【4】暴君
ルイ王子は最近、言葉をよく話すようになってきた。
彼が一番多く発するのはもちろんというかなんというか、母親であるベルタを呼ぶ言葉だ。
「おかあたまっ」
彼はお世話するジョハンナや侍女に対して激昂すると、すぐにヒステリックに母親を呼ぶ。
「やっ!! おかあたまいいの」
「王子。お着替えしたらお母さまにお会いできます」
「やっ!!!!」
「はいはい、こちらにお着替えしましょうね」
ジョハンナが全く戦力にならない横で、手慣れた侍女が暴れる彼をあしらって手品のような手際で着替えさせていく。
ジョハンナよりも一回り以上年上の、エマという名の侍女は、彼女たちの主人ベルタが最も信を置く腹心の一人だった。
エマは年齢不詳で、何歳くらいなのかジョハンナは全くわかっていない。
以前、幼児の世話に慣れている経緯を聞いた時に、彼女はいかにも冗談らしい様子で「私はベルタさまのおしめも替えていますからね」と言っていたことがあるが、さすがにそれは嘘だと思っている。
エマに強引に着替えさせられて不機嫌になったルイは、さっさと母のもとに連れて行けと言うようにジョハンナに体当たりをして呻いている。
「今朝も助かりました。エマさん」
「いいえ。王子をお連れして構いませんよ」
ルイ王子は乳母であるジョハンナに懐いてはいるが、全く言うことは聞いてくれない。これに関してはジョハンナ本人を含め、宮の周囲の人間も早い段階で諦めていた。
やる気がないわけではないが、人には向き不向きというものがある。
後を侍女に任せて、ジョハンナは王子を抱き上げた。王子は母に会わせてもらえるまでもう一言も喋らないと決めたように、黙ってジョハンナにしがみついている。
「王子。お母さまに朝のご挨拶に参りましょうね」
同じ宮に住んでいるベルタの居室に向かうと、そちらはまだ慌ただしい朝の支度の最中だった。どうやら今朝も国王陛下がいらしていたらしい。
もう少し早く来れば王子は父君ともご対面できたようだった。
「かあ!!!!っ」
室内に母の姿を見とめるなり、王子は熱の入った叫び声を上げた。
ベルタは脱兎のごとく駆け込んだ彼を危なげなく抱きとめる。彼女の細腕は毎日どんどん重くなる幼児の体重を支えた。
「ルイ。どうしたの。おはよう」
「やっ!」
「やなの?」
ベルタが手づから世話を焼いたとしても、王子はそれはそれでぐずるのだが、とにかく今は母親から長く離れているのが嫌らしい。王子はお母さまの腕の中で甘えた様子だった。
「やっや。いっしょ、い」
「一緒ね。わかった、帰ってきたら一緒にお昼寝しましょうね」
帰ってきたら、とベルタが言ったことでジョハンナは室内の慌ただしさの理由に気が付く。
単に朝が遅かっただけではなく、彼女は外出を控えているらしかった。
「午前中はどこかにお出かけになるのですか?」
「ええ。市街の商会に呼ばれてるの」
最近、彼女たちの主人は忙しい。
都が引っ越すという感覚は、遷都を経験したことのない世代であるジョハンナにとってはよく分からないものだ。
だが想像するだに大変な大仕事だということはわかるから、その局面に王妃殿下として関わることになったベルタがとても忙しい理由は認識している。
「今度の視察に関する擦り合わせ」
「ここのところお忙しゅうございますね」
彼女の多忙を、ジョハンナたちは理解できるものの、まだ二歳と少しの王子が理解できるはずもない。
ベルタは出立までのわずかな時間を我が子の相手をして過ごし、そっとジョハンナの腕に戻した。
「ごめんね、ルイ。すぐ帰ってくるから」
「ベルタさま。今のうちにどうぞ」
ジョハンナはさっさと王子を受け取って、王子が気が付かないうちにベルタを送り出そうとした。
「じゃあ後は頼んだわ、ジョハンナ」
この後うんざりするほど王子の癇癪に付き合う覚悟を決めながら、ジョハンナは神妙に頷いた。




