【10】記憶
侍女を返した後の部屋で、ベルタは人払いを続けたまま一人で思案に暮れた。
リサの前で見せた態度がすべてそのまま、ベルタの包み隠さぬ本音というわけでもなかった。
(私は何をしているのかしら)
自らの立場が押し上がり、今までは見ることのなかった景色が目の前に広がって、毎日がただ目まぐるしい。
ベルタが今感じているのは高揚ではなかった。
地位に相応しく過重された責任と、立場によって変えなければならない意識。
ベルタは生家であるカシャ一族を守らなければならなかったが、かといって完全に王家を欺きたいわけでもなかった。
それらの利害が相反し兼ねないという場面に、想像よりもかなり早く多く直面することになっている。
(カシャのために動くことが、王家のためにもなったらいいのに)
最近よく、母のことを思い出す。
ベルタが幼い頃から、少なくとも母は明確に彼女の生家ではなく、カシャのための人間だった。
きっと正しい態度はそれだ。嫁いだからにはその家の人間となるべきを、ベルタは親の姿に見て知っている。
ただ、単純な比較で済む問題でもなかった。
カシャの権威を永続させることが、南部を一単位としてまとめ上げ、繁栄に導く上では最善の案だ。そのことは南部で暮らしたベルタの目から疑いようのない事実だった。
しかし中央はそもそも、南部の更なる繁栄を望んでいるだろうか。
カシャというひとつの家が力を持ちすぎるから、王家にとって脅威になり得る。
中央は、南部を小国同士でいがみ合う時代に巻き戻し、細分化させて切り崩しを図ることを是と考えるかもしれなかった。
ハロルドは、きっと国王としては常に正しい選択をするだろう。
ただその選択がどちらに向くか。
彼が国家という単位をどう考え、何を最善と捉えるか、ベルタにはまだわからない。彼を知るにはそばにいた時間はあまりにも短かった。
最近、色々な方面から同じような意図の指摘をされていることはわかっている。
ベルタが自発的に動かず、消極的にすべてをやり過ごしているのは、そもそも自分自身の身の振り方を決めかねているからでもあった。
*
次にハロルドが渡って来たのは、それから数日後のことだった。
目が合うと彼は、親しげにベルタに笑いかける。
もっと冷たい人だと思っていた。
今でも覚えている。ここに来たばかりの時。……時系列で言うとあれだ、ルイを作っていた頃のことだ。
目なんか合いやしなかった。
(それどころか私が呼んだって)
ベルタは当時のことを、この前何かの拍子にふと思い出した。
『陛下、』
あれは最初の夜だったか、その次だったか。
細かいことは忘れたが、ベルタは彼の後ろ姿にそう呼びかけた。呼び止めたかったというよりは、彼がさっさといなくなることに驚いて口を開いてしまったのだったと思う。
声に出した一秒後には後悔した。
ハロルドはほんの一瞬歩調を緩めただけで、振り向きもせず寝室を出ていったからだ。
それは、あの三夜をうまく乗り切った彼女の、数少ない失態だった。
ベルタは黙ってさえいれば、無視されたと気付くこともなかったのに。
(あれはないわ。今でもほんと、ひどいと思うわ)
どうして忘れていたのだろう。思い出してからはいっそ鮮明に、その時のハロルドの固い足音すら聞こえるほど、記憶に焼き付いている出来事だった。
「うわの空だな」
あの時の男と目の前の彼が同一人物だという事実に、ベルタは今もまだ混乱しているのかもしれない。
「陛下」
ハロルドの手がベルタの髪を撫で、侍女がまとめた結い髪をほどいていった。
癖っ毛の自分の髪とは違う、彼の美しい金髪に触れてみたいと思うけれど、思うだけで腕を動かすことはできなかった。そういう種類の呪いでもかけられているように。だからベルタは、明かり越しに彼の影が降ってくるのを結局ぼんやりと見つめている。
「いつまでも慣れないか」
彼の指が目尻に溜まった涙の粒を拭う。それでベルタは、自分の視界がぼやけていることを自覚した。
「申し訳ありません」
「嫌だ。謝らないでくれ、虐めているみたいな気分になるじゃないか」
そうは言いながらまるで気分を害した様子のないハロルドはきっと、ベルタが困っている顔も楽しんでいるのだろうと思った。
ハロルドはその様子のままベルタを見下ろし、世間話でもするような軽さで問いかけてきた。
「……カシャから何か連絡はあったか?」
ベルタは、彼の言葉を理解するのに時間がかかった。
(今?)
それは今話す必要があることだろうか。
「特にございません」
「侍女を帰していただろう。南部から戻った侍女と長く話し込んでいたと聞くが」
というよりも、ハロルドはいったい何の話を始めたのだろう。
(ああ、これはもしかして、……まずいんじゃないの)
「侍女のリサは、彼女の妹の出産祝いのために返しました。彼女たちは私の母方の従妹でもありますから、母子の様子を聞いて労っておりました」
「親族か。侍女の中でも身分の高い者を出して、南部との連絡役に使うほど火急の事態が起きているのか?」
そうだった。
ベルタの宮の女官の中には、ハロルドの息のかかった者も紛れ込んでいる。きっとその中の誰かが先日の人払いを彼に知らせたのだ。
そのことを薄々察していたのに油断した自分も悔しいし、寝物語のような気軽さで言及されても。
「カシャが何を考えているのか、俺にはわからないが」
別に、普段ならばごまかせた程度の話だった。
けれど頭がよく働かない。考えようとすればするほど思考が酩酊していくような駄目な状況に陥って、苦し紛れのベルタは、その場しのぎの嘘をつかないことだけで精一杯だった。
「私もわかりませんし、目処もない孤軍奮闘に困っております。ですから、いつになったら出てきてくれるのかと、父に」
ベルタが色々と動いた上、カシャがまだ動かないことにまで確証を与えるような言葉を吐いている。
「そうか。外朝にいつまでもこれと言った味方がいないのは、足元が不安だろう」
「いえ、」
労っているようで、それらの言葉はただベルタを揺さぶって、更なる情報を引き出そうとしているだけだ。
どうしよう、もう何を聞かれても答えないようにしようか。ベルタは途方にくれて目を反らした。
ハロルドは十歳近くも年上の男だし、彼にとってはきっとベルタなど造作もない。片手間に抱けるし、ついでに仕事のことも考えられる。
ベルタが余裕をなくすのを見計らって問い詰めるような真似すら、彼はして見せるのか。
「……陛下は器用なお方です」
もう絶対信じない。ベルタは本気で癪だったし、こんな馬鹿馬鹿しい夜に泣きたくなくて下唇を噛んだ。
強く反発するのは、ベルタ自身の内心にも後ろ暗さがあるせいでもあったが、それを自覚できるような冷静さは持ち合わせていなかった。
「悪かった。この話はもう終わりにしよう」
ハロルドは会話の流れを切るようにベルタを強く抱きすくめる。
鼓動の音すら聞こえるような距離に、逆に緊張して全身が心臓になったようだった。
「やめるから、許してくれ。ベルタ」
許しを請うハロルドの声音は、睦言のそれでしかなかった。
ベルタが勝手に追い詰められて、容赦されて、永遠に彼のペースに呑まれてしまう。
「俺が嫌いか?」
どう反応しても面白がられ、全敗を喫しているだけのベルタは、段々本気で苛々してきた。
「……嫌いです」
自棄に近い気持ちで、彼を睨み上げる。
「あなたのそういう、余裕のところが、」
「ん?」
「なん、だか。永遠に、私の手に届かないようで」
ハロルドは一度目を反らして低く唸った後、ベルタの両手を掴んで、自らの頬に持って来させた。
その顔を自分から引き寄せるような格好になって、たぶんベルタはまた駄目だ。自分で自分の首を絞めた。
「君のものだ」
よく見ておくといい。ハロルドはそう囁いた。
「陛下、」
「ハロルドと呼べと言っているだろう」
それは最近、彼が夜だけ言い出すことだった。普通に無理だろう、この人を名前で呼び付けにしろと? 結局、ベルタはそれで何も言えなくなって黙り込む。
どうしようもない。誰に見られていることも気にしないような直情な彼の顔も、その美しい動作も、意識の向こうに追いやって、もうこれ以上の失態を上塗りしたくはなかった。




