【4】思惑違い
「ベルタが身ごもった?」
後宮事務官からもたらされたその報告は、その日王宮深部に驚愕をもたらした。
「なんと!」
「まずはおめでとう存じます陛下」
「喜ばしいことではございませんか。陛下にはまだお世継ぎはもちろん姫君もいらっしゃいませんし」
現国王に健康な実子がないことは、国王の最側近たちにとっては最大の政治課題とすら言ってよかった。若く優秀な彼らの国王が、しかし子がないという一点の事実のみをもって欠陥のある王として歴史に名を残すことが我慢ならなかったのだ。
たとえ正妃の子ではなくても、たとえ、御子の母親が王家にとって異質の出自であっても、少なくとも国王にただの一人も子がないという現状を脱することができるかもしれない。無事に産まれさえすれば良いのだ。
そうすれば、彼らの国王が種無しでは、と揶揄されることもなくなる。
側近たちは浮つき見せる一方で、ハロルド本人は存外に冷静に見えた。執務机の上に広げかけていた書類から一旦手を離し、考え事でもするかのように宙に視線を彷徨わせると、やがて首を傾げた。
「それは本当に俺の子か?」
「……それは、もちろん。第二妃の挙動は王宮のしきたりとして女官が管理しておりますし、当然ながら時期の計算も合います」
事務官の目をかいくぐれるほど後宮の統制は甘くない。それをわかっていないはずはない国王だったが、彼がそれほど動揺するのも無理はなかった。
「時期、時期か。……だが、あの時期のほんの数度だ。子を授かるように祈りを捧げてもいない」
「関係ありません。やることはやったのだからできる時にはできるものです」
「そもそも俺はベルタ・カシャに子を産ませるつもりがあって通ったわけじゃない」
ハロルドは、胸の内に広がっていく素直な喜びを、自身の侍従たちの前ですら表現して良いものか分かりかねていた。
十五年。十五年だ。彼が成人して生殖能力があると見なされてから今日まで、いっそうんざりするほど「国王としての義務」を求められてきた。
だがそれだけではない。子がないということを過剰に注目され続ける中で、ハロルド自身もごく平凡に、人の親になってみたいという欲を心の中で育てていた。
「なんとまあ、面倒な」
はじめに切望した正妃マルグリットとの間の子ではない、伝統的貴族の娘との子でもない。
だがそうだとしてハロルドの子には違いなかった。つまりペトラ人の子として産まれてくるその子は、王家の直系だ。
「姫ならまだしも男児だったら」
ハロルドは国の盟主としての、その政策の方向性すら左右されることになる。
次代を混血君主に渡せるほどに国内ペトラ人勢力との融和に向け、大きく舵を切ることになるのか。
考えなければならないこと、打たなければならない手は無数にあった。
ハロルドはふと、彼が庶子として生母の腹に宿った時の父王も、今のハロルドと同じ気持ちだったのかと考え、そして自分のあまりの早計さに自嘲した。
わかってはいるが、気がはやる心を押さえつけるのは難しいことだった。
王家にとっても予想外の第二妃の懐妊騒動ではあったが、この一件で予定を狂わされていたのは、カシャ一族とて同じだった。
老獪で真意が読めないと中央に疎まれがちなカシャの現当主だが、実際のところ中央とは適度な距離で関わっていく以外の思惑も野心も、今回に関しては持ち合わせていなかった。
反逆の徒としてやり玉に上げられたら面倒なので、人質としても機能する自身の嫡女を現国王の後宮に入内させた。
彼が娘に期待していたのはあくまで王侯貴族と適切な距離を保つことであり、娘が産む子を足がかりに外戚として中央政治に参入するような野望はまるでなかった。
ベルタはもちろん父の意図を察していた。
万が一にも娘が国王の寵愛を得ることを期待していたのなら、一族はベルタではなく、多少格が下がっても愛嬌のある異母妹を選択するはずだ。
ましてや子を産ませるつもりだったのなら、圧力をかけて王族筋の正妃を廃させ、カシャの血筋の娘を正妻の座に押し込むくらいの裏工作はしただろう。
つまり現状、嫡出でもなく、やる気のある外戚も持たずに産まれてくるこの子の立場は非常に中途半端だ。
懐妊を伝えたすぐ後に届いた父からの手紙には、母子の健康を優先して体をいとうようにというねぎらいの言葉が書かれていた。
予定を大きく崩されているであろう父の真意は読めないが、こうして私信を送ってくれるあたり、ベルタの婚家である王家の人間よりもよほど思いやりが感じられる。
「まあ陛下も、周囲があれほど熱望するご自身の御子がまさかペトラ人との混血になるなんて、考えていらっしゃらなかったでしょうね」
王宮に来るまで、ベルタは国王の後継問題がこれほど深刻化していることを知らなかった。
王家と距離を置いていたカシャにとって、国王の直系が繋がろうが傍流にすげ替えられようが、大した関心はなかったのだ。遠い王宮の内部で起きる権力闘争など所詮は他人事だった。
「けれど、私だってまさか、私の子どもが王子か王女として産まれてくるなんて考えてもみなかった」
それは仮にも妃として後宮に住まう女の言い分としては失格であったが、考えてもみてほしい。
夫と妻などとは名ばかりで、儀礼的な夫婦関係以外は一切の関わりのない国王など、もはや他人と変わりない。
後宮内で会えば必ず力の限り嫌味を言ってくる女官長などのほうが、ベルタの基準ではよほど近しい知人という感じがする。
そのくらい完全に王家に対して無干渉を貫いていたベルタだが、懐妊を機におそらく、一気に王家の最命題の矢面に立たされることになるだろう。既にベルタの周囲の環境は変化を強いられている。
後継者問題。古今東西これで揉めない家など存在しない。
ましてや今の王室は、周囲を見渡せばいくらでも火種が燻っているような状況だ。
そんな炎上する王宮の中心に、ベルタは明確な味方もなく我が子を投じることになるのか。
(私自身はまだいい。何があっても、自力で生きていくことができる立場だけれど……)
まだ産まれてもいないこの腹の子は、どれほどの運命を背負うことになるのだろうか。
――国王ハロルドの第二妃ベルタ・カシャは、月満ちてのち、王家に待望の男の子をもたらすことになる。
早産や死産ばかりを経験していた王宮に、小さな雷鳴のような産声を響かせたその子は、母方の健康な血を受け継いで五体満足に生まれ落ちた。
運命の王子。彼が史実にどのように名を刻むことになるのか、今はまだ誰も知らなかった。