【7】ニーナという女官2
ひとまずニーナからの申し出を預かって、余計な言動は取らないように言い含めてベルタは彼女を帰した。
「……お茶が冷めた。淹れ直して、それから手紙を書く支度を」
使用人たちは全員、何とも言えない顔をしている。
ニーナの非常識な行動に関して瞬発的に腹を立てるには、彼女たちはあまりに毒気を抜かれたようだった。
「かしこまりました」
「……まるで嵐のようでしたわ」
「ニーナに関してすぐに調べさせます」
ベルタ自身も今しがたの出来事に驚いていたが、彼女への対処法に迷う余地はなかった。
「お手紙をどなたに出されるのですか?」
「陛下よ」
ベルタは使い慣れたペンの穂先をインクに浸しながら答える。侍女たちにとってはその返答も意外だったようだ。
「……まさか今のニーナの申し出をお受けになって、そのままを陛下にお伝えするのですか?」
「そのまま伝えるというか。一応彼女も陛下の側室候補だもの。ご報告は必要でしょう」
「そういうものでしょうか?」
正直ベルタもこういう状況に立たされたことがないから、確認されれば自信はない。
「……さあ」
ここは後宮という、彼のための空間だ。速やかな報告・連絡・相談は少なくともそう的外れな行動というわけでもないだろう。
とにかくベルタは、ニーナという女官が訪れてどう主張していったかという一部始終を簡潔に書きつけて、表の王宮のハロルドのもとに直接届けさせた。
どうせ数日待てば彼はまたベルタの宮に来るだろうが、この手の内容が夜の寝室での話題に相応しいとは思われなかった。
ハロルドからの返書は早く、そして端的だった。
『ヒメノ伯爵の娘がそのような言動を取ったと知れ渡ると面倒なので、適当に黙らせておいてくれ』
意図を察しづらいほどに要点が凝縮された筆跡に、ベルタは困惑を隠せない。
そう言えば彼と書状でやり取りをするのはほとんど初めてだったと気が付く。
「陛下からのご指示はございましたか?」
いや。まあ、指示というか。
(これは、どういう意味だろう……。どっち?)
「ひとまずニーナを静かにさせておいてほしいというようなことよ」
彼女たちに内容を見せるか迷って、ベルタはやめた。
「でしたら、妃殿下へ非礼を働いたということで謹慎処分はいかがでしょうか」
「最近は後宮内に浮ついた雰囲気が蔓延しておりますし、示しをつけるためにも厳しく出たほうがよろしいですわ」
手紙の内容をそのまま伝えると侍女たちはもっと過激な方向に振れそうだった。
「もう少し穏便な方向性で考えてちょうだい。今はただでさえ外朝で、北部新興派閥が出張っていて大変なのよ。後宮が発端となって派閥抗争を刺激するような事態は避けたいわ」
進言を聞き流しつつ、ベルタは微妙に話題を反らす。
「……困ったことね。後宮内の保守派は粗方掌握したかと思えば、次がまた」
「さようにございますね。むしろ保守派という敵対派閥が弱まった影響の余波のほうが大きゅうございます」
侍女はベルタのごまかしには意識を向けず、神妙な顔で頷いた。
従来は保守と新興の対比で語られていた派閥間の抗争だが、実際のところ新興派閥も一枚岩には程遠い。保守派の権威が相対的に弱まれば、今度は別の問題に焦点が当たるようになった。
王侯貴族以外の、国民の大半を占める民族であるペトラ人は、もともと明確に南部と北部で住み分けられている。
民族や血統は完全に同じで、外見的な特徴の差はほとんどないと言って良い。
しかし、国土を大きく横たわる大河を挟んで二分するという地理的な要素のせいか、伝統的に民族としての同一性は薄かった。
「――ただでさえ、私どもは好きませんわ。北部新興貴族のペトラ人たちは」
ベルタは当然、生粋の南部ペトラ人だ。王都から遠く離れた地で独自の興隆を遂げた、南部最大領主カシャ一族の嫡女。
対して、外朝で新興派として幅を利かせている新興貴族の多くは、北部のペトラ人だった。南部出身はいまだ進出が遅れている。
この問題に関して何より厄介なのは、ベルタの優秀な侍女たちでさえ感情的な要素を抑えきれないということだ。
「第二妃時代には姫さまの背後に隠れ、南部やカシャの威を借りて吠えていた連中ですわ。そのくせ、保守派の脅威が去れば今度は即座に攻撃の矛先を南部に向けてくるとは」
「なんと品のない者たちでしょう。とにかくあの者たちは粗野で、とても貴族とは言えませんわ。成り上がりとはああいうことを言うのでしょうね」
侍女は南部の名門家系出身の者が多い。彼女たちは北部ペトラ人の近頃の専横にひどく鬱憤をためていた。
――ベルタが今はまだ外朝に対して強く出られない事情を、後から入った女官たちはともかく、南部の政情を熟知しているはずのペトラ人侍女が分からないはずがない。
にも関わらず彼女たちが純粋に憤慨しているので、どうにもやりづらい。
「まあまあ。あなたたちの言い分もわからなくはないけれど、新興貴族の派閥の中にも玉石混交よ。実力で身を立てて台頭した家もある」
「実力のある有益な実務官を輩出している家柄もありますけれど、全体として見ればあまりにもなっていない連中です」
「後宮に女官として出仕させる娘たちに、最低限の礼節すら叩き込めない派閥の者たちなど所詮は程度が知れるというもの」
全然悪口が止まらない。
ベルタは反論を諦めて、こっそり自身の腹心の侍女であるエマを探した。
しかし残念ながらエマは室内にはいなかった。ベルタの侍女の中で最も年長で落ち着いた彼女がいれば、盛り上がる同僚たちをきっとうまく諫めてくれただろうと思うが、近頃エマは王子さまの世話にかかり切りだ。
(内輪が固まり過ぎるのも良くないかもしれない)
ベルタの宮には今のところ、北部新興派閥の女官は仕えていない。
以前までは無視していられたが、昨今の情勢を鑑みるとそのあたりの問題にもベルタはそろそろ切り込まなければならないだろう。
「この宮に新しく雇い入れる女官は、北部出身からにしましょうか」
大して大きな声で宣言したわけでもないのに、室内にいた女たちは一斉に口を閉じてベルタに顔を向けた。
「……どうしてにございますか? 北部からなど、」
「あなたたちにあちらの女官と、それなりに仲良くしてほしいからよ。奥向きが想像だけでいがみ合っているのは無意味ね」
今は例の、遷都をめぐる一件で忙しい。ベルタ自身がずっと後宮に居られて、手下の者たちを押さえつけていられるわけでもない。ましてや代わりにお目付け役になってくれそうなエマやジョハンナはルイの世話で手一杯という状況だ。
「……申し訳ございません」
「責めてるわけじゃないわ。それにもともと、折を見て人員を増やそうと思っていたところよ。ルイもだんだん手がかかるようになってきたことだし」
侍女たちの気持ちもわからなくはないが、個別具体的な顔が見えないから余計に細分化していがみ合うことになるのだろう。
今のうちに手を打っておきたい。
「しかしベルタさま。新たに雇う女官の人選は、どのあたりをお考えにございますか?」
「後宮内に既にいる、旧来からの陛下の側室候補の女官からもらい受けるか。もしくは全く新しく後宮外から雇い入れるかね」
この人選が正直なところかなり難しい。下手な女官を入れて、その者が期待された職務を果たさないという展開になればどう考えてもベルタ側の使用人たちの反意が加速する。
「まあ。状況を鑑みれば、ニーナは入れるかな」
ベルタは名指しで先ほどの女官を例示した。
「えっ」
「本気でおっしゃっておられますか」
侍女たちは冗談ともつかないというような微妙な反応をする。だがベルタにしてみれば順当な提案だった。
「本気よ。問題を起こしそうな者は一番近くに置いて監視するのが楽だし。それに彼女、なんとなくだけれど、案外あなたたちと相性が悪くないと思う」
「えっ」
むしろ中途半端に正妻に擦り寄り、媚を売って見返りを期待するような、他の側室候補の女官たちよりはよほど好ましいとさえ思える。
困惑したままの侍女たちをよそに、ベルタはさっさとハロルドへの返書を書いてしまった。
『ニーナを、私の宮に仕える女官として貰い受けても構いませんでしょうか。不在時に後宮をかき回されても問題が生じますので、今度の視察にも帯同させます』
ハロルドからの返答は更に簡潔で、ただ一言『助かる』とだけあった。
(つまりこれは、……どっち?)
ハロルドは単に彼女に興味がないのだろうか。
それとも、戯れに手を付けたことでもあって、表立っての事態を避けたいという態度だろうか。




