室内に大きな変動をきたすのは、最後にしたい。


 本当に大切なものから目を背けず、妻との関係を、今度は取り巻く環境ごと慎重に見ていかなければならなかった。だからこそ思う。


 ――政治のことなどはいっそ何も知らないでおくほうが、ベルタにとっては楽なのではないか。


 別に、政略的なことを考えれば、南部との問題はまだ待てる。


 国土の三割を分けるほどの一地方との問題は、一朝一夕に解決するような性質のものでもないし、そもそも王室側に強硬に切り込んで行くほどの余力があるわけでもない。


 ただ、いまだに対応を完全には決めかねているのは、中央との交流に消極的な南部の真意がわからないからだった。


 長年に渡り没交渉だった彼らとの関係は、ようやく互いの手の内を読み合って、昨年の視察を機に第一歩を踏み出したというような段階だ。そしてハロルドは、そのような国家と南部の膠着状態に、妻との個人的な関係を映したくはなかった。


 だから単に初めから、ベルタを両家の問題の矢面に立たせなければ済むのではないかとも思うのだ。政略的な展開と、自分たち二人の夫婦としての歩みは別の話として。


 彼は結局、ベルタやルイを守りたかった。


 ただ穏やかに暮らしてほしい。そして彼自身ももう、心から安心できる関係がほしかった。世の普通の夫婦には当然に許されるようなことだ。


 生涯の伴侶と定めた人とそれこそ、死が二人を別つまで。


 静かに更けていく夜の中、ハロルドは睡魔に負けるまでの短い時間、そのことを考えた。









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[一言] ルイ、賢いな
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