【1】三年目の夏
(2巻あらすじ)
結婚から三年目の夏。
実質的に王家の女主人の座を手中に収めたベルタは、夫と改めて向き合う日々に戸惑いつつも、王室の抱える諸問題に行き当っていた。
夫・ハロルドとの私的な夫婦関係と、南部最大領主の姫であるという意識の板挟みに合いながらも、ベルタは王妃としての初仕事で「遷都」という国家の一大事業に携わることになる。
腰掛け気分で王家に嫁いだ頃とは違い、今や将来の国母となることがほとんど確定したベルタは、その強い立場から王国の過渡期を見つめる。
――私たちの都に、この先ずっと、不断の富をもたらすために。
薄明りの中で見上げる彼の顔は、ぞっとするほど美しかった。
そんな彼の瞳に映る自分が、なんだか突然惨めに思えて、泣きたくなるほど。
王都は、短い真夏の時期に差し掛かっていた。
いつも通りの一日が終わりかけ、ベルタは自室で侍女に、軽い用向きの手紙を代筆させていた。
懇意にしている南部商人への私信は大した内容でもない。代筆の侍女との会話はほとんど雑談になっていたところだった。
「……外が少し、騒がしゅうございますね」
筆を執っていた侍女が、少し怪訝な顔をした。
ベルタも長椅子に深く腰掛けたまま、ふと窓のほうに視線を向ける。風を入れるために開け放たれている窓は、カーテンを引かれて外は見えないものの、宮の外の気配は伝わった。
様子を見て参りましょうか、と侍女が腰を上げかけたその時に、慌てた様子の女官がベルタの私室に飛び込んできた。
「ベルタさま! ……陛下がお越しでございます」
ほとんど走り込んできたと言ってもいいような女官の勢いに、就寝前の緩慢な時間を過ごしていたベルタは気圧されて呆気に取られた。
「え? 陛下がいらしているの?」
「さようにございます。お通ししてもよろしゅうございますか」
ベルタが何か答ようとするよりも早く、室内で代筆していた侍女が食い気味に返答する。
「もちろんですわ」
侍女は慌ただしく立ち上がると、たった今書いていたインクの乾ききっていない用紙を構わずぐしゃぐしゃに丸めた。
「え、フェリパ、」
「後で書き直します」
主人の言うことを全く聞く気がなさそうな侍女はそう口早に言い放ち、文具一式をさっさと片付け始める。
その間、ベルタがしたことは、身を預けていた長椅子から立ち上がり、多少室内をうろつくことくらいだった。
「突然訪ねてすまなかったな」
陛下――ベルタの夫でもある、ハロルドは、女官に先導されてすぐに部屋にやって来た。
「いえ……」
ベルタは目も合わせられないで、視線だけを躊躇いがちに彼の足元に流していた。
彼もまた、寝支度を整えたような姿で、いつかの冬の夜のように話だけしに来て帰るような気はないのだろう。
「御前失礼いたします」
「おやすみなさいませ」
慌ただしくいなくなってしまう女たちを呼び止める間もない。
そもそも呼び止めたところで、白々しい雰囲気が多少続くだけだという程度のことは、ベルタだってわかっていた。
一瞬前までの喧騒が嘘のように静かになった室内で、ハロルドはそう間を置かずに口を開いた。
「ベルタ」
近頃、表の用向きで外朝では彼とよく顔を合わせている。けれど二人きりの寝室で見るその顔はまるで知らない男のようだった。
「ベルタ。……こっちに」
苦笑しながら漏れるような、彼の声音は聞きなれない。
ベルタに触れ、手を引いて、寝台に座らせたハロルドの動きには淀みがなかった。
そりゃあ、彼は慣れているだろう。今のベルタのような煮え切らない女への対応も。ここは後宮で、彼はそのすべてが許される国王陛下だ。
「そんなに困らないでくれ。嫌だったか?」
そのまま寝台の横に跪いて、ハロルドはベルタの顔を見上げるように覗き込んだ。
彼のほうこそ少し困ったような、それでもまだまだ余裕がありそうな、笑みの形を浮かべている口元が目に入る。
「いえ。けれど、突然いらしたので」
「言わずに来て正解だった。人づてに申し付けていたら、夜になるまでに君はもっと色々考えすぎていただろう」
なぜハロルドにそこまで性格を把握されているのかわからない。
彼の手が、普段着の寝間着一枚しか身に着けていないベルタの膝の上に置かれていて、それだけに意識が絡めとられてベルタは動けなくなっていた。
「性急なつもりはないが、君とこうして関わるようになってから、もう随分経つ。それに俺たちは、神に許された夫と妻だ。……もちろん神のご意思よりも、俺にとっては君の気持ちのほうが大切だが」
彼はまだ待つつもりはあると言っているのだろう。
けれど、多少時間を稼いだところでそれは現状と何か変わりはあるだろうか。今夜でもそのいつかでも変わりないという、無駄に合理的な考えが脳裏に浮かぶ。
なぜなら自分たちは夫婦だから。三年前の政略的な結婚の時期とは違い、実際の意味で共に生きていくと誓って夫婦になった。
「いえ……」
ただ、もう口が回る気がしなかった。靄がかかったような重たい思考を動かすのが億劫で、ベルタはこのまま会話を放棄してしまいたかった。
「ただ、私は……」
室内のわずかな明かりを反射して、間近で覗いた彼の瞳は仄赤く揺らいで見えた。
こういう時にどうすべきか教わったのは、もう随分前のことだ。
けれど彼と結婚した当初の三年前、当時だって大したことは教わっていない。――要約すると女は何もしてはいけない。ベルタは人生でそんな要領を得ない教育を受けたことがなくて、とても動揺したことを覚えている。
動揺と困惑で潤みかけた目で、それでもハロルドと目を合わせた。
それくらいしか合意を示す手立ては思い浮かばなかった。
「ベルタ、」
彼は数秒で正確にベルタの意図を察したらしかった。
精巧な造り物めいた切れ長の瞼が揺れる。ベルタを視界の中心に捕らえたような彼が、表情の色を少しずつ変えていくのも、そっと抱きとめられるのも、現実に起こり得た出来事とも思えなかった。
それから先は、三年前をなぞるような夜だった。
当時とは違い、ベルタはこれから何が起こるのかを理解していたし、理解している分だけ厄介だ。
違うこともたくさんあったような気がするが、同じように苦しかったし、早く終わればいいと思った。
ハロルドはやはり得体の知れない男のようだった。