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【5】採用面接


 ジョハンナが登城したのは二人目の子を産んでまだ間もない時期だった。



 乳母候補の一人として、懐妊中の第二妃に面会するための登城だった。


(なんとしても乳母に選ばれるのよ。我が家のこのままの財政状況じゃ夫や子どもたちも食いっぱぐれるわ……)


 はじめて足を踏み入れる後宮内は奇妙な静寂に包まれていた。洗練された雰囲気と同時に、建築当時の面影そのままの伝統的な建物は、どこか底冷えのする寂しさを滲ませる。


 第二妃の住まいである宮は、その重厚な王宮内の建物の中では一際目を引いた。

 外壁や室内は人の手によって完璧に磨き上げられ、調度の一つ一つに至るまで趣味の良い一級品が集められている。


 金に糸目をつけずに整えられた瀟洒な内装は、まるで王宮が建てられた最盛期の姿に、この宮だけ息を吹き返しているようだ。


 正妃の派閥をはじめとした伝統的貴族の多くは、この時代には既に権威を細らせかけていた。王侯貴族の血筋のルーツはこの国ではなく、その多くは内陸の近隣国に持つ。


 異邦人の貴族たちがこの国を実効支配した時代が長く続いたが、その権威はもちろん永遠ではないし、近隣国との繋がりも昔の時代ほど盤石ではない。



 これから先の時代に権威に取って代わるのは、経済力や民からの求心力を背景とした土着の大富豪に違いない。


 その急先鋒であるカシャ一族の娘。第二妃、カシャ妃は既に王宮内にすら食い込んだ。


 勢いはもはや止まらないだろうというのが、ジョハンナの親族の意見で、ジョハンナのような伝統的貴族の末端家系はいつの時代も強権力に擦り寄らなければ生き残れないのだ。







「シュルデ子爵夫人。随分と若いのね、出産は今回で二度目と聞いていたけれど」


 一度目の登城でまさかいきなり第二妃本人に会えると思っていなかったジョハンナは、宮の奥、妃の私室にまで通されて目を白黒させていた。


 ジョハンナがふかふかの長椅子に座らされて程なく、奥の部屋から細身の女が現れた。


 すぐに誰だかわかった。この王宮に腹のでかい女は一人しかいないからだ。ジョハンナは慌てて立ち上がり、臣下の礼をとった。


(第二妃!ご本人、このお方が)


 細身の女ーー第二妃ベルタ・カシャは、ジョハンナを一瞥して親しみのある微笑みを浮かべると同時に、乳母候補の若さが気にかかったようだ。


「歳は十八にございます。三年前にシュルデ家に嫁ぎ、昨年、今年と続けて出産いたしました」


 年齢のことはジョハンナが乳母に選ばれるかどうかの不安要素のひとつであったため、あらかじめ想定された会話ではあった。


「私の侍女たちの誰よりも若いわ」


 初めてお目にかかったカシャ妃は、二十歳と聞いていた実年齢よりも落ち着いて見えた。


 背が高いからだろうか。女性にしては高身長で、それと同時に彼女はひどく細身だった。その分だけ腹部の膨らみが目立ち、細い体の栄養をすべて吸い取っているように見えていた。


 けれど、そのような妊娠中といういびつな体の時期ですら、カシャ妃はいっそ頑健に見えた。


 豊かで艶のある黒髪は、髪の強い癖っ毛を活かすように緩く結われて波打っている。陶器のように滑らかな肌は彼女の顔色を明るく見せたし、整った鼻梁も影の落ちる睫毛も、その顔の造形を良く彩っていた。


 一般的な美人の条件に当てはめるには、彼女の容姿は迫力がありすぎるだろうか。


 この時代の美人の条件を最も体現しているのは、他でもない現国王の正妃殿下のような女性だ。庇護欲を駆り立てるような繊細で儚い容貌に、色素の薄い髪や肌、柔らかい曲線美のある体。


 ジョハンナの判断基準において、カシャ妃がこの王宮に馴染んだ女性ではないことは明らかだった。


 しかし、彼女はきっと彼女の属する文化圏では美しいとされている女性だろう。


 そう思わせるだけの説得力のある気品がカシャ妃にはあって、ジョハンナはしばし彼女に見とれてしまっていただろうか。


 カシャ妃は、若すぎると気にしたもののジョハンナをすぐに追い返すでもなく、長椅子に着座を勧めると菓子や茶で、親しい友人にするようにもてなしてくれた。



「私の生家のほうでは、乳母の子と主家の子は一緒に育つのだけれど。こちらでは乳母の子は一緒には暮らせないと聞いたの」


「我々のような子爵家の子では身分が違います。王子さま、王女さまに直接お仕えすることは叶いません」


 乳母になれば普通、主家の子に生涯仕えることになる。自分の産んだ子のことは二の次だ。


「それではあなたも寂しいでしょう。産んだばかりの子と離れて暮らすなんて」


「覚悟はできております。乳母の責務の心得は、祖母から聞かされて育ちました」


 ジョハンナの祖母は、昔王族の乳母を務めていた経歴があって、当然カシャ妃もそれを知っているだろう。今回ジョハンナがこの若さで候補に上がったのも家系の実績があってのことだ。


 カシャ妃は痛ましいような浮かない顔をした後、少しだけ声音を落とした。


「一緒に暮らすことは無理でも、私なら月に数度はあなたを家に帰してあげることができる」


「そ、れは……」


 話の急展開についていけず、ジョハンナは言い淀む。そもそも採用されるかどうかもわかっていないのに。


「もちろん非公式にだけれどね。シュルデ子爵家の領地には名産の茶葉があるそうね。そうね、私はそのお茶がとても気に入って、あなたにわがままを言って月に二度ほど、城下にお使いに行ってもらうことにするわ」


 乳母としての心得だとか、乳の出の良さだとか、色々と聞かれたら答えられるよう準備した問答はあった。


 けれどこんな状況は想定していない。なんと答えるのが乳母として正解なのか、全くわからない。


(手に負えないお妃さま。どうして侍女は誰も止めないの、誰もこちらの貴族の文化を理解していないのかしら)


「……そのようなことはなりませんわ、乳母は片時も離れず、お仕えする臣下です。おそばを離れている間に恐れ多くも御子さまを飢えさせるわけには」


「大丈夫よ。私も自分の乳をあげるもの。だからあなたの役割はあくまで補助」


 更にとんでもないことを言い出したカシャ妃に、ジョハンナは絶句した。上流階級の女性は自分で乳をやるような、下々のようなことはしない。何のために乳母を雇うのか彼女は理解しているのだろうか。


 カシャ妃はそんなジョハンナの様子を見て今度は上機嫌そうにたたみ掛ける。


「ペトラ人から乳母を探すことも考えたけれど、この王宮で一番動きやすいのはあなたのような古参貴族のお嬢さんでしょう」


 元より、雇ってもらえるのならこの先の情勢がどうあろうと、ジョハンナや夫や親族はこのペトラ人の妃に賭けるつもりでいる。


 ジョハンナは彼女の希望に添わなければならない。生母の希望に添い、気に入られてその子女にお仕えし、使用人として盤石な地位を手に入れるのだ。


「シュルデ夫人?私は、なるべくしがらみのない立場の人に乳母になってほしいの。何があっても、この子の味方になるような愛情深い人がいい。だからね、情が深くて家族を大切にするあなたは理想だわ」


「そう、おっしゃっていただけて、光栄ではございますが、」


 わかってはいたが、この王宮にとって異邦人の妃に、近しく関わる立場に立つということの難しさを痛感せずにはいられない。


「そう。良い乳母に出会えて嬉しいわ」


 そう言う彼女のほうこそ既に、まだ産まれてもいない我が子を守らんとする愛情深い母の顔をしていた。





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