【5】陛下と側近
『俺は別に寝不足ではない』
話の流れでそう問答していたものの、実際はハロルドの方も寝不足だった。
「陛下。……体調でも?」
「あ? ああ、」
朝から手が止まりがちな主人に対し、最初は様子を見て茶を出してきたりしていた側近だったが、心配しているというよりは注意するような口調だった。
「問題ない。こちらの裁可は終わった」
「午前中に目を通しておいて頂きたい資料があと二つほどございますが、五分休憩なさってください」
五分で目を覚ませと暗に言われているのを察したが、これに関してハロルドは不格好な言い訳を避けて無言で頷いた。
「まったく、それなりにいい歳なんですから、『体調管理』には気を付けてください」
ハロルドが黙ったのに側近は更に追い打ちをかけてきた。
「……おまえだって歳は同じだろう」
「私は自己管理ができておりますし、妻とももう長いですからね」
側近セルヒオが言外に見せる含みは、主人に苦言を呈したいのではなく単に軽口を叩きたいだけなのかもしれない。
「紆余曲折あってようやく迎えた新婚生活に水を差すつもりはありませんが、お若い妃殿下に引きずられてご自身も若いつもりのご無理はいけません」
「引きずられてもなにも。困りますと言われたぞ」
ハロルドは今朝の妃殿下との会話の一部始終を思い出し、側近に白々しい目で見られているのも忘れて耐えきれず笑った。図らずも、彼女から今夜もいらしてくださいというような言葉を引き出したのは初めてのことだった。
彼の妻であるベルタは、近くに接してもやはり折り目正しい女で、意外なほど素直だった。
以前までのハロルドは、異郷から来た第二妃という存在に対して少し苦手意識を持っていたかもしれなかった。けれど生身の人間としてのベルタは単に可愛らしい。
本来的に彼女はきっと、懐深く情の豊かな女だ。
……今のところその情がハロルドに向いているとは思えないが、それを踏まえた上でも隙だらけなのだから、乗じるなというほうが無理がある。
彼女がハロルドのすることに対し、何を考えているのかだいたい理解できるというのは、長年後宮関連の諸問題に倦んできた彼を癒した。
新しい妃と始まった関係にハロルドは思いもかけず充足を味わっている。
「貴方のほうが案外しっかり夢中になるというのは、意外でした」
セルヒオが実際意外そうに呟くので、ハロルドは顔に張り付きかけた笑みを収めて顔を上げた。
「俺のほうが?」
彼の発言の真意を読みかねた。
「妃殿下の側には、陛下を留めておきたい動機があるでしょう。南部からしてみてもまだまだルイ王子の同母兄弟が欲しいでしょうし」
指摘されて目から鱗といったところだった。
「何より、保守派の圧力の消えた後宮では新興貴族出身の女官たちへの手出しが解禁になっているわけですから、妃殿下がご自身の元に陛下を繋ぎ止めておきたいと思われるのも順当な流れかと」
外朝は少なからず、奥向きをそう見ているのだろうか。なかなか世継ぎに恵まれず、次々差し出されるまま愛妾を設けていたハロルドは、散々な評判を抱えている。
「側室候補の女官に自分から手を付けたことはないし、そもそも既に後宮は後宮の様相を呈していないことは知っているだろう」
ハロルドは元々、ただ一人の伴侶と寄り添う宗教観を是として抱えている。華やかな後宮を所有したこと自体、世継ぎを設けるための苦し紛れの政策であって、少しも彼の本意ではないのだった。
「おそばにお仕えする私どもは存じ上げておりますが、女官の父や兄たちが現状をすべて把握しているわけではありません。彼女たちが生家に何を命じられても不思議はないということです」
後宮の女官たちは、ハロルドの目に留まることを想定して送られてきているだけあって見目もよく教養もあった。
ハロルドは王子ルイの誕生前後から細々と、彼女たちに婚姻を斡旋するなどして人材の流出を図っていた。その一部は保守派と新興派の融和政策に大いに役立っている。
だが、後宮からの下賜という形を取る以上色々と邪推されるし面倒も多く、未だに後宮内には婚姻政策に使い道のある若い女たちが滞留しているような状態だ。
「どのような策を巡らして来られようが、あの者たちを側室にする気はない」
ハロルドは断言しつつ、そういえばベルタから、繋ぎ止めておきたいというような態度を感じることはなかったなと思い起こしていた。まだこうなってからそれほど時間も経っておらず、感覚としては新婚に近いから気にしたこともなかった。
今夜も来るように言われたが、あれは流れからしてハロルドが言わせた言葉であって、額面通りの意味合いではない。
ベルタは夫の元側室候補たちについてどう思っているのだろうか。後宮にいるペトラ人女官たちは彼女がたいてい掌握しているから、女官たちが動けば気がつかないはずがない。
「新興派閥の女官にはベルタが対処するだろう」
「ですが、新興派閥も一枚岩ではありません。ペトラ人派閥すべてが妃殿下に迎合しているわけではありませんし」
「……それもあったな」
正直なところ、新興派閥が細分化していがみ合い始めた現状に、ハロルドや側近は予想外に手間取っている。
「南部と北部か」
中央と長年没交渉のまま、独自の興隆を遂げているのが南部諸侯だった。
一方で、大河以北の庶民階層から徐々に力を付けてきているのが、北部新興貴族たち。
北部新興貴族たちは、以前までは対保守派との争いの中でベルタを祭り上げていたが、ここに来てベルタと微妙な距離を取り始めていた。
「南部出身の妃殿下が台頭する中で、南部諸侯のみが優遇されて北部の新興階層に旨味が来ないことを危惧し始めたのでしょう」
「だからと言って後宮で問題を起こされてもな」
「この問題に関しては妃殿下任せではなく、陛下自ら対処なされるのがよろしいかと存じます」
即位以来連れ添った正妻の失脚に伴い、ハロルドの治世は今、ひとつの転換期を迎えている。
そして新たな体制で回り始めた王宮はまだ、表も奥も盤石とは言い難かった。




