【2】駆け引き
そういえば部屋の明かりは誰が暗くしていったのだろう。
普段ベルタが一人で眠る時は明かりは消してしまうし、ルイを寝かしつける時はもっと明るい。暗くすると夜中に目を覚ましたルイが泣くからだ。自らの宮の侍女たちの優秀さを図らずも実感する。
取り留めもない自覚もないまま、ベルタはあれこれと考える。
そういえばルイは今頃どうしているだろうか。冬の間は彼の寝付きの悪さに悩まされたが、温かくなってからはすっかり眠りが早い。もちろんもうとっくに眠っているだろう。
ベルタが一緒に寝る日もあれば、乳母が寝かしつける日もあるので、ベルタがそばに居なくてもあの子にとって特段の違和感はないだろうけれど。
「――何を考えている?」
汗で額に張り付いた前髪もそのまま、彼は隣で普段より緩んだ雰囲気を見せた。
知らない。ベルタはもう疲れて眠りたかったし、せめて服を着てから話しかけてほしい。
目は冴えているのに思考が妙に緩慢で、彼に話しかけられたことを後追いで認識しながら、考えていたことがそのまま口に出た。
「ルイのことを」
しかしハロルドに変な顔をされたので、何か失敗をしたらしい。
「……ベルタ、君は良い母親だということは知っているが」
「いけませんか?」
「いけないことはない。ないが、君の息子は羨ましいな」
彼はわずかに嫌みっぽい口調でそう言って、それでもなおも機嫌が良さそうにベルタの髪に触れて指を通した。甘く溶けたような、最中の雰囲気を残した笑みの形の唇が近づいて、そっとベルタの額に触れた。
ああいうことがあった直後、ろくに目も合わせられないような気持ちなのは、きっとベルタだけだ。
できるだけ彼の視界に入りたくなくて寝具の中に潜り込むのに、そうしてみてもハロルドの視線はこちらに向けられたまま止んだ気配がなかった。
(なんなの。知らない人みたい)
実際にベルタは、考えてみれば夫のことをそこまで知っているわけではなかった。
結婚三年目とはいえ、一緒に過ごした時間はあまりに短い。ましてや公務と関係のない個人的な時間を過ごす機会などほとんどないようなものだった。
それがいきなり、これからは違うのだと言わんばかりの態度。
ベルタが困惑したままでも彼は特に気にならなかったらしく、そのまま寝台に寝転んで、枕の定位置を探っている。
「まあ、いい。君の最愛の息子と張り合えるとは思っていないよ」
「お帰りにならないのですか?」
「朝になったらな」
このままここで眠るつもりだろうか。
その場合ベルタは下がって良いのだろうか。いや、おそらく駄目なのだろうが。そもそもここはベルタの部屋で、この寝台以外に眠る場所もない。
心の中だけでこっそりため息をついて、もう一度掛布を頭の上まですっぽり引き上げた。
*
ハロルドが突然ベルタの宮に通い出して、もう一ヶ月ほどになる。
当初、それは宮のすべての人間にとって非常事態だった。特に最初に彼が泊まった翌朝の、女官たちの慌てぶりはベルタを冷や冷やさせた。
彼女たちはベルタの宮の、女ばかりの気楽な宮仕えにすっかり慣れていた。
それがいきなり、朝から国王陛下の御前に出て朝食の給仕をするという大仕事だ。正直なところ彼女たちは、ハロルドがベルタのもとに渡って来たという事実にとても浮かれていたし、同時に緊張もしていた。
早朝から化粧の力加減を間違えた女官たちの、鮮やかすぎる口紅の色に、ベルタはげんなりして食欲を減退させたのをよく覚えている。
ハロルドは普段を知らない分特に違和感は覚えなかったようだ。というよりも、彼は女官の身支度にいちいち気を向けるような性格ではないかもしれない。
あの慌ただしい朝から一ヶ月ほど経ち、流石に今朝はもう、女官たちの様子は落ち着いたものだった。一緒につく朝食の席も随分と日常の雰囲気を帯びた。
「今夜も来るよ」
一方で、ハロルドが次の予定を言ってくるのは通いだしてから初めてのことだった。
今まではそれなりに間を空けて通ってきていたのに。
「困ります」
ベルタは普通に断った。
素知らぬ顔で朝食を給仕していた女官たちが、聞き耳を立てながらうっかり手元を誤りそうになっていたが、ベルタとしてはそれどころではない。
「どうして?」
彼は朝食からしっかり摂る人だということを、こうなって初めて知った。ベルタのほうは元々朝はほとんど食べない。彼が来ている時は付き合いで少しは口を付ける。
ハロルドが帰るまで間が持たないからだ。
「……ただでさえ、王妃として増えた仕事や、今度の遷都案にまつわる支度で忙しいというのに。連日来られては寝不足です。恐れながら陛下も今は、私などよりよほどお忙しいでしょう」
「俺は別に寝不足ではない」
それはそうだろう。ベルタが寝不足なのは単に、彼が隣にいるとよく眠れないせいだ。
実際、寝不足の責任はハロルドにはないということはわかってはいる。けれどベルタは、彼の最近の態度に関して少々変わり身が早すぎないかと呆れてもいた。
例の事件があって、それまで彼の正妻であったマルグリットが失脚したのは冬頃のことだ。
入れ替わるように実質的な正妻の座に就いたベルタは、本人としては後妻に収まったという感覚が一番近いかもしれない。
あれから半年あまり。彼なりに整理がつくまでの期間は置いたのだろうが、その期間の長短などベルタの知ったことではない。
困っているというのは、掛け値なしに単なる本音だった。
どう断れば彼は気を悪くせずに予定を変えてくれるのだろう。何もかも不慣れな女がそんな手管を知っているはずもない。
「この時期に、もし子供でもできたら困ります」
今度は女官たちだけでなく、ハロルドも手元を誤った。朝食のハムを切り分けていた手が止まって空気が死んだ。
「…………誘ってるのか?」
「違います!」
彼の反応に、たぶん失敗したことに早々に気が付いたベルタは、朝から妙な雰囲気になってしまった会話に気が付いて赤面した。もう朝食はいいから席を立ちたい。
けれど、彼は何事もなかったかのように食事を再開しながら何やら思案顔になっている。
「確かに、遷都に関する視察には君も同行させることになっているが。王宮の移転は一代にそうそうない大事だからな。これを機に南部の意見も取り入れておきたい」
正確にはベルタを通して南の意見も聞いたという姿勢を取っておきたい、が本音だろうが、流石に今混ぜっ返す気にはならなくてベルタは黙っていた。
「だが王妃の体調よりも優先するような事は何もない。もしそうなったら早めに知らせてくれ。日程を変えるか、南部の諸侯や君の女官に代替させるか……」
「もう、分かりましたから。そういうことではないですから、この話はやめにして、今夜もいらしてくださいませ」
話を遮って終わりにさせるという非礼を働いたが、ベルタの余裕のない態度を見て、ハロルドは少し間を置いてくすりと耐え切れなかったように笑っただけだった。
「……なんですか」
「いや、何でもない」